62 宇治へ1
章の頭で書き忘れていましたが、4章、5章には、やや残酷な場面が出てきます。直接的な描写はなるべく避けますが、苦手な方はご注意ください。
※今日の更新分は大丈夫です。長閑です、
「テン?行ってくるよ?」
と、呼ぶ千鶴の声を、ナンテンは、家の天井に通った薄暗い梁の上で聞いた。返事をせずにダンマリり決め込んでいると、何度か、「テン?」と繰り返し呼んでいた千鶴が、諦めて出ていく音がした。
宇治に行かないか、と千鶴が誘われたのは、三日前のことだった。鶯の叔母が宇治で尼になっており、そこに避暑がてら遊びに行くらしい。
鶯が、どういうつもりで千鶴を誘ったのかは、分かっている。
藤袴との一件以降、白拍子の舞を止め、塞ぎがちになってしまった千鶴を気づかい、気分転換を促すためだ。
だから、本当ならナンテンも行きたかった。
一緒に、行きたかったんだけど・・・。
「せめて、宇治でなけりゃあなぁ。」
ため息混じりに呟くのと同時に、家の中で何かが、ガサゴソと動く気配がした。
千鶴はさっき出て行ったはずなのに・・・と、梁から身体を伸ばして覗き込むと、音の主は菊鶴だった。
菊鶴は、昨晩、帰りが遅かった。だから、当分寝ているだろうと思っていたのだが、珍しく、千鶴が出かける前に起きてきて、少し言葉を交わしていたのが、つい先程。
その後、再び寝室に引っ込んだはずだが、なぜか、また起き出してきたかと思うと、天井を見上げて、問いかけた。
「テン、いるんだろう?」
なんだろうかと、身を乗り出して下を見ると、菊鶴が、その場にドカッと座った。
そして、千鶴よりは幾分低い、よく通る綺麗な声で言った。
「・・・あの子、何かあったんだね?」
謡うと艶っぽいと言われる声音が、今は優しい。ナンテンが、何も答えないでいると、菊鶴は、独り言のように話し出す。
「なぁに。見てれば、わかるさ。長いこと、一緒にいるんだ。」
ナンテンの返事を期待しているというわけではなく、ただ、この家の中のどこかで聞いているナンテンに、届けばいいというように語る。
「あの子はさ、ずっと、あたしと二人だけで、旅をしてきたんだよね。他人と碌に付き合いもせず・・・」
菊鶴が、「まぁ、そりゃあ、あたしのせいでもあるんだけど」と、自嘲気味に笑う。
「それが、ここのところ、突然、あの子の周りに人が増えただろう?それ自体は、すごく良いことで、喜ばしいことだ・・・って思ってんだよ。」
菊鶴は、「でも・・・」と、一旦言葉を切った。
「でもさ、人ってのは、いつも優しい好意ばかりを向けてくれるとは、限らないだろう? 好意もあれば、悪意もある。あの子はさ・・・あの子の心は、良くも悪くも、他人に踏み込まれたことがないのさ。だから、好意を向けられても上手に受け止められないし、悪意を向けられたら、受け流せない。」
菊鶴の言っていること。ずっと千鶴の側にいたナンテンには、理解できた。
「根はいい子なんだよ。馬鹿みたいに、純粋で無垢なところもあるんだけれどさ。」
それも、よく分かる。
千鶴は、頼まれると断れないし、正義感も強い。
たぶんそれは千鶴の、もともとの性質の根っこで、でも、なかなか機会がなくて発揮されなかった部分なんだろう。
「なんていうか・・・ほんとうに、まだまだ未熟な子ども・・・なんだよ。でも、」
菊鶴が、「ふぅ」と一つ、ため息をついて、
「でも、あの子の周りには、本気であの子を想ってくれる人たちがいる。」
「そうだろう?」と問いかける菊鶴の言葉には、寄り添い、見守る人の愛情があった。彼女は、紛れもなく、千鶴の育ての親だ、と思う。
ナンテンは、菊鶴の言葉に、梁の後ろに隠れたまま、コクリと頷いた。見えない、とは分かっているけど。
千鶴の周りの、千鶴のことを想って、心配している人たち。
真っ先に頭に浮かぶのは、鶯の君。それから、安倍公賢、斑の姫、気に入らないけど、曽我惟任だって、千鶴にとっては、悪いやつじゃない。
そして何よりーーー
「ナンテン。あんたに頼むのも変な話だが、千鶴の側についていてやってくれないか。」
わかってる。
オイラは、いつだって、誰よりも千鶴の側にいる。絶対に裏切ったりはしない。だからオイラだって・・・・オイラだって、本当だったら、ついていきたかった。
でもーーーー
でも、宇治はだめだ。
宇治には、帰りたくない。
菊鶴は天井にむかって、「頼んだよ。」と、言い添えると、ナンテンの返事を待たずして、再び寝床に消えていった。
菊鶴がいなくなると、部屋はまた、静かになった。
まるで、広い家に、一人っきりでいるように。
たった一人で・・・。
「ふんっ。」
鼻を一つ鳴らして、勢いよく梁から飛び降りる。着地の勢いで、屋敷の木張りの床がキュッと鳴った。
「辛気臭ぇ。」
このまま、家にいても仕方がない。千鶴はしばらく戻らないんだから。
「・・・オイラも、ちょっくら出掛けてくるか。」
ナンテンは、誰にいうでもなく呟くと、玄関の扉の隙間から、外に出た。
山の上まで登りきって、輝き始めた朝日が、いつもと変わらぬ一日の始まりを告げていた。
ーーーあぁ。
「やっぱりオイラも、宇治に行けばよかった・・・。」
気が付くと、その言葉が口から自然に漏れていた。
◇ ◇ ◇
「朝、早うから、すまぬな。」
いつにも増して、質素な着物に身を包んだ鶯は、すでに牛車に乗って待ち構えていた。
千鶴が、白拍子の衣装ではないからと近づくのをためらっていると、
「大丈夫ですよ。今日は殿はいませんから。」
忙しく立ち働いていた阿漕に呼ばれた。
「あら、千鶴さまの荷物は、それだけですか?」
「長い距離を歩くので、荷物は少ないほうがいいかと思いまして。」
「・・・え?千鶴さま、牛車に、乗らないのですか?」
阿漕が、驚いて目を丸くした。
「まさか、横を歩いて行かれるおつもりですか?」
「もちろん、そのつもりだったけど・・・あ、女の姿では、目立つ・・・かな?」
小袖などより、以前、月詠の鏡を探しに行ったときのように、男の格好をしてこれば良かったかなと、後悔した。
あの時の格好。公賢に借りた服が、まだどこかにしまってあったはずだ。
「・・・都を出る前までは、少し離れて歩きましょうか?」
道行く人が減れば、女が牛車の横を歩いていても、気にならないだろう。そう考えて問うと、
「何を言っておるのじゃ。」
鶯が、呆れたように、ため息をついた。
「千鶴も、一緒に牛車に乗っていくのじゃ。」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。が、理解した瞬間、
「いえ、いえ、いえ!私は牛車に乗るような身分ではありませんので!」
確かに、一緒に行こうと誘われたけれど、牛車に同乗するつもりなど、微塵もなかった。菊鶴と一緒に歩いて旅をしていたから、歩くことも別に平気だった。
「我らだけじゃ。身分など、気にすることなかろう。」
「えぇ、ないですよね。」
鶯の言葉に、即座に阿漕が同調した。
「みんなで楽しくおしゃべりしながら、行きましょう。」
千鶴さま!旅は牛車の中から始まりですよ、などと、弾む声で言う。
「でも・・・この格好で・・・」
「ほら、つべこべ言わずに、乗りますよ。」
躊躇う千鶴の背を阿漕が押し、牛車のほうへと追いやった。
牛車の前では、翁が待っていて、ニコリと微笑んで、頭を下げた。
「どうぞ。お乗りください。」
鶯の家に使える下男の翁は、以前、鶯の婚姻にまつわる騒動のときに、何度か顔を合わせている。
阿漕同様、鶯のことを大事に思っている忠義者で、剣の腕もたつ。
鶯が襲われているのを救い出した千鶴に対しては、好意的だった。
「今回は、じぃが、共をしてくれる。千鶴は、私の友人として、付き添ってくれ。」
「友人・・・として。」
「そうじゃ。」
立ち止まっている千鶴の背中を再び、阿漕が押して、牛車の屋形(牛車の人が乗る部分)に押し込んだ。
「千鶴さま!さぁさぁ、乗りますよ!」
三人が中に座ると、牛がのんびりと歩きだした。
牛車が動くと、鶯が、早速、物見を開けた。大きなどんぐり眼を、ピタッとつけて外を覗くと、「うわぁ」と、感嘆の声をあげる。
「千鶴!見て!市じゃ!!市!!」
牛車は、真っ直ぐ朱雀大路を南へ。
都は、内裏に近い北方ほど、高位の貴族たちの屋敷が多い。逆に南には、庶民たちが、多く暮らしている。
「こんなに、早うから、威勢が良いのう。」
「皆、日が昇ると同時に店を開ける始めるのです。このあたりは、売り子も多く、いつも賑やかですよ。」
「そうか!」
鶯が、物見に張り付くようにして膝立ちになり、いつも以上に大きく見開いた目を、キラキラとさせて、外を見ている。
本来なら、はしたない格好といえるのだろうが、牛車の中には、千鶴と阿漕だけ。そんなことを嗜めるような者はいない。
「人の声が、うるさくはないですか?」
「全然!!活気があって、羨ましい。」
鶯が声を弾ませて答えた、そのとき。牛車が、突然、キュッと止まった。
中の三人が、一瞬、前のめりにグラつく。
「どうしたのじゃ?」
物見ごしに鶯が翁に尋ねると、
「申し訳ごさまいません。子どもが飛び出してまいりまして。中の皆さまは、お怪我ありませんか?」
鶯は、確認するように、阿漕と千鶴を見たので、大丈夫だと頷いた。
「こちらは問題ない。子は大丈夫か?」
「はい。今、通り過ぎて行きました。まもなく動きます。」
少しすると、その言葉どおりに、牛車が、カタコトと動き出した。
そのやり取りと聞いていた千鶴は、思わず困ったように笑った。
「どうしたのじゃ?」
「いえ。私は、お怪我ありませんか? などと聞かれるような身分ではありませんので、どんな表情をしていいのか、迷ってしまいまして。」
「どんな、表情もないだろう。素直に心配されておけば良い。」
鶯が改めて向き直るように座ると、
「何度も言うが、今回は、私の友人。客なのじゃ。宇治でも、そのつもりでおれ。」
横からも、主人思いの忠義な女房が、
「千鶴さま。鶯の君の好意を無下にしてはいけませんよ!」
と、目を釣り上げて、念をおし千鶴は、モゾモゾとした居心地の悪さと、その中にある不思議な温かさに包まれた。
しばらくして、市から離れると、外は静かになった。鶯は、物見から離れて、座りなした。
「宇治までは、まだまだかかる。のんびりゆこうぞ。」
3人を乗せた牛車は、長閑な田舎道をゆっくりと歩いていく。
◇ ◇ ◇
家を出たナンテンは、市に来ていた。
庶民たちの生活の中心、市は、今日も物売りたちが威勢よく行き交っている。売り買いされる野菜の屑やこぼれた雑穀がたくさん道に落ちており、ここに来れば、腹を満たすのに困らない。
ナンテンは、道の端の物陰に隠れて、行き交う人たちに目を凝らした。いくら、食い物が落ちているからといって、人間たちに踏まれては、たまらない。
そうして、じっと影に潜めて、美味そうなものが落ちてくるのを待っていると、
「おっ!」
目の前を横切る人間の持っている袋から、ポロポロと豆が零れ落ちるのが見えた。
袋のどこかに傷でもあるのだろう。男が数歩歩くたびに、ぽろり、ぽろりと豆が落ちる。
ナンテンが、舌なめずりして、落ちた豆に飛びかかろうとした瞬間、肝がぶるりと震えるような、嫌な鳴き声が、頭上から降ってきた。
「みやぁう。」
そろりと頭を上げると、その声の主が、ナンテンを見つけて、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
つり上がった黄色の瞳に、茶色と黒の縞模様。大柄な猫が、ペロリと舌先で鼻を舐めた。まるで、美味そうな獲物を見つけたときみたいに。
ナンテンの毛がブワリと逆立つ。
ーーー落ち着け。
オイラは旧鼠。並の鼠とはわけが違うんだから、並みの猫相手に戦ったら、勝てないわけじゃない。
勝てないわけじゃないんだけど・・・
「それでも、やっぱり、逃げるべし!」
ナンテンは、回れ右をして物陰に向けて、走る。
それを「みやぁう、みやぁう」と猫が追う。
人の足の間をくぐりぬけるナンテンを、猫もまた、同じように避けながら追いかけてくる。
(なんだぁ、アイツ。しつこい!!)
ナンテンの息が上がってきたところで、ちょうど、目の前に牛車が止まっているのが見えた。
(よし、良いところに!)
ナンテンは、タタタと軽快に、牛車に足をかけ、そのまま、牛に繋がれた屋形の屋根まで駆け上がった。
「ふん。ザマァ見ろだ!オイラは旧鼠。そのいらの鼠とは、頭も体も、出来が違うでぇ。」
ナンテンさまを甘く見るなよと、小声で息巻く。
標的を見失ったらしい猫は、牛車のまわりで、鼻をふんふんと鳴らして、牛車の上を仰ぎ見た。ナンテンは、慌てて、視線から隠れるように、身を屈めた。
(しばらくは、ここから動かなきほうがいいか。)
幸いにして、空には程よく雲がかかり、風もある。日向ぼっこにもってこいの良い気候。
ナンテンは、牛車の屋根にべたりと張り付いたまま、いつの間にか、ウトウトと眠りについていた。
その牛車が、実は、あやうく子どもを引きかけて、一時停止していただけで、すぐに動き出したのも気が付かずに。
そして、牛車はそのまま、宇治に、向かっていた。