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61 鶯の気遣い

一緒に宇治に行かないか、と言い出したのは鶯だった。


「叔母が宇治で尼になっておってな。」

「あぁ、例の・・・っと、すみません。」


言いかけて、すぐに謝ると、鶯が「良い」と苦笑を浮かべた。


かつて鶯は、意に沿わぬ縁談を組まされそうになった。そこから逃げるために家出しようとした先こそが、宇治の叔母のところだった。そして、その晩、千鶴と鶯は出会った。

結果的に、千鶴が鶯の困り事を解決したので、鶯は宇治に逃避行をせずに済んだのだ。


「まぁ、あのときは結局、行かず仕舞いだったのだが、実は、毎年、避暑に行っておるのじゃ。」


今年は何だかんだで行く機会を逃していたのが、ようやく父の許可を得て、出かけられることになったらしい。


「と言っても、たったの7日ほどだがな。」


それで、その旅に千鶴も同行しないか、という誘いだった。


「よいではないですかっ!」


阿漕が、嬉しそうに、ぽんと手を叩いた。


「宇治は、良いですよ!食べ物は美味しいし、人もみんな温かです。千鶴さまも、ぜひ、一緒に行きましょう!」

「気分転換には、もってこいだと思うのだが・・・どうじゃろう?」


()()()()

鶯が、どういうつもりでその言葉を発したのか、千鶴にはよく分かっていた。


千鶴は、藤袴との一件以来、白拍子として舞うことを止めた。本当なら、白拍子の衣裳も着ていないのだから、ここに出入りすら出来ないのだが、用事があるからと鶯に呼ばれ、睨みを効かせる父の七条兼助が不在の間に、あれよあれよと阿漕と下男の翁の手引で、部屋にあげられた。


「宇治なら、うるさく言う殿(鶯の父)もおりませんしね。」


阿漕が、茶目っ気たっぷりに、片目をつぶった。期待を込めてこちらを見ている二人に、


「しかし・・・」


千鶴が逡巡すると、


「何か問題でもあるのか?」

「問題というか・・・」


いくら何でも図々しいのではないか。

そう思い、断ろうとすると、業を煮やした阿漕が、


「いいではないですか!千鶴さま、どうせ、お暇なんでしょう?」


と、詰め寄ってきた。


「白拍子のお仕事も断られて、公賢さまのところにも出入りされず、ここにも顔を出すのにも渋りなさる。このままでは・・・」


あまりにも直接的な言い方に、鶯が「阿漕!」と嗜めるのも聞かず、


「このままでは、千鶴さま、一人になってしまいます!誰とも関わらず、せっかく知り合った私達や他の皆とも、距離を置かれて・・・」


阿漕が、グスンと鼻を鳴らした。


「鶯の君さまが、どれほど千鶴さまのことをご心配されているか、ご存知ですか?鶯の君さまは・・・鶯の君さまは・・・」


阿漕の瞳に涙がじわりと滲んだ。鶯が、先程のような諌めるようなものとは、また違った感情のこもった口調で、「阿漕・・・」と呟いた。


阿漕が口をへの字に噛み締めて、もどかしそうに、「うぅ〜」と唸る。鶯が、主想いの女房の背に手を当てて、ヨシヨシと擦った。


阿漕は、情に厚い。鶯のことを本当に大事にしている。鶯のことで、こんなにも激するほどに。そして、それは、それ程までに鶯が、千鶴のことを心配してくれているということでもあるんだ、と気がつくと、胸に温かいものが、じわりと広かった。


気がついたときには、「行きます。」と返事をしていた。


「あっ・・・」


答えてから、驚いて口元に手を当てた千鶴に、二人は、


「本当かっ?」

「やったぁ!!千鶴さま、楽しみですね!」


弾けるような笑顔で飛びついてきた。


その顔を見た千鶴は、ハッとした。

自分が、この二人に誘ってもらったことをうれしい、と思っていたことに気が付いたから。


「・・・うん。」


その気持ちを噛みしめるように頷くと、


「私も鶯の君に、ご一緒させてください。」

「もちろんじゃ!」


鶯が嬉しいそうに、膝の上で寛いでいるナンテンの顎を、指で優しく撫でて、


「無論、ナンテンもいくんじゃな?」


すると、ナンテンが、珍しく、首をふって、その指を躱す。


「オイラは行かねーぜ。」

「え?何故じゃ?千鶴も行くのじゃぞ?」

「だって、宇治だろう?宇治はダメだ。」


うつむき加減にそう言うと、ふいっと頭を隠すように、尻の方に巻き込んで丸まった。


「千鶴さまが行ったら、ナンテン一人で留守番になりますよ?いいんですか?」


阿漕が、ちょんちょんとナンテンをつついたが、素知らぬフリして、反応しない。


その様子に、鶯と阿漕が千鶴の方を見た。

なぜナンテンが宇治に行かないのか、二人の目が答えを聞き出そうに問いかけていたが、千鶴は首を横にふった。


千鶴自身にも思い当たる理由がなかったから。

それでもその頑なな態度は、ただ事ではないように思えた。


千鶴と出会うより前のことかもしれない。

千鶴の知らない出来事が、ナンテンにもある。


しばらくツンツンとつついてた阿漕は、あまりにも反応を返さないナンテンに、仕方ありませんねぇ、とばかりに肩をすくめた。



◇  ◇  ◇



千鶴は、綺麗に畳まれた衣服の前で、まるで、その服と話し合いでもするかのように、背筋をシャンと伸ばして正座していた。


鮮やかな緋色の袴の上には、染みのない白色の水干。千鶴が持っている服の中で、一番上等で、特別な服。その服の上には、舞うときに使う扇子と公賢から渡された剣が置いてある。


千鶴は、その扇子を手に取ると、軽く腕を振った。シャッと小気味の良い音を立てて、扇子が開く。


座ったまま、腕を真っ直ぐに伸ばし、手首を返した。いつも踊るときにするのと同じようにーーーしかし、千鶴の指先は震えていた。いつもなら真っ直ぐに伸ばし、ピタリと静止させている扇子が、指先の細動を受け、僅かに揺らぐ。


千鶴は、扇子の先にくべていた視線を、指先から手首、そして、腕へと移した。


(駄目だ。)


ため息とともに、一気に脱力する。

やっぱりダメ。舞うことはできない。


腕がガクンと落ち、頭を垂れた。踊ろうとする度に、藤袴に言われた言葉が、頭の中に谺する。


ーーーお前のその、純粋で、透明で、清廉な舞が、私の心を覆う瘡蓋を剥がし、その奥底に眠る、汚くて醜い感情を炙り出したから、私は悪霊となったのだ。


そんなわけはない、と思う。

そんな力が自分にあるはずはない、と。

私はただ、ひたすらに、踊ることと向き合ってきただけだ。私を拾った菊鶴が私に与えてくれたもの。ずっと、ずっと、真摯に向き合い、突き詰めてきた。


だから、私はただ踊る。

そのことに特別な何かも、それ以上の力も、何もないーーーはず、なのに・・・なのに、あのときの言葉は、棘となって突き刺さり、千鶴を縛っている。


もし、また、藤袴の宮と同じように、誰かを辛い気持ちにさせてしまったら?

最悪、悪霊に墜ちてしまったら?


私のせいでーーー。


考えると息が苦しくなり、粗い呼吸を、二度、三度した。そうして、すこし頭が冷えてくると、


ーーー私に、舞う資格はない。


それが、千鶴の出した結論だった。

もう、何度も確かめて、何度もたどり着く結論。


千鶴は、扇を閉じると畳んだ服の上に、丁寧に置きなおす。目を瞑り、深いため息をついた、そのとき。


「千鶴?」


呼ぶ声に振り向くと、床から出たばかりの、気だるそうな菊鶴が立っていた。

今のを見られていたかもしれないと思うと、後ろめたさが、急速に心の中に広がる。

それを取り繕うように、


「お師匠さん、こんなに早くにどうかしましたか?」


昨夜遅くに帰ってきた菊鶴は、いつもなら、床の中で深い眠りを貪っている最中のはずだ。


「そろそろ出かける頃合いじゃないのかい?」

「あ、はい。そろそろ出るつもりで・・・」

「七条のお姫さまとの約束だろ?そんな格好でいいのかい?」


菊鶴に顎で促され、千鶴は、自分の着ている小袖を見た。


「でも、これ以上の服は持っていませんし・・・」


手持ちの中では、最も綻びの少ない、小綺麗なものを選んだつもりだ。


菊鶴は、一瞬だけ、千鶴の向こうで綺麗に畳まれている白拍子の衣装に視線をくれたが、何も言わずに、「そうかい。」と、短く答えた。


その動きだけで分かる。


菊鶴は気づいている。

ここのところ、千鶴が、この服に袖を通していないことを。

それでも、菊鶴は、尋ねることも、攻めるようなことも、言ったりはしない。

その気遣いは、有り難かった。


「・・・・・・・気をつけて行ってきな。」


ポツリ、と、それだけ言うと、菊鶴はくるりと向きを変えて、また、寝床の方へと戻って行った。


その背を見送り、一人になった部屋で、再び白拍子の衣服に視線を戻すと、千鶴は、束の間、逡巡した。


一度、その服の方へと手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込め、迷ってから、再度、手を伸ばすと扇の横の剣を手に取る。

この剣は、公賢から受け取った。千鶴のものだと言って渡された剣は、柄を握ると、不思議なほどにスッと手に馴染む。


白拍子の衣裳も扇も必要ないが、この剣だけは、持っていったほうが良いような、持っていくべきもののような気がした。


千鶴は剣を小袖の帯紐に挿すと、いつもお守りにしている櫛を懐に入れる。

それから少ない荷物をボロボロの布切れに包んで、立ち上がると、ナンテンに声をかける。


「テン?宇治に行ってくるよ?」


何度か呼びかけ、しばらく待ってみたが、案の定、返事がないので、千鶴は仕方無しに、そのまま戸口へと向かった。



家を出たところに、見慣れぬ若い男が立っていた。

こんな朝早くにと、不審に思いながら、通り過ぎようとすると、


「白拍子の千鶴どのですね?」

「はい・・・?」


知り合いだったかなと足を止めると、男が、権大納言家の使いである旨を告げた。改めて男を見る。確かに、一見どこにでもあるような土色の直垂(ひたたれ)(着物)は、よく見ると、権大納言家らしく、仕立てが良い。


「権大納言・・・が、私に何か御用でしょうか?」

「正確には、唐錦(からにしき)の姫さまから、です。」


権大納言の娘、唐錦は、宮中に尚侍(ないしのかみ)として出仕している。ちなみに、権大納言と北の方は狐だが、娘の唐錦は歴とした人間だ。


「姫さまに・・・・何かあったのですか?」


箱入りの割に、結構、大胆なことをする姫だ。何か宮中で問題でも起こしたのかと心配すると、


「いえ、そういうことではなく。」


使者の下男は、唐錦が千鶴に用事があるので、手隙のときに、権大納言邸に足を運んでほしいという旨を伝えた。


「・・・これから、宇治に出かけるのですが、お急ぎでしょうか?」

「できるだけ早く、との仰せでしたが、もちろん、今すぐというわけではありません。唐錦の君も、内裏(だいり)からのお里下がりの許可を得ないとなりませんので。」


尚侍は、内裏に部屋を賜っている。そこで寝起きしてしており、自分の都合で家に帰れるわけではない。それであればと、7日先の宇治から帰る日を告げる。


「かしこまりました。それでは、その日に合わせて唐錦の君も権大納言邸に戻りますので、千鶴どのは、宇治よりお戻りになられたら、お越しいただきますよう。」

「わかりました。」


千鶴が約束すると、下男は、すっと踵を返して、去っていった。


唐錦の姫君。

雛人形のように整った容姿の可愛らしい姫さま。狐である権大納言が、精魂込めて育て上げ、その所作も教養も、どこに出しても恥ずかしくないほどに、磨き上げられている。

やや気位が高く、思い込みの激しいところもあるが、根は素直な娘。


宮中に出仕してからは、とんと音沙汰がなかったが、元気にしてきるだろうか。

今更、千鶴になんの用事だろう、などと考えながら歩いているうちに、あっという間に、鶯の屋敷、七条邸についた。



4章は全体で、5章のプロローグのような感じです。

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