65 ミツと旧鼠さん
ナンテンが家族と別れ、何日か、何週間か、何ヶ月か、分からぬほどの月日が経った。
ナンテンは、宇治川の河原を拠点に、時々、民家の台所や穀物倉に忍び込んでは、腹を満たして暮らしていた。
一人ぼっちでいることにも慣れた。
別に、一人でいても、寝るも、起きるも、食うも、飲むも、生きていくのに、何一つ支障はない。
父さんは、ちゃんと、母の乳ではない食べ物の取り方を教えてくれた。猫から逃げることも。親としての責任はちゃんと果たした。
どうせ、いつかは、みんな自立するのだ。
それが少し早かっただけ。
この頃には、自分が、『異形の鼠』ーーーつまり鼠の妖怪である、ということも理解していた。
そうして、同じ様な、繰り返しの日常が過ぎた、ある風の強い夕暮れのことだった。
前日の嵐の影響で、その日の宇治川の水嵩は増していた。いつもは、比較的穏やかに流れる川が、あちらこちらで渦を巻いている。
「こういう日は、川に近づくもんじゃねぇな。」
ナンテンは、川岸から少し離れた木の上で、太い枝に寝そべって、水の流れを眺めながら、ぼんやり欠伸をした、そのとき。
川上から、おかしなものが流れて来るのが見えた。
「なんだ?ありゃあ・・・?」
渦の中で、浮き沈みする小さな塊。水面にのぞくたびに、白と灰色と茶色が交互に現れる。
大きさは、ナンテンとちょうど同じくらい。
ーーーあれは、まさか・・・!?
ナンテンの心臓がドクンと高鳴った。
考えるより先に、身体が動く。
小さな手足を賢明に動かし、川へと駆けた。
生い茂る雑草の隙間を駆け抜け、川岸につくと、あの塊が、川上から流れて来るのが見えた。
しかも、折よく、その先では、大きな岩が連なって流れを堰き止めている。塊は、ナンテンの思惑通り、その岩の間にひっかかって止まった。
岸からは少し距離があるが、ナンテンは、川の中にじゃぶじゃぶと入った。幸運なことに、ナンテンでも、何とか足が届きそうな場所だった。
岩に引っかかった何かは、思ったとおり、毛で覆われていた。それを、口に咥えて引っ張る。水に濡れてぐったりとした毛玉は重くて、咥えた歯が滑りそうだ。
途中、何度も、足を滑らせそうになりながらも、なんとか川岸を目指す。ガッチリと噛み合わせた歯は、川の流れと、咥えたものの重みで、もげそうになる。
「グゾゥッ!」
ナンテンは、気合を入れるように叫んだ。
ーーー負けてたまるか。俺の・・・俺たち鼠の歯を舐めるなよ!!
歯茎から血が滲み出しそうなほどの痛みをこらえ、なんとか、川岸まで引きずっていく。
ようやく水の外に前足が出たとき、体力の限界がきて、前のめりに倒れ込んだ。
そのまま、横たわって、フーッ、フーッと荒い呼吸を繰り返す。小さな心臓が、限界スレスレの運動に、早鐘を打っていた。
しばらく寝転んだまま、休憩していたが、やがて、体力が、回復してくると、ナンテンは立ち上がった。
助けた毛玉を、ズルリ、ズルリと、岸の中腹まで引きずっていき、ブンッと置いた。
丸まっていた毛玉は、勢いで解け、クタッと突っ伏す。
毛玉はーーー思ったとおり、小さな獣だった。
色は、くすんだ白と灰色と茶色の三色。身体の大きさも、ちょうどナンテンと同じくらい。
ナンテンは、ドキドキと高鳴る鼓動を抑え、獣をゴロンと転がして、仰向けにした。
瞬間、ナンテンを深い落胆が襲った。
色も大きさもナンテンと同じその獣の頭には、三角に尖った耳がついていた。
三毛猫。
それも、まだ子ども。
「・・・・・・・そりゃあ、そうか。」
考えてみれば、自分でも見間違えるほどに、ナンテンの配色は猫そっくりなのだ。
だから、同じような奴がいたら、猫に決まっている。
どうして、「仲間だ」なんて、思っちまったんだろう。
勝手に期待して、勝手に傷つく。
何て、馬鹿なんだ。
ボクには仲間なんて、いないのに・・・。
いるはずないのに。
仰向けになった三毛猫をじっと見ていると、髭がピクピクと動いた。
どうやら、生きているらしい。
運が良かったのだ。ナンテンが助けなければ、たぶん命はなかった。
だけど、だからといって、天敵にそんな恩を売っても、無駄だろう。
目を覚ます前に立ち去ろう。
ナンテンは、三毛猫から離れ、トボトボあるき出した、そのとき、
「ま・・・待って!」
か細い子どもの声がした。
「待って・・・ください。」
足を止めて振り返ると、三毛猫が、くるりとうつ伏せに戻って、こちらを見ていた。
「あの・・・助けてくれて、ありがとう。」
三毛猫は、ヨロヨロとふらつきながら、身体を起こす。
ナンテンは、三毛猫の言葉には答えずに、フイと背中を向けた。猫から離れようと、歩きだすと、それをまた、三毛猫が呼び止める。
「あ・・・あの!」
再び足を止めると、三毛猫が、不格好によろめきながら、向かってくる。
「あなたは・・・?」
猫は、まだ焦点のあっていない瞳で、何度も瞬きを繰り返しながら、見たことのない生物をまじまじと検分していた。
「猫・・・にしては、耳が小さいようですけど・・・」
ナンテンは、目の前の猫に、一瞬、足が竦んだが、すぐに心に鞭を打つ。
怖がってどうする。同じくらいの大きさじゃないか。
それに、ボクは、ただの鼠じゃない。
「ボク・・・オ・・・オ・・・オイラは、鼠だ!」
「鼠?」
たぶん、今まで見てきた鼠に、ナンテンのように、大きな、しかも色とりどりなやつはいなかったのだろう。三毛猫は、あからさまに首を傾げた。
「お・・・おぅよ!だけど、ただの鼠じゃねぇぜ。オイラは、鼠の妖怪だ。」
思ってたよりも、声が震えていなくて、安堵する。
「鼠の・・・妖怪?」
三毛猫は、何度か、目をパチクリとさせた後、
「すごい!」
と、歓声をあげた。
「私、妖怪って、初めて見ました。同じ鼠でも、こんなに大きいのですね!」
三毛猫は、くるくるとナンテンの周りを回ってから、鼻を近づけて、クンクンと匂いを嗅ぐ。
ナンテンの背筋がゾワリと粟立った。
「や・・・や・・・やめてくれぇ。食うのは・・・」
ナンテンが、逃げるように飛び退くと、
「食う?」
三毛猫は、きょとんとして、
「嫌だなぁ、食べませんよ。妖怪なんて。怖くて、とても食べられません。自分とほとんど大きさも変わりませんし。」
頬をスリスリと擦り寄せてくる。
「それに、何より、命の恩人ですからね。」
◇ ◇ ◇
その日以来、三毛猫は、何かとナンテンのところへ遊びにくるようになった。
三毛猫の名は「ミツ」といった。
3色の毛色だから、3つで、ミツなのだそうだ。
ミツは、惣吉という名の、貧乏な中年の男に飼われていた。
飼われているとは言っても、夜に惣吉の隣で眠りに、朝になると出ていく。ただ、それだけのとこだ。
時々、惣吉は、ミツに残飯をくれたが、惣吉自身が、食うに事欠いている有様だったので、ミツは、食べ物を寄越そうとする惣吉に、気を使って、ご飯時にはなるべく、外に出かけるようにしているらしい。
「鼠さん、鼠さん。」
ナンテンは、ミツに呼ばれて、渋い顔をする。
「その、鼠さんってのは、ヤメてくれないか?」
「だって、鼠さん、名前がないんでしょう?じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
「そりゃあ、そうだが・・・」
ナンテンというのは、千鶴と知り合ってから、彼女がつけた名だ。このときのナンテンには、まだ、固有の名がなかった。
「だからといって、鼠、鼠と言われるのも、なんか違うというか」
ナンテンは、鼠ではあるが、ただの鼠とは違う。妖怪だ。だから、まるで一般的な鼠と一緒くたで呼ばれるのは違和感がある。
自分は、鼠ではないから、家族に置いていかれたのだ。
「そういえば、鼠の妖怪のことを、旧鼠というのだそうですよ。以前、惣吉さんが言っていました。」
「旧鼠・・・か。いいな。」
鼠とは違う。けれど、鼠の仲間。
その分類は、とても、しっくりくる。
「では、旧鼠さんですね。」
以降、ミツは、ナンテンのことを「旧鼠さん」と呼ぶようになった。
また、あるとき、ミツは宇治川で採った魚を食べながら言った。
「旧鼠さんは、いいですね。妖怪で。私も妖怪になりたかったな。」
ナンテンは、ミツ食べかすを横でつきながら、
「なんでだ?妖怪なんて、何にもいいことねぇぞ。仲間もいない。一人ぼっちだし。」
ミツは、顔をあげて、魚の残骸のついた口の周りを、ぺろりと舌で舐め取る。
「でも、普通の鼠よりは、強いでしょう?身体もでかいし。」
確かにでかいが、何かと戦ったことはないから強いのかどうか、本当のところは、よく分からない。大きい分だけ力はあるだろうし、鼻は良く効く。
けれど、それも普通の鼠に比べればであって、何にでも勝てるかといえば、そんなことはない。
すでに出会った時の倍くらいの大きさに成長したミツ相手に、勝てるかどうか、という程度だ。
「強くなりたいのか?」
ナンテンが尋ねると、ミツは、少し俯いた。
「・・・・・強ければ、惣吉さんを助ける事ができますから。」
ミツの飼い主の惣吉は、小作だが、痩せた土地で雀の涙ほどの作物しか収穫できない。
しかも、ただ、収穫ができないだけではない。
実入りの悪い年になると、隣の治兵衛がやってきて、その雀の涙ほどの作物を、強引に取り上げてしまうのだそうだ。
治兵衛は、自分の収穫だけでは税の取り立てを賄えない分を、惣吉の畑から奪っていくのである。
必然、惣吉は、租税の拠出ができず、国司からきつく当たられていた。
「治兵衛は最悪だ。でも私の力では、あそこの猫にだって、勝てやしない。」
ミツが悔しそうに声を震わせた。
「トラのことか?」
治兵衛の家に出入りしている猫はトラというらしい。出入りしているといっても、飼われているわけではなく、勝手に上がり込んで、残飯をあさっているだけだ。
治兵衛が惣吉を痛めつけるのと同じように、トラもミツを虐めていた。
ミツの虐められて、辛い気持ちや悔しい気持ちは分かる。
しかし、「惣吉のために、妖怪になりたい」というミツの気持ちは、家族に見捨てられたナンテンには、到底、理解できそうになかった。
「・・・・・妖怪なんて、やめておけ。」
低く呟くナンテンに、ミツが食べるのを止めて、顔を上げた。
「オイラは今で、自分と同じような奴に・・・仲間みたいなものに、一度も出会ったことはない。ミツには、分からないかもしれないが、誰とも同じじゃないって、とんでもなく寂しいんだぜ。」
思わず溢れた。
ナンテンが、初めて、口にした本音だった。