74 惟任の後悔
「こちらに、お連れしたい女性がいます。」
曽我惟任は胡座をかいて、両手をつき、目の前の主に頭を下げた。
主、平賀朝雅は、豪快な性格そのままに、大きな目を、これでもかというほど丸く見開いて、あんぐりと口をあけた。
「えーっ・・・と、なんだ?惟任が、妻でも迎えたい、ということか?」
「いえっ、そういうわけではっ!!」
慌てて、顔の前でブンブンと手を振って否定して、
「そういうわけではなく・・・困難な状況にある女性で、こちらで庇護できないかと・・・」
惟任は、慎重に言葉を選ぶ。今まで、千鶴のことは、朝雅に伝えてこなかった。おかしなふうに受け取られて、話がややこしくなってはいけない。
すると、朝雅は、
「ははぁ。例の白拍子のことだな?話してみなさい。」
「ご存知・・・でしたか。」
さすがに、侮れない主だ。
「惟任が、私に頼み事をするなど、今まで無かった。お前には、いつも無理をお願いしている。できる限り、力になろう。」
「ありがとうございます。」
惟任は、深く頭を下げると、今、千鶴の置かれている状況について、掻い摘んで説明した。
無論、今朝早く、権中納言の藤原房親が謀反の疑いで捕縛されたことは、朝雅も承知している。
「あれは頭中将の専横だ、と私は思っているのだが、帝の許可を得ている以上、口を挟めぬ。」
その藤原房親のところに頻繁に出入りしていた白拍子として、千鶴の名があがっている、というのを、惟任が耳に挟んだのは、本当に偶然だった。
里下がりをしている唐錦に、用事があるからと呼ばれ、権大納言邸に向かう途中、そこらで捜索している近衛の舎人たちが話しているのを聞いたのだ。
口の悪い男たちが、「中納言の妾」などと言って嘲りあっているのを、湧き上がる怒りをこらえながら、さり気なく近づいて、気配を消して聞いた。
それによると、近衛府がーーーというより、頭中将が、その白拍子に関心を寄せており、詳しく話を聞きたいといって、探しているらしい。
惟任は、そこまで聞くと、慌てて引き返して、この主のところへと、駆け込んだのだ。
「本来であれば、近衛に出頭するべきなのでしょうが、この件について、頭中将が陣頭指揮を取っている以上、それは避けるべきです。わざわざ白拍子一人に狙いを定めて探すのは、他の、何か隠れた目的があるように思えて仕方ありません。」
名もなき白拍子が世間から、一人消えたとて、誰も気にする者などいないのだ。
「その白拍子、この六波羅にて、匿うことはできないでしょうか?」
惟任が、「お願いします。」と、両手をついて、地面に擦りそうなほどに頭を下げる。
こんなにも真剣に何かを願い出たのは初めてだった。
「・・・・・頭を、上げなさい。」
朝雅が、ため息混じりに言った。
惟任がゆっくりと身体を起こす。どこから取り出したのか、朝雅の手には、文が握られていた。
「安倍公賢どのからだ。」
「公賢・・・どの?」
「内容は、惟任が言ったことと、だいたい同じだ。」
「私と、同じこと?」
朝雅が、大きく頷く。
「頭中将が、たかが白拍子を探す目的が、不明瞭だと言っている。此度の謀反、中納言たちの血判状が見つかっている。別に、仲介した連絡係が誰であれ、彼らの罪の真偽には関係ない。ましてや、本当に捕まえて証言させようとすれば、おそらく千鶴とやらは否定するのだろう?」
「当たり前です!」
千鶴が謀反になど、関わっているはずはない。ただ、その証拠を示すのは、とても難しい。
「であれば、捕まえたって、何の意味もない。むしろ、徒に騒ぎを大きくし、結局、力尽くで口を塞ぐことになるかもしれぬわけだ。」
その言葉に、惟任の腹の奥底がカッと燃えた。怒りが、またたく間に全身に伝播する。
「落ち着きなさい。」
いつも快活な主の、珍しく、低く冷静な声が、その怒りに水を差す。
「そんなに殺気を出すな。惟任にしては、珍しい。」
呆れた中に、物珍しさが混じったような表情をする。
「いずれにしても、その白拍子は、こちらで保護する。公賢どのからも、そう依頼された。」
朝雅が、惟任の前に、畳んだ紙をそっと置いた。豪放磊落な性格に反し、こういうものを投げて寄こさないのが、この主の性質だった。
惟任が、「よろしいですか?」と、手にとって中を検めると、公賢本人に負けず劣らず、流麗な文字で、藤原房親と千鶴の関係、さらに千鶴をここに匿って欲しい旨が書かれていた。
「公賢どのが、ここまで言うのだ。ただの白拍子では、ないのだろう?」
惟任が、しかと頷く。
そうだ。ただの白拍子ではない。
公賢が、千鶴に抱いている特別が何かは、分からない。たぶん、何か事情があるのだろう。
でも、そんなことなど関係なく、惟任にとっても、ただの白拍子などではなかった。
特別で、守りたい人。
「ここに、連れてきなさい。」
朝雅の決断に、惟任は両手をついて、深く感謝の意をこめて、頭を下げた。
◇ ◇ ◇
日が暮れた頃、権大納言が、唐錦の部屋にいる千鶴を尋ねて、やって来た。
「予定通り、我が家の周辺の警備は解かれたようだ。」
近衛少将が、権大納言邸を辞するとき、夕刻までには屋敷を囲っている近衛を引き上げると告げていたらしい。
その言葉通り、警戒の解かれた邸から、千鶴を逃がす算段について、話し合っていた。
「もうすぐ惟任どのが迎えにくる。千鶴は、ここを出た後、六波羅の預かりとなる。」
「六波羅・・・ですか?」
「惟任どのの仕えている、京都守護、平賀朝雅どののところだ。」
京都守護は、帝を監視するのが陰の使命だと言われている。そんなところに、自分が逃げ込んでいいのだろうか。
そう思い尋ねると、
「だからこそ、だ。近衛といえど、おいそれと手は出せぬ。ましてや、近衛の右中将には、源実朝どのがいる。御本人が京にいないとはいえ、京都守護は、実質、その代わりを担う組織だからな。」
権大納言は、「話は、もう通してあるから、安心しなさい。」と告げると、
「あとで、惟任どのにも礼を言いなさい。」
また惟任、だ。
千鶴は、「迎えに行く」と書かれた、力強い手蹟の手紙をギュッと胸元に握りしめた。
私は、いつも、いつも、この人に助けられている。
それから、権大納言が千鶴を気遣うように、
「さて、どんな着物でも用意できるが、どうする?」
千鶴が驚いて、
「来たときの小袖を着ます。」
と返すと、
「小袖ならば、新しいものを用意できるが?」
「いえ、着慣れているもののほうが、動きやすいので。」
「わかった。他に、入り用のものはあるか?」
千鶴は首を横にふった。
「六波羅に移ったら、私も手出しできない。何か困ったことがあれば、ここにいるうちに、言いなさい。」
「ありがとうございます。」
権大納言が一旦、退席したのち、千鶴は、権大納言家で借りた上等な着物から、ここに来るときに身に着けてきた、慣れた小袖に着替えた。唐錦が側に寄ってきて、
「千鶴。謀反の疑惑は、父上や公賢どのが、必ず晴らしてくださる。私も内裏に戻ったら、それとなく情報収集してみるから。」
千鶴の手にそっと触れた。
「どうか、無事でな。」
「ありがとう。姫も、あまり無茶なことはしないでください。」
優しく添えられた手が、「分かっている」と、応えるように強く握られる。
この姫は、本当に強くなった。
出会ったときは、幼く、他人に依存していた娘が、今は千鶴を助けようとしている。
「そろそろ、ゆくぞ。」
権大納言が、再び、呼びに来た。
立ち上がると、スッと伊予の命婦が、手をついて、深く頭を下げた。
「どうぞ、ご無事でお戻りください。唐錦の君とお待ちしております。」
「はい。ありがとうございます。」
この人も、悪い人ではないのだ。主人想いで、心から大切にしている。阿漕と一緒だ。
自分は、この人たちの恩義に報いなければいけない。絶対に、このまま捕まったりはしない。
頭中将の思い通りにはさせない。
そう、心の中で誓うと、皆にお辞儀をして、権大納言の後について部屋を出た。
明かりを持たぬまま、しんとした広い廊下を通り、東門へ。
屋敷内の渡殿(渡り廊下)の、門の見える位置で、権大納言は足を止めた。
「私はここまでにしよう。万が一、人に見られると困るから。」
門の方を指さし、
「あの脇に生け垣があり、身を隠せる。外側から、声がかかるまでは、そこにいなさい。鍵は外してあるから、惟任どのに呼ばれたら、静かに門を出れば良い。」
「はい。何から何まで、ありがとうございます。」
礼を告げた瞬間、頭上に何かが、ドサッと降ってきた。
「うわっ!」
ずしりとした重みに首が下がる。
こんなことが、前にもあったような・・・そう思い、手を頭に乗せると、ふわふわとした感触が手に伝わってきた。
それを両手で掴んで、目の前におろすと、
「千鶴ぅぅぅっ!」
目を潤ませたナンテンが、胸に飛び込んできた。
「ナンテン!?なんで、ここに?」
宇治に行くときに家で分かれて、そのまま唐錦のところに来たので、ここにいることは知らないばずだ。
帰りが遅いと心配しているんじゃないかと、気にはしていたけど・・・。
すると、権大納言が、
「なんだ?千鶴についてきたのではないのか?」
「私に?」
「七条家の姫君の牛車に一緒に乗っていたではないか。唐錦や他の者たちに見られぬように天井裏に潜んでいたのかと思っておったが。」
「鶯の君の牛車・・・?」
ナンテンは、「さすがに、あんたは気づきていたか。」と、ボソリと呟いたかと思うと、「そんなことは良いんだよ!」と怒ったように言う。
「それより、話は全部、聞いていた。なんで千鶴が、あのいけ好かない貴族野郎の謀反とやらのせいで追われることになってるのか納得いかねぇが、オイラも頭中将に捕まるのは絶対反対だ!!あいつは、ヤバい匂いがする。気に入らないけど、惟任に匿ってもらうのが、一番マシだ。」
ナンテンは、いつもの懐にスルリと収まると、
「オイラも行く。」
権大納言が、小さな味方に、
「頼んだぞ。」
と言って、鼻先を、撫でた。
それから、千鶴は、権大納言と別れの挨拶を交わし、渡殿から庭へと、ヒラリと飛び降りる。渡された草履を履いて、生け垣の影まで、音もなく走った。
生け垣の影にスッと身を隠してから、屋敷の中の権大納言の方を見ると、権大納言が軽く頷いた。千鶴が、大丈夫だと頷き返すと、権大納言は、踵を返して、屋敷の中に消えた。
そのまま、どれくらいの刻が経っただろうか。
月が雲に隠れ、また現れる。それを何度か繰り返した頃、ふいにナンテンが言った。
「・・・・匂いが、」
「匂い?」
「変な匂いだ。」
言われて、くんくんと鼻を鳴らすと、確かに、鼻腔をつんと刺激するような、変な匂いがする。
「なんだ?これ。今まで嗅いだことがねぇ。臭くはねぇが・・・すんげぇ、気持ち悪い匂いだ。」
確かにおかしな匂いだが、鼻の敏感なナンテンと違い、千鶴にとっては、そこまで気にならない。
その時、コンコンと門扉を叩く音がした。
「惟任さまだ。」
スッと門に手を伸ばすと、
「いや、待て。」
ナンテンが止めた。
「惟任の匂いがしない。」
千鶴は、伸ばしかけた手を止め、
「惟任さまじゃない・・・・ってこと?」
ナンテンは、「分からねぇ。」と鼻先をふるふると横に振った。
「この変な匂いのせいで、惟任の匂いがしても、多分嗅ぎ分けられない。」
ここは、小さな通用門だから、普段は警備は置いていないという。でも、今日は、外側に人を配置しているはずだ。
すると、また、コンコンと叩く音。
「呼んでみる?」
「いや、オイラが見に行く。」
懐から出たナンテンは、門を駆け上がり、反対側へと消えていった。
「ナンテン?」
少し待ったが、戻らぬので、呼びかけた。しかし、向こうからの返事がない。
「・・・ナンテン?」
見てくるだけの割に遅い。
しかも、その間も、定期的に、コンコンとこちらを伺うような音が続いている。
何かあったのかもしれない。
千鶴は、意を決して、門をそっと開けた。ゆっくりと外を伺うと・・・
「ナンテン!?」
地面に、突っ伏したまま、倒れているナンテンが目に飛び込んできた。
駆け寄って、両手で掬い上げると、小さな身体が、ゆっくりと規則正しく上下していた。
「生きてる・・・。寝てる・・・?」
ホッとすると同時に、なぜ、気を失っているのかという疑問が浮かぶ。
その謎の解けぬまま、ふっと、少し先に視線を巡らせると、男が一人、うつ伏せに倒れていた。
ドクンと心臓が跳ねる。冷や汗が首すじを伝った。まさか、という嫌な予感に、足がブルリと震えた。
ナンテンを懐に押し込むと、ゆっくりと倒れた男に近づく。
「・・・あっ。」
男の顔を見た瞬間、安堵で、千鶴の足の力が、抜けた。
違う。惟任じゃない。
「権大納言邸の・・・門番の方かな?」
中年の男が腰に刀を佩いている。
側に屈んで、顔を見た、その瞬間。
さっきと同じ匂いが、鼻孔を激しく刺激した。さっきまでよりも、ずっと強烈に。
フッと意識が遠くにいく感覚。
全身から力が、抜ける。支えきれない身体が、フラリと大きく揺れた。何かが、カランとなる音と共に、千鶴は、倒れた男の上に突っ伏した。
◇ ◇ ◇
『日が暮れたら、迎えに行きます。』
千鶴を追う近衛の目から逃れるために、公賢が手配した髢を入れた風呂敷に、惟任は、文を忍ばせた。
字はあまり上手くないけれど、千鶴は読んでくれただろうか?
念のため、公賢経由で、権大納言への言付けも頼んであるから、大丈夫だろう。
丑三つ時より少し前。
権大納言邸を取り囲む近衛が確実に引いたことを確認した後の事。
惟任は、草履の紐を、いつもより、きつく結んで家を出た。
権大納言家の屋敷は立派な屋敷が立ち並ぶ左京区の中でも、一際大きい。権大納言の単純な地位の高さだけでなく、政権中枢での勢いを感じさせる。
東門の位置は、あらかじめ、権大納言から聞いている。
普段は、下男などの通用門として作られており、外側からは木塀と一体化していて分かりにくい。
今夜は権大納言邸の警備の者が、外側に待機しているということだから、すぐに分かるだろう。
権大納言邸が近づくに連れ、惟任の緊張が高まった。
無事に千鶴を助け出し、六波羅で保護すること。
それだけ、今、惟任が成し遂げなくてはならぬこと。
惟任が、そのおかしな匂いを嗅いだのは、権大納言邸の門番の姿を捉えたときだった。
門番といっても、歩哨しているわけではない。道の往来に、突っ伏すように倒れていた。
「なっ・・・!」
慌てて駆け寄って、顔を検める。口元に手を当てると、わずかに空気が漏れるのを感じた。
「生きてる。気を失っているだけ、か・・・っつう!」
ふいに、匂いが強いが鼻腔を襲った。頭がクラっとする。ツンと鼻の奥を刺すような香りからは、僅かに甘い匂いがした。
「これは・・・毒、か?」
惟任は、すぐに袖口で鼻と口を覆う。
鼻の粘膜に貼り付いた残り香が、喉の奥から、脳へと直接、干渉してくるような、嫌な刺激を与えてくる。
「ーーーーっ千鶴どの・・・?」
この香りは、明らかに自然発生的なものではない。惟任の胸中に、急速に、嫌な予感が広がっていく。
これは、誰かが、何かを狙って、ばら撒いたものだ。人間を、気絶させるために。
惟任の心臓がぎゅっと縮んだ。腹の奥が、ざわざわと不吉に騒ぐ。
「千鶴どの?千鶴・・・どのっ?」
口を袖で覆ったまま、くぐもった声で、呼びかけた。
東門の戸口に手をかけると、キィっと軋んだ音を立てて、開いた。
「千鶴どの?」
塀の向こう側、権大納言邸の庭の方は、こちらより匂いがマシだ。
もし、門を潜っていなければ、無事かもしれない。
そんな淡い期待を、足元のカランという音が打ち砕いた。
戸口のすぐ近く。外側に落ちていた、それを、拾い上げた惟任は、ひぅっと息を吸い込んだ。
「これ・・・は!?」
菊の意匠をあしらった、柘植の櫛。
千鶴がお守りとして、いつも懐に忍ばせていたもの。彼女を加護する不思議な力を持っている。
それが、今、惟任の手の中にあった。
千鶴が落としたのだろうか。
なぜ、これほど大切な櫛を?
しかも、この櫛は、門の外にあった。
じゃあ、千鶴はどこに・・・門の外に出てきたはずの彼女は、どこにいるのか?
思考するのと同時に、足は動いていた。
東門の周囲を隈なく、どこかの暗がりに隠れていないか、倒れていないか視線を巡られながら、駆ける。
「千鶴どのっ!千鶴どのっ!!」
小声で呼びかけながら、必死に姿を探したが、あっという間に、権大納言邸の周りをぐるりと一周してしまった。
時が経つごとに、胸の中で増大していった嫌な予感が、確信へと変わる。
ーーー攫われた?
私の・・・せいでーーー?
足がブルリと震えた。そのまま、力が抜けて、がくんと地面に膝と手をついた。
私が、もう少し、早く来ていたら。
私が、その場にいたらーーー。
私のせいで、彼女が、何者かに連れ去られた。
奪われた。
私の、せいでーーー
「ちくしょうっ!!」
ダンッと、握った拳で、地面を打つ。
掌の中で、柘植の櫛が食い込んで、刺すような痛みを感じた。
後ほど、活動報告更新します。