68 惣吉
ナンテンは、あの日の記憶を頼りに、山の中を、川上に向かって歩いていた。
あのときは、獲った魚を咥えたミツが、ナンテンを先導するように、少し前を歩いていた。
*
「もうふぐ、ふきまふ。」
振り向きざま、ミツが言った。
魚を咥えたまま喋っているせいで、よく分からないが、たぶん「もうすぐ着く」と言ったのだろう。
その言葉どおりに、まもなく二匹は目的地に到着した。
惣吉の家は、ぼろぼろの木材が何とか支え合って建っているという体の、小さな、小さな小屋だった。柱や板塀は、そこかしこが雨と虫に侵食され、今にも崩れそうだ。
二匹が半開きになった扉から入ろうとしたとき、中から、怒鳴りつけるような男の声がした。
途端、ミツの顔が険しくなり、慌てて中へ飛び込んだ。ナンテンもそれを追う。
惣吉の家は、内側も、外に劣らず、ぼろぼろだった。家というよりは、最早、かろうじて雨風を凌げるだけの代物、といってもいい。
その家の中、蒼白な顔の男が、背を丸めて、息苦しそうに咳をした。
こいつが惣吉だ、と、すぐに分かった。
糸がほつれ、穴が空いた、よれよれの着物の袷から覗く肋が、白く浮いている。
それを、四角い顔の男が、がなり声で責立てていた。多分、隣の家の治兵衛なのだろう。
「・・・・ったく、何もねぇのかよ。この家は。」
「申し訳ない。今年は、私の身体も、良くなくて・・・」
惣吉が、ゴホゴホと咳き込みながら答えた。
「何が、今年は、だ。いつもだろうが。てめぇの身体は万年不調じゃねぇか。」
惣吉が、勘弁してくれよ、と苦笑いした。
「まぁいいや。とりあえず、ここにあるだけの食いもん、もらっていくぜ。俺も苦しいんだ。」
治兵衛が、穀物らしきものの入ったズタ袋を手に取った。片手で軽々持ち上がる。
「じゃあな」と、出ていこうとする治兵衛の前に、ミツが立ちはだかった。
目を釣り上げて、「うー」と低い声で威嚇する。
「なんだ、こいつ。」
怪訝そうに目を細めたかと思うと、ミツの咥えている魚に気が付き、
「おっ、いいもん持ってんじゃねぇか。」
ミツの首根っこを、ひょいっと捕まえた。
ミツの身体が宙に浮き、ぶらんぶらんと吊るされる。その口に、治兵衛が手を突っ込んだ。
「うっぎぃーーーー!」
魚を取り上げられそうになったミツが怒って、唸り声をあげた。
「なんだ、てめぇ。猫のくせに、抵抗しやがる。」
「待っ・・・てっ!」
惣吉がゴホゴホとむせながら、立ちあがった。
「待ってくれ。ミツを・・・離してくれ。」
「うるせぇよ。てめぇこそ、この猫、黙らせろ。」
強引に奪おうとする治兵衛に、ミツが、「やめろ、やめろ」と首を左右に振って逃れようと足掻く。
「あ、こら、暴れるな!さっさと、その魚、離しやがれ!」
あの魚は、ミツが惣吉のために獲ってきたものだ。絶対に渡してなるものかと、必死で抵抗するーーーが、しかし、力ではかなわない。
治兵衛が口をこじ開け、魚を取り上げた。その瞬間、ミツが治兵衛の手を噛んだ。
「・・・っいってぇーーー!」
反射的に、掴んでいたミツを投げつけた。
「きゃんっ!」
吹っ飛ばされたミツは、背中から、壁にぶつかった。
「ミツっ!!」
ナンテンが、人間たちに見つからないように気を付けながら、ミツのそばに駆け寄る。
「ミツ、大丈夫か?」
ペチペチと顔を叩くと、「うぅ」と呻きながら、瞬きをした。ほんの少しの間、気を失っていたらしい。
「良かった。」
ホッとしたのもつかの間、
「返せよ。」
地の底から響くような低い声。
背後で、何かがゆらりと立ち上がる気配がした。振り向くと、惣吉が、
「返せよ。それは、ミツが私のために持って帰ってきものだ。お前が持っていっていいものじゃない。」
さっきまでの諦観混じりの困り顔ではなく、それとわかる怒りが滲んでいた。
「な・・・んだ、お前?俺に逆らって、」
「返せよ。それで、ミツに謝れ。」
治兵衛は、フンッと鼻息を一つ。
「謝る?なんで、俺が猫なんかに。」
「ミツは、私の大事な家族だ!お前の親父と同じくなっ!!」
叫びながら、治兵衛に飛びかかった。
治兵衛の手から、魚を奪おうと、痩けた手足で掴みかかる。
「やめ・・・やめろっ!!やめろぉっ!」
振り払おうとした治兵衛が、惣吉を押した。
「あっ!」
二人と二匹、全員の声が、同時に出た。
治兵衛の腕に振り払われた惣吉が、体勢を崩し、後ろに転んだ。折り悪く、頭が水瓶のちょうど真上に来てーーーガンッという鈍い音が小さな室内に響き渡った。
「惣吉さんっ!」
ミツが跳ね起きた。
「惣吉さん、大丈夫ですか?」
惣吉の頭からは、血がドクドクと流れ出している。目は、明らかに、焦点があっていない。
「おい、ミツ!落ち着け。」
ミツが「惣吉さん!惣吉さん」と、涙混じりに、何度も呼びかけた。その直ぐ側で、治兵衛も負けず劣らず、蒼白な顔で戦慄いて、
「お・・・俺は知らねぇからな。惣吉が勝手に突っかかってきたんだ。」
まるで、ミツに言い訳するかのように叫んだ。ミツが、キッと治兵衛を睨みつける。
「何だ?その目。」
睨み返すと、
「こんな魚、ほしいならくれてやらぁ!縁起悪りぃ。」
ミツから奪いとった魚を投げつけ、逃げるように家から出ていった。
残されたのは、倒れた惣吉と、側で嘆くミツ。そして、完全に傍観者のナンテンだった。
室内には、むせ返るような濃い血の匂いが漂っていた。惣吉の頭周りは、真っ赤な池が出来ている。
「ミ・・・ツ?・・・ミツ、そこにいるの・・・か?」
意識を取り戻したらしい惣吉が、ミツを呼んだ。
「惣吉さんっ!」
嬉しそうに身体にすり寄るミツを触ろうと、惣吉が手を伸ばした。が、その手は、虚しく空を切った。
その仕草に、目が見えてないのだ、と分かる。
惣吉が、ゲボゴホと激しく咳き込むと、口からも血が飛び散った。
「惣吉さん、大丈夫!私が助けるから。絶対に、絶っ対に、助けるから!!」
惣吉の耳には、ミツの声は「ミャー、ミャー」とした鳴き声にしか聞こえていないはずだ。だが、惣吉は、僅かに首を左右にふった。
まるで、ミツの言葉を理解し、そして、否定するように。
「私は、もう無理だ。」
ようやく、手探りでミツの頭を見つけ出すと、優しく撫でる。
「どちらにせよ、私の身体は長く持たなかった。それが少し早まっただけだ。」
像を映さない、灰色に濁った瞳をミツに向け、優しく微笑んだ。
「だから、ミツ。これからは、お前一人で生きていくんだよ。大丈夫だ。あれだけ上手く魚を獲れる、お前のこと。きっと、大丈夫だよ。」
言い終えると、惣吉は瞳を閉じた。
最後に、唇がゆっくりと、大好きな猫の名を呼ぶように、動く。
「ミツ」と。
声なき声で。
死んだ。
惣吉の命が、事切れた。
ナンテンは、ただ、それを見ていた。
「惣吉さん?」
ミツが呼びかける。
「惣吉さん?惣吉さん?」
惣吉の身体に、鼻面を押し付け、甘えるように。
「ねぇ。惣吉さん?起きて?起きてよ。」
ミツの鳴き声は、次第に激しさを増し、ついに慟哭へと変わる。
「惣吉さぁぁぁんッ!!!なんでっ? 嫌だっ!!嫌だよぉ!起きてよぉぉぉ!!!」
嗚咽混じりに、「なんで?なんで?」と繰り返すミツに、
「ミツ。」
ナンテンが、ミツの横に、寄り添うように並んだ。鳴き続けるミツを見ていられなかった。
「・・・・・・旧鼠さん?」
ミツは、涙でグシャグシャ眼で、
「惣吉さん、眠っちゃったんだ。起きないんだ。起きないんだよぉ。」
「諦めろ。惣吉は、もう・・・」
「違うっ!!違うよぉ!」
ミツは、激しく頭をふって、
「旧鼠さんは、放っておいてよ!関係ないんだから!」
ミツの目からは、涙がぼろぼろと流れ落ちている。
「これは、私と惣吉さんの問題なんだから!」
言われた瞬間、ナンテンの心を何かが、ガンッと打ち付けた。
オイラには・・・関係ない。
そうだ。
これは惣吉と、ミツの問題。
旧鼠のオイラには、何の関係もないんだ。
言いようもない疎外感がナンテンを襲った。今更、あの、家族に見捨てられた日のことを想い出す。
自分は、他の者たちとは違うのだと、自分には仲間がいないのだと悟った、あの日のことを。
そのまま、どれ位の刻がたっただろう。
日は西に傾き、開いた扉の向こうから、橙の光が差し込んでいた。
先程まで、室内に響き渡っていた、すすり泣くようなミツの鳴き声はいつの間にか止み、代わりにピチャピチャという音がしていた。
ミツが、惣吉の頭の傷を舐めているのだ。
無駄だ、と知りながら。
「・・・・・・ねぇ、旧鼠さん?」
ミツは、舐めるのをやめて、ポツリと言った。視線は惣吉に向けたまま。
「私、やっぱり、妖怪だったら、よかった。」
視線を、ずっと惣吉に向けたまま、背中越しに、ナンテンに語りかける。
「だって、私、妖怪だったら、もっと力が強かったでしょう?こんなに簡単に、治兵衛に負けたりしなかったでしょう?私、妖怪だったら・・・妖怪だったら、よかったって・・・」
「ミツ。」
また、ピチャピチャと惣吉の頭を舐める。
「妖怪に・・・なりたい・・・」
「ミツッ!」
違う!駄目だ!
そんなふうに考えては。
なんだか、分からない。でも、すごく嫌な予感が、急速に、ナンテンの胸を覆う。
「ミツ、おかしなことは考えるな!」
ピチャ、ピチャ
「でも、妖怪だったら・・・」
ピチャ、ピチャ、ピチャ
「妖怪になれたら、治兵衛なんて・・・」
ピチャピチャッ、ピチャピチャッーーーー
「・・・・うッ」
突然、ミツが呻いた。
「うぐッ・・・うぅぅぅ・・・・ぐぁぁ」
ミツが、惣吉から飛び跳ねるように、離れた。苦しそうに、床をのたうち回る。
「ミツ!おい、ミツ?!」
「アっ・・・がぁぁぁッッッ!!!」
西日に照らされたミツの身体が、ぐんぐん大きくなる。
「割れる!割れるよ!!旧鼠さん・・・ボクの、身体が・・・・」
黄昏時。
明るい世界の光が消えて、闇に移り変わる時。
昼と夜が交錯するこの刻を、人間たちは、「逢魔が時」というのだそうだ。
それは、昼は隠れていた魔の者たちが、姿を現す時。隠れていた、魔がーーーー
ミツの身体は、人間の子どもほどの大きさにまで膨れ上がり、しっぽはバリバリと2つに割れた。
「ミ・・・ツ・・・!?」
猫又。
猫の妖怪。
紛れもなく、魔の物。
血走った目に、避けた口。歯の間から、ヨダレがぼたぼたと溢れ落ちる。
「フーッ・・・フー、フー・・・」
「おま・・・え?」
その、ミツだったものは、ナンテンをちらりと見た。なんの感情もない目で。
それから、のっそのっそと歩きだした。