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71 結ばす・宇治から京へ

4章の本編は、これで最後です。

トラが立ち去ってしばらく、ぼんやりとしていたナンテンは、やがて、腰を上げた。


治兵衛(じへえ)の家を出ると、東の空が白んでいるのが見えた。


山道を歩きながら、トラが伝えてくれたミツの言葉を思い出す。



ーーー僕も妖怪になった。だから、もう旧鼠さんは一人じゃない。僕が、初めての仲間だ。



もし、あのとき、あの場所で、この言葉を直接、ミツから聞いていたとして、それをナンテンは素直に受け取れただろうか?



たぶん、無理だ。



ミツと惣吉(そうきち)の絆を目の当たりにしてしまったから。

あの二人の深い信頼と繋がりを知ったら、たとえ同じ妖怪であったとしても、ミツと自分を仲間だとは、思えなかっただろう。



でも、今なら?


今は違う。

ナンテンには、千鶴がいる。


宇治から逃れ、あちこちを放浪しているうちに辿り着いた都で、千鶴を見つけた。


妖蛇に追われて、逃げ込んだ千鶴の懐で、ナンテンは、言いようのないほどの安心感に包まれた。直感で思った。


この人間の側にいたい、と。


その時から、ナンテンは一人ではなくなった。


「・・・・戻ろう。」


ポツリと呟くと、ナンテンは、地面を蹴る足の速度を上げた。


日が昇り始めた山道を転がるように、一目散に駆けていく。



オイラは、帰るんだ。

千鶴の元へ。



◇   ◇   ◇



晩餐の席でのことだった。


「結局、魚はとれませなんだか。」


夕餉を出してくれた里の女が、残念そうに言った。


鶯と顔を見合わせた阿漕が、


「今日も、じぃが頑張ってくれたのですが、なかなか・・・」


滞在中、何度か銛で魚を獲ろうと試みては、ことごとく失敗に終わった、「じぃ」こと、七条家の下男の翁が、横で恥ずかしそうに頭をかいた。


「いやぁ。案外、難しいもんですなぁ。」


恰幅の良い里の女が、


「次に宇治に見えたときには、うちの夫が、ご指南いたしましょう。なぁに、すぐに上手くなりますよ。」


と言うと、阿漕が、


「まぁっ!!では、次に来たときには、もっと、たくさんのお魚がいただけるのですね!宇治は、都より、ずぅーとたくさん、美味しい食べ物があるので、楽しみですわ。」


舌なめずりでもしそうな勢いに、鶯が苦笑いする。


すると、里の女が、話題を変えて、


「都といえば、千鶴さんは、白拍子だそうですねぇ。」


その言葉に、思わず、千鶴の箸が止まる。


陽気な顔をした女に、悪気はない。鶯の叔母にでも聞いたのだろう。

しかし、「踊ってくれ」と言われるのではないかと思うと、自然と指先が震えた。


衣装を持ってきていないといえば、断れるだろうか。せっかくの和やかな気分を悪くさせるかもしれない。

でも・・・・それでも、踊ることはできない。


私の舞は、人の悪意を掻き立てるものだから。


もし、ここで踊って、誰かの心のうちを乱してしまったら?また、誰かの悪意を増幅させたら?


そのとき、


「千鶴は今、夏のお休み中じゃ。」


鶯だった。


「あら、夏のお休み、ですか?」


里の女が、その表現に、からからと朗らかに笑って応じた。


「そうじゃ。都の生活は堅苦しくて、たまらん。我らは英気を養うために、ここで心と身体を休めているのじゃ。」


だから、今は、舞など忘れて愉しんでおる、と、鶯が、わざとらしく、肩をこりこりと回してみせた。


「それは、それは、よろしゅうございますねぇ。ぜひ、ごゆるりとお過ごしください。」


のんびりと言う女の明るさに、千鶴の心もホッと緊張を解く。

ふと、前を向くと、鶯の叔母と目があった。叔母君が千鶴を見て、柔らかく微笑む。肩の上で髪が軽やかに揺れた。


ふっくらとした頬。真ん丸のどんぐり眼の目尻には、細かいシワが浮かんでいる。鶯と、よく似ている。


「でも、我らは明日、帰るのでしょう?」


阿漕が、お休みが終わるけど大丈夫かなのかと、心配そうに千鶴を見た。千鶴がこの先どうするつもりなのか、案じているのだろう。


「別に、良いではないですの。」


軽やかに言ったのは、鶯の叔母だった。


「ここにいても、都にいても、休みたいだけ休めば、よろしいですよ。」


年老いた御坊も、「そうじゃなぁ。」と、むにゃむにゃした口調で、同意する。


「あくせく生きても、のんびり生きても、人の行き着く先は同じ。身体が生きても、心が死んでは意味がない。心が生きるように、生きなされ。」


坊主らしい、優しい言葉だった。一堂が、箸を止めて、御坊の方を見ると、それに気づいた御坊が、


「やゃ。これは、どうも説教くさくていかんなぁ。」


つるりとした頭を、手でぽんと叩いた。

皆が、「あはは」と笑った。


その時、千鶴は、鶯の叔母の目尻に、うっすらと涙が滲んでいるのに気がついた。この人も、愛する夫を失い、一度は心が死んでしまったのかもしれない。


鶯、阿漕、翁、叔母君に、御坊。そして、里の者たち。


皆、温かい。


いつの間にか、千鶴の心が、少し、軽くなっていた。


ここの者たちだけではない。

都にも、菊鶴に、ナンテン、公賢、斑の姫がいる。

そして、曽我惟任(そがのこれとき)がーーー


「あっ・・・」


惟任のことを、思い浮かべた途端、胸の中で何かが、ぽんと跳ねて、思わず、小さな吐息が漏れた。


曽我惟任。


いつも、私の前に現れる、不思議な人。私が困っていると、助けてくれる。どちらかというと小柄人なのに、その背中は広くて、力強くてーーー


と、そこで、また、胸の内の何かが、ぽん、ぽんと跳ねる。

あの、几帳ごしの夜と同じように。まるで蹴鞠みたいに、愉しげに。


なんでだろう。

惟任のことを考えると、身体の中が、とてもポカポカしてきて・・・



「千鶴さまっ!だっ・・・大丈夫ですか?」


阿漕が、目を大きく見開いて、こちらを見ていた。


「お酒を召し上がりました?」

「え?」

「頬が真っ赤ですよ!」


慌てて手で触れると、確かにじわりと熱い。


「酒は出ていないはずじゃが・・・少し、のぼせたかのう?」

「人が多いですしねぇ。」


心配そうにこちらを見ている鶯と阿漕の二人に、「少し涼んできては、どうか」と半ば強引に勧められ、食事を終えた千鶴は、屋敷の外に出た。



雲のない夜だった。

暗い空には、星が降ってきそうなほどに、眩く煌めいている。


前に公賢に連れられて、信太の森の鏡池に行ったのは、満月の夜で、今日の月は、まだ満月には少し足りない。


初めて鶯や公賢にあったのは夏の初めだから、その日から、まだ二月(ふたつき)も経っていないのだ。


けれど、いろんな事があった。



私は、少し変わっただろうか。


舞が踊れなくなったことは単に結果で、いろんな人との出会いを経て、自分の中で、前とは何かが違って来ているような気がする。



月を眺めながら、そんなことを考えている千鶴は、その足元を、小さな鼠が横切ったことに気が付かなった。



その小さな鼠ーーーナンテンは、あの家から、二晩かけて、鶯の牛車まで戻ってきて、暗がりに紛れて屋形の屋根の上に乗り込んだ。


明日には皆、都に帰る。



◇  ◇  ◇



翌朝早く、千鶴、鶯、阿漕の三人は、見送ってくれる人たちに、別れの挨拶をした。


「また、いつでもいらっしゃいな。」


鶯の叔母が言うと、御坊も、「ふぉっ、ふぉっ」と笑う。

里の者たちも、朝は早くにも係わらず、顔を出してくれた。


「これ、よかったら持っていってください。」


牛車の支度を終えた翁に、里の女が、つい先程、土を落としたばかりの、しっとりとした芋を渡した。阿漕が、目をかがやかせて、「ありがとうございます!」とお礼を言う。


それぞれに挨拶を交わしてして、屋形に乗り込むと、翁が牛を出発させた。


牛車は、山道をことり、ことりと進んでいく。


「あぁ、もう帰らねばならぬとは、残念じゃ。」


鶯が、高く上げた物見から見える景色を、名残惜しそうに眺めながら言った。


「いっそ、私もここで尼になろうかのう。」


鶯の言葉に、阿漕が、目をひん剥いて、


「なんてことおっしゃるんですか!!」


まだお若い身の上で、絶対に許しませんよ、と主に怒る。


「これから素敵な恋もあるかもしれないのに。」


「恋などしても、結局は、自分の好きなことは出来ぬであろう?夫に頼って生き、しかし、その夫が他の女のところに出掛けていれば、ただじっと待つしかない。阿漕には悪いが、そう楽しそうには思えぬなぁ。」


確かに、その生活は天真爛漫で好奇心の強い鶯には、とても辛そうなものに思えた。


「でも、鶯の君の叔母君さまは、幸せな結婚だったのでしょう?」


あの明るい人が、夫を亡くして、ひどく落ち込んだのだ。きっと良い相手だったに違いない。


「・・・・・うむ。」


鶯が、思い出すように頷いた。


「地方の受領で、さほど、身分の高い方ではなかったが、良い方じゃった。本当にオシドリ夫婦じゃ。」

「ほら、幸せな結婚もあるじゃないですか!」


阿漕が、「姫様には絶対に幸せになっていただきますからね!」と腕まくりをした。


その様子がおかしくて、千鶴は自然と笑っていた。


都に近づく頃に、鶯が、


「千鶴は、これから唐錦(からにしき)の君のところへ行くのだろう?」


家を出る前、権大納言邸の使者が唐錦からの伝言を携えてきた。使者に、宇治から帰ってきたら、権大納言の屋敷に顔を出すように、頼まれている。


今、宮中に尚侍(ないしのかみ)として出仕している唐錦は、それに合わせて里帰りをしてくるらしい。


鶯が、このまま、牛車で権大納言邸まで送ってくれると言った。


「権大納言邸なら、門の中まで、牛車で入ったほうがよかろう?」


確かに、世間的に、相当に身分が高い家なので、小袖姿の小娘が堂々と出入りするのは気が引ける。鶯が、白拍子の服を着ていない千鶴に慮って、取り計らってくれたらしい。


一旦は遠慮した千鶴は、結局、好意に甘えることにして、礼を告げた。



途中、昼休憩を挟み、のんびりと進んできた牛車が、ようやく都に入り、左京二条の権大納言邸に向けて、朱雀大路を北上している頃。


「なんだか・・・人が多くありませんか?」


貴族の邸宅地に入ったあたりで、阿漕が、外の様子に気が付き、一旦閉めていた物見を少しだけ上げて、覗き見た。


「人の声が・・・」


確かに、物売りの多い市街地に比べ、このあたりはいつも静かなのに、今日は、頻繁に人の通る音や声がする。


「あれ・・・検非違使(けびいし)(市中警備を担う役人)ですよね?」


阿漕に言われ、千鶴と鶯も、物見からそっと覗いた。

確かに検非違使のような男たちが、物々しい警備でもするように、往来を歩いている。


「あっ!」


千鶴は、()()姿()を見つけ、慌てて、影にかくれた。


「どうした?千鶴。」

「・・・いえ。あの・・・見知った方がいました。」

「見知った方?」


左近衛府番長、平秋良(たいらのあきよし)

千鶴が、大江業光(おおえなりみつ)になりすまして、近衛府に勤めていたときの直属の上司。


「近衛の舎人・・・とな?」

「こんなところに、近衛ですか?」


近衛府の仕事は、帝を中心とした皇族警護。普通、内裏か大内裏でしか見かけない。市中警固は、基本的に検非違使の仕事だ。


それが、こんなところまで出張ってくるとなると、


「火事か何か・・・ですかねぇ?」


阿漕が、くいっと顔を物見から少し乗り出すようにして、遠くを見た。


「煙は、どこにも出ていないようですが・・・」


くんくんと鼻を鳴らし


「匂いも。」


本当に何があったんだろう、と三人が話しているうちに、牛車は権大納言邸に到着した。


事前に翁が、先触れを出していてくれたらしく、権大納言邸の門が、音もなく、滑らかに開いた。牛車は吸い込まれるように、中へと入っていく。





この日の朝早く、権中納言 藤原房親(ふじわらのふさちか)が謀反の疑いで捕縛されたことを、このときの千鶴はまだ、知らなかった。


4章としては、ここでお終いにして、そのまま、最終章の5章に続きます。

4章、章外があるので、先にそちらを更新して、新年は5章から始められるといいなぁ、とは思っているのですが・・・。


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