8 追跡の夜2
木の上からは、庭の向こうに、明かりが灯っている庵の中が見えた。
中には、男が4人車座になって、座っていた。その中の一人が、鶯の父、七条兼助であることが分かる。
千鶴は、その横に、兼助と睦まじく座る、体格の良い男に目を向けた。
(すると、あれが、鶯の君の縁談相手だろうか)
木の上からは、顔の造作までは見えないが、体格の良さに似合わず、色白であることがわかった。烏帽子の下の顔も、直衣(着物の一種)の袖からのぞく腕も、透き通るように白い。
残る二人は、ちょうど千鶴に背を向けており、顔が見えない。最も、見えたとしても、千鶴の見知っている貴族など、数えるほどしかいないのだから、判別はできないだろう。
一人は青竹色、もう一人は白みがかった藍色の直衣を身に付けている。
青竹色の着物の男は、後ろ姿を見る限り、細身だが背が高そうだ。それに比べ、藍色の男は小柄に思えた。
しかし、今は何よりも、縁談相手の婿の方が重要だった。
鶯は、相手のことを、魔のものにとりつかれているか、もしくは、物の怪そのものではないかと考えていた。しかし、ここから見る限りでは、判断のしようがない。
(地方の国司だと聞いていたけれど・・・)
国司は徴税を行うために、田畑を見て回る。だから、産まれてから一度も日の光を浴びたことがないような、男の肌の白さに、千鶴は、少なからず、違和感を抱いた。
(せめて、顔だけでも、もう少し、はっきり見られたら・・・。)
千鶴は、落ちないように、気を付けながら、しっかりと枝を掴んで、身を乗り出した。そのとき、パンッと、何かに弾かれるような感覚とともに、身体が宙を舞う。
気づいたときには、松の木の根本にいた。
「痛ッ。」
どうやら、木から落ちて、腰を打ったらしい。さすりながら、立ち上がる。
(今、何かおかしなことが・・・)
自然に体勢を崩して落ちたような感じはなかった。
弾力性のある膜のようなものに、当たって弾き飛ばされたような感覚。
首をひなりながらも、もう一度、松の枝に手をかけた。
打った瞬間の痛みのわりには、幸い、損傷が少ないのか、先程と同じ位置まで、ひょいひょいと登ることができた。
そして、再び、庵の中に目を向けたのだが―――
「そんな・・・馬鹿な。」
千鶴は、我が目を疑った。
「誰も、いない?」
ついさっき見たとき、確かに灯りがともり、4人の男たちが歓談していたはずの部屋には、今や、人っ子一人見当たらない。それどころか、視線の先にはあるのは、長い間、誰も踏み入れていないであろう崩れかけた部屋であった。
(この寸分の間に、瞬時に気配を消すなんて、あり得ない。)
しかも、人がいた痕跡すら、残さずに。
「これは、どういうこと?」
千鶴は、戸惑いながら、木の下にいる、女のほうに呼びかけた。
「あのっ!さっきまで、4人の男かいたはずなのに、急に何も見えなくなったのだけれど・・・。」
すると、その言葉を聞いた女の瞳がカッと大きく見開かれた。かと思うと、両眉が真ん中にぐっと寄り、赤い唇がぐんと、ひん曲がる。
「あぁ。口惜しや。口惜しや。」
地のそこから沸いてくるような、ゾッと背筋が震える声だった。
「取り返せぬ。取り返せぬ。口惜しやぁ。」
女の恨めし声が、谺すると同時に、女の足元から、濃い霧が、ぶわりと立ち込めた。霧はたちまち、女の姿を包み込む。
「え?ちょっ・・・ちょっと!」
千鶴は、慌てて、呼び止めたが、あっという間に、女は闇に飲まれてしまった。
そして、その霧の中から、別の声。
「曲者!」
「こっちだ。」
複数の男たちの掛け合いと、雑踏が近づいてくる。
「裏の松の木だ。」
「引っ捕らえよ。」
明らかに生きている男たちの、何かを捜索している声。
(気づかれている?!)
千鶴は、慌てて、松の木から、飛び降りると、脱兎のごとく、屋敷から離れた。
追う声と音が、夜の闇のなかで、千鶴のありかを必死で探しているのがわかる。
いつの間にか、霧が薄くなっていた。
このままでは、相手に姿を捉えられるのは、時間の問題。
千鶴は、ぬかるみを避け、草地を選んで走る。
湿った草が、足に絡み付いて、体制を崩し、手をついては、また走る。幾度なく繰り返しながら、朱雀大路目指して、ひた駆けた。
行く手に、ぼんやりと、灯りが浮かんでいるのが見え、千鶴は、急停止した。
(まずい。前からも追っ手が?)
後ろを振り向く。
背後も、相変わらず、千鶴を探している気配。
千鶴は、あたりを見回した。
住む者がいなくなった後も、まだかろうじて形を保っている古びた屋敷が一軒あった。その門の背後に身を隠す。
足には自信がある。それでも何度か転んだせいで、ところどころが、ずきずきと痛んだ。前後に挟まれたら、逃げるのは、かなり苦戦するだろう。
そういえば、旧鼠は大丈夫だろうか。
千鶴は、旧鼠を抱いた懐を、着物の上から、とんとんと優しく叩いた。震えているかもしれぬ、と思ったが、予想に反して、旧鼠の「ぐぅ。」という間抜けた鳴き声がした。
「寝てる・・・」
千鶴は、思わず、苦笑いした。夜行性だから任せておけ、と言ったくせに。
(いや、でも震えているよりいいか。)
千鶴が、息を殺して休んでいる間に、背後の雑踏が、遠ざかり始めた。
しかし、一方で、前方の灯りは、ひたひたと足音あげながら、こちらに近づいてきている。
その足音から、一人であることが分かった。
(それならば、何とか、このまま、やり過ごせれば・・・)
そう思った瞬間、松明の明かりが千鶴の顔を照らしていた。
「ッ!?」
近づいてくる気配はなかった。少なくとも、こんなにすぐ側にいるようには感じられなかった。
(まずい。みつかった。)
明かりに思わず、目を覆った千鶴に、聞き知った声が、名を呼んだ。
「千鶴どの。」
千鶴は、そっと顔を覆っていた腕を外し、その明かりの持ち主を確認した。
「こ・・・惟任さま?」
曽我惟任の人の良さそうな顔が、驚いて、目を見開いていた。
本日、後ほど登場人物の一覧を投稿予定です。→一旦、消しました。