60 公賢と比丘尼
4章開始は11月中に!と宣言したので、とりあえず更新を。
秋雨が庭に降り注ぎ、木の葉を湿らせる。夏の暑さに飽いていた、草木たちは、その雨を嬉しそうに、浴びていた。
「ここに来るならば、できれば晴れた日に。と思っていましたが、雨の情景もなかなか良いものですね。」
安倍公賢は、庵の外の庭を眺めて言った。都のそれとは違い、造られた美も華やかさもないが、自然の織りなす美しさがある。
「恵みの雨です。雨が降らなければ、草木も穀物も、実を結びませぬ。」
目の前に座る比丘尼が、「どうぞ。」と湯飲みを差し出した。
「いただきます。」
手を伸ばし、持ち上げると、中の液体が目に入る。
「これは、もしや」
手に持った湯呑を燻らせると、白い湯気の下で、ややトロミがかった薄茶色の液体がゆらゆら揺れた。
「噂に聞く、茶・・・ですか?」
「さすが。公賢どのは、何でもご存じですこと。」
比丘尼が、微笑んで頷く。
「いや。飲むのは、初めてです。」
「宇治にいる知り合いの僧から、譲ってもらったのです。」
『茶』と呼ばれるもの自体は、以前から存在している。非常に希少なもので、高位の貴族の一部で、好むものがいる。しかし、それとは別に、最近、宋から帰った僧侶が、唐物の茶の種子を持ち帰り、新たに栽培を始めた、という話を耳にした。
「なるほど。それでは、やはり、これは噂の新しい『茶』なのですね。なんとも興味深い。」
「茶の古いと新しいで違いがあるのか、よくわかりませんが。この茶は、滋養強壮によいものだそうで、海の向こうの国では、宋よりずっと古い時代から飲まれているのだそうですよ。」
言うと比丘尼は、
「あら、いけません。年を取るとご託が多くて。」
と笑い、公賢に、向けて掌を差し出た。
「どうぞ、お召し上がりください。酒のお好きな公賢どののお口に合うかはわかりませんが。」
「いただきます。」
公賢は、ゆっくりと湯飲みを口に運ぶと、茶を一口含み、ごくり、と飲み下す。
香ばしさと共に、なんとも言えない、苦味が、舌を刺激した。
「これ・・・は・・・」
最初の一口に遅れて、本来の味わいが舌を襲う。
「・・・苦い、ですね。」
顔を顰めると、比丘尼が、「ほほほ」と笑って、
「その苦さが、身体に良いのです。飲んでいるうちに癖になるのですよ。」
「そういうもの・・・ですか?」
「そういうものです。貴方はまだ、若いから、お分かりにならないでしょうが。」
「あまり、ご自身を年寄り扱いなされないでください。私と貴女は8つしか離れていないのです。私とて、若くはありません。」
比丘尼は、「いやだわ。」と、からから笑った。
「8つも離れている、でしょう?」
公賢は、茶目っ気たっぷりに言った比丘尼の顔をまじまじとまた。湯飲みを持つ手にも、茶をすする口許にも、うっすらと浅いシワが、幾筋かみえる。
かつては、ふっくらとしていた頬も、今はだいぶ痩せた。だが、整った目鼻立ちは、変わらず美しい。
「剣を渡してくれて、ありがとう。」
比丘尼も、自分の茶をすすすと啜った。
「いえ・・・。」
少し考えてから、
「でも千鶴は、剣を使いませんでしたよ。」
公賢が惟任を通じて渡した剣は、藤袴の屋敷に来たときに、確かに千鶴の腰元に挿してあった。しかし悪霊に堕ちた藤袴と対峙したときには、柄に手をかけこそしたが、結局、その剣を振るうことはなかった。
「それでいいのです。あの剣は、戦うためのものではない。」
比丘尼の視線が、「あなたならわかっているでしょう?」と、問いかけていた。
「あの子が持っていることで、役立つ日が必ず来ますから・・・だから、渡してくれるだけで良いのです。」
「別に、渡したのは私じゃありませんがね。」
口に出してから、「しまった」と心中でため息をつく。どうもこの人の前だと、つい、捻くれた子どものようなことを言ってしまう。
比丘尼が、公賢の言葉に、「そうでしょうとも。」と、肩をすくめた。
「貴方が渡したら、今頃、千鶴は、ここに来ているでしょう?」
今度は少しムッとして、
「私の口がそんなに軽いと思われているとは、心外ですね。都では、私にそのようなことを言うものはおりませんのに。」
「まぁ。こんなに、分かりやすい貴方なのに?」
比丘尼は、わざとらしいほどに驚いてみせてから、「狐の化けの皮は、剥がれていませんのね。」と、からかうように笑った。
「それとも、都の者たちの目は、皆、節穴なのかしら?」
「・・・まったく。貴女には、かないません。」
公賢も今度は思わず、苦笑いが溢れた。
「それにしても、あの子は、厄介なことに次々と、巻き込まれるのね。」
比丘尼が憂いて、ため息をついた。
「あなたの血のせい、でしょう?」
そう言うと、困ったように、眉尻を下げた。なぜだか、泣きだしそうにみえて、
「失礼。余計なことを言いました。」
「いえ、いいのですよ。本当のことだから。」
少し逡巡するように、唇を震わせ、
「全ては、私が招いたこと、ですもの。」
公賢は、ハッとして、幼い頃から憧れていた年上の女性の顔をまじまじと見つめた。
「名乗りでない・・・のですか?」
つい、口をついて出た言葉に、「今は、まだ。」と、比丘尼が首を振る。
「今はまだ、ということは、いずれはそうするつもりですか?」
今度は少し考える素振りをしてから、
「時がくれば、会うかもしれません。」
「来なければ?」
「会わないでしょう。」
比丘尼の声に、未練や寂しさは感じられなかった。
「あの子が、幸せなら・・・今、辛い思いをしていないのなら、無理に会う必要はありません。」
公賢は以前、千鶴に「今の人生に満足しているか。」を、遠回しに聞いたことがある。唐錦に、月詠みの鏡を使わせるか、自分が使うかを選ばせたのだ。
千鶴の答えは、明快だった。
「自分は使う必要がない。」と。
彼女は、決して、今の自分を不遇だと思っては、いない。けれどーーー
「今、彼女の心は少し・・・傷ついている、かもしれませんよ。」
公賢は、手許の湯呑に視線を落とした。手の動きに呼応するように、茶色い液体が、ゆらりと動く。
「でも、それを助けるのは私の役目ではない。」
比丘尼の言葉に、公賢は顔を上げた。
「あの子の周りに、貴方や他の人たちがいて、助けてくれる。」
そこには、「そうでしょう?」と、確信を持って確認する、優しい顔。
「私に会うことは、返って重荷を与えることになるかもしれませんからね。」
ずいぶん昔に出家して、尼となっているが、決して軽い身分の人ではない。千鶴自身は、皇族の血をひいていることを知っている。望めば後ろ楯にを得て貴族の身分に復することも、できるかもしれない。
それでも、彼女は、それを強く願うことはしなかった。
「けれど、もし、千鶴がこの先、困難にみまわれ、本当に私の助けが必要になったら、必ずあの子を助けましょう。」
比丘尼は、公賢の目を真っ直ぐに見つめた。
強く、美しい光を放つ瞳。かつて、幼い頃に憧れてやまなかった、眩しい眼差しは、今も公賢を捉えて離さない。
5章の執筆に時間を取られて、4章の推敲をしている時間が・・・(4章自体は一応書き上がっています)。続きは、整い次第の投稿です。スミマセン。