58 後日、藤袴邸にて
手入れされた庭から、盛りを過ぎた日暮の鳴き声が、時折聞こえてくる。
夏の暑さは峠は越し、朝晩、幾分涼しくなってきたものの、まだ日中の気温は高い。病み上がりの身体には差し障るのではないか。
「お加減はいかがですか?」
千鶴は、目の前に座る、華奢な藤袴の宮の身を案じて尋ねた。
一度は死の縁ギリギリまで、足を踏み入れていた藤袴だったが、今は、だいぶ、以前の顔色に戻っている。
「ありがとう。お陰さまで、もう、ほとんど、良いのです。」
藤袴が、目を覚ましたのは、あの事件から三日後。それから、起き上がれるようになるまで、さらに三日を要したという。
その間、つきっきりで、世話をしていた治部卿は、今も藤袴の隣に寄り添うように、座っていた。
「皆様には、すっかりご迷惑をお掛けしてしまいました。」
藤袴の宮には、先日までと大きく変わったことが一つある。座っているときには、床を這うほどに長かった髪の毛先が、今は、肩の上で軽やかに揺れていた。
その視線に気づいた藤袴が、髪をサラリと手で梳いて、
「随分と変わったでしょう?」
起き上がれるようになって、二日後、髪を下ろし、仏門に入ったという話は、権大納言から聞いていた。
一連の騒動に対する禊だ。
「髪を切ると不思議なもので、今まで、あれほど目を背けていた自分自身の暗い気持ちと、素直に向き合えるような気がいたしました。」
藤袴は、以前とはまた少し違う、慈愛に満ちた笑顔をみせた。
「ここも、いずれは辞去するつもりでいるのです。」
その言葉に、横で座っている、治部卿のゴツゴツとした拳が震えた。よく見れば、瞳も赤い。
権大納言から漏れ聞いた、藤袴が髪を削ぐときに、「考え直してくれ」と泣いて縋ったらしいという話は、案外、大袈裟ではないのかもしれない。
「都を・・・出られるのですか?」
藤袴は、無言で庭に目を向けた。立派な桃と橘の木に、中島にかかる朱塗りの橋。見る人を愉しませる心遣いに溢れ、趣味よく整えられている。
「すぐに、というわけではありませんが、いずれは。少しやることが出来てしまったので、そちらが片付き次第、と思っています。」
庭からは、相も変わらず、日暮のカナカナという鳴き声が哀切を伴って聞こえてくる。藤袴の姿は、まるで、そう遠くない未来にやって来る、この屋敷との別れの時を惜しんでいるようにも見えた。
藤袴は、千鶴に向き直ると、
「夫と関係のあった女性たちも、私が気絶した後、目を覚ましたそうです。」
すぐ横で居たたまれない様子で身を縮めた治部卿とは対象的に、藤袴は、とても穏やかに言った。
「誰も死に至ることがなくて、よかった。」
心から、そう思って安堵しているのが伝わってくる。
この人は、自分の仕出かしたことと、その結末に、心のけじめをつけたのだ。
「少し、昔話をしてもいいかしら?」
「昔話、ですか?」
「えぇ。私の過去の話を。」
藤袴は、白拍子であったという自分の母と、帝であった父の話をした。
大好きだった母が亡くなり、父に見捨てられたくなかったこと。生きていくために、愛されなくてはいけないと思ったこと。
「私は、ずっと悩んでいました。私を優しいと褒めそやして、慕ってくれる人たちが多ければ多いほど、皆を騙しているような気がして。」
「私は、騙されたとは、思いませんでした。」
千鶴は、あの時、口にしたことと同じ言葉を繰り返す。これは、その場限りで取り繕ったわけではなく、本心からの言葉だった。
「優しくあろう、明るくあろうとすることは、素敵なことだと思います。」
思えば、千鶴自身は、自分が生きてきた中で、人と深く関わるということを積極的にしてこなかった。傍らには、いつも家族同然の菊鶴がいて、それで十分だった。彼女以外の者たちは、ただ一時を通り過ぎていくだけで、深く交流を結ぶことなど、考えることすらしなかった。
もちろん、菊鶴がいたことで、そうしなくても生きてこられた、という幸運もある。
藤袴は、自らが生き残るために致し方なかったとはいえ、他者と関わることを選び、そのための努力をした。そして、周りの人間たちは、そんな藤袴を受け入れた。
「望んだからといって、人は簡単に、思う自分になれるものではない、という気が致します。藤袴の宮さまの振る舞いが、本当に、上辺だけのものなら、周りの人間は、受け入れたりはしません。それができていたのなら、それも藤袴の宮さまの、自然な本質なのだと思います。」
自分の行動は打算的なものだと思い込み、悩むことで、自分を否定した。でも本当は、優しく、温かい藤袴も、本当の藤袴なのだ。必要以上に、自分の中の暗い部分を責立てることは無い。
「ありがとう。」
藤袴は、小さく俯いて、指で瞳にたまった涙をぬぐった。
そういえば藤袴は、自分が悪霊となり、女性たちに祟っていたことを覚えているのだろうか。ふと尋ねようとしたが、やはり、それは失礼にあたる気がして、開きかけた口を慌てて閉じた。
それに気がついた藤袴が、
「何か聞きたいことがあるのでしょう?」
「いえ・・・あの・・・でも。」
遠慮して口ごもる千鶴に、
「いいんですよ。聞きたいことがあるなら、聞きなさい。もう、これが最後なのですから。」
最後。
やはり、藤袴は、そのつもりなんだ。
「それでは・・・」
千鶴は、思いきって、疑問に思っていたことを聞いた。
「藤袴の宮は、ご自身が霊となって、周りの方に取りついていたことを、自覚されていたのですか?」
藤袴は、顎のしたに手をそえ、少し考えてから答えた。
「その答えは、はい、であり、いいえ、でもあります。」
「はい、であり、いいえ、ですか?」
「夢を見ていました。」
藤袴は、再び、庭に視線を向けた。
庭のどこか一点を、じっと見つめている。今度は
惜別ではない。髪とともに切り落とした自分の半身が、そこに、鎮座でもしているかのように睨んでいた。
「あのときは・・・どこか、自分の遠くで起きているような、絵物語の中から飛び出した話を目の前で見ているような、そんな不思議な感覚でした。」
藤袴は、ゆっくりと口を開いた。
「それは、自分がやったことのようでもあり、自分ではない、別の誰かがやっているのを見ているかのようでもありました。だから、絶えず、自分に問うておりました。あれは、自分なのか、自分でないのか。」
千鶴を迎え入れてくれた、あの日の温かい態度、笑顔の裏側に、そんな苦悩を抱えていたなど、微塵も気がつかなかった。
ふいに、藤袴は自分の両手のひらに視線を落とした。
「あなたを襲ったことも覚えていますよ。ここから帰る夜道でのこと。」
千鶴も、もちろん、その時のことを覚えている。
あの日、藤袴の家で、治部卿と初めて挨拶をしたあとの帰り道のことだった。
「治部卿が、この部屋であなたを一目見たとき、強い関心を持ったのが分かりました。」
確かに、あのとき、治部卿の顔色が一瞬、変わった。
「今となっては、あなたが、この人の息子によく似ていたからなのでしょうけど、その時は、この人が貴女に興味を持ったことで、頭がいっぱいでした。」
治部卿が、手を出した女の中には、白拍子もいたという。他の女性に関心が移るのを極端におそれていた藤袴にとって、小さな変化で、不安になったことだろう。
そして、悪霊となり、千鶴の首を締めた。
藤袴は、その時の感触を確かめるように、手のひらで、軽く握るような仕草をした。
すぐ横に座っている治部卿が、いたたまれない様子で、もじもじと尻を動かした。
そういえば、藤袴は、すでに千鶴が男のふりをして、治部卿の息子、大江業光に成り代わり近衛の舎人として勤めていたことを聞いているのだ。
「あの・・・そういえば、治部卿のご子息の事は、」
「誰にも言いませんよ。貴女はもちろん、夫の立場も危うくなりますから。」
そういわれれば、当然そうか。
千鶴はホッとして、「ありがとうございます。」と頭を下げた。
「私の息子、平業光は、一時、病床に伏しておりましたが、快癒した後、黒拍子と戦い負傷しました。しかし、それも今は完治しております。これが全てであり、悪霊に憑かれて眠っていた事実など、どこにもございません。」
「はい。その通り・・・えぇ?」
頷きかけたが、遅れて理解した、その言葉の意味に気がつき、聞き返す。
「私の・・・息子?」
「えぇ。私の息子、です。」
にこやかに頷く藤袴のところに、折よく女房がやって来て、
「業光どのがお戻りです。千鶴どのがいらっしゃるなら、ご挨拶したいそうですが・・・」
「入ってもらいなさい。」
藤袴の言葉を受け、女房に促されて、几帳の向こうから、男が少し、遠慮がちに顔を覗かせた。
「どうぞ、こっちへ。」
藤袴の呼びかけに、おずおずと中に入り、胡座をかいた。
「初めまして。平業光と申します。正式に父の息子として、此度、大江から平に変わりました。」
千鶴と同じくらいの体格のその少年は、やや掠れた声で、両手の拳を地面につけて、軽く頭を下げながら、挨拶をした。
千鶴とよく似ていると言われたその顔は、まだ、少年のように幼いが、あのときとは違う。ふっくらとした頬には赤みがさし、顔つきも千鶴と比べれば、やや精悍に見える。
「息子さんとして、お迎えになったのですか?」
「治部卿に頼まれたのです。母代わりとなってほしい、と。もちろん、仏門に入った私ですので、できることには限りがありますが。」
業光の母は、美濃の人だと聞いたが、すでに亡くなっている。横から、治部卿が、言い訳するように、
「私の子として、正式に迎え入れたのはいいのだが、何分、業光は、都の決まり事や、雅なことなど、全く無縁だったのだ。私は無骨者だし、藤袴のように、細やかな気遣いができる者が面倒をみてくれるのなら、安心だと思ったのだよ。」
なるほど。先程、藤袴の宮が、まだ、こちらに、留まりやることがあると言ったのは、このことだったのだろう。
そして、それは、藤袴に未練のある治部卿が、彼女の優しさを頼みに、お願いしたに違いない。
しかし、それでも、その役割は、藤袴には、適任に思えた。
「本当は、たいして教えることはないのですよ。業光の母君さまは、数十年前に美濃に下った帝のお血筋の方らしく、所作や教養は並以上。私の教えられることなど、ほんの少しだけなのです。」
嫉妬と向き合い、解放された藤袴の宮が、今まで見せた優しさとはまた違う、慈愛に満ちた顔で、業光を見守っている。
千鶴の知らぬーーーこれが母の顔、なのかもしれない。
「いいえ、そんなことはありません。」
業光が、慌てて、首を左右に振った。
「田舎育ちゆえ、右も左も分からぬ私です。藤袴の宮さまには、いろいろとご指導いただいております。」
座ったまま深く頭を下げた。嫌みのない、素直な言い方だった。
少し掠れて聞き取りづらい声に、少年期の終わりを感じさせた。きっと、良い青年に育つだろう。
「業光。あなたを迎え入れたことで、私は、母になることができたのです。この先、亡き母君に代わり、貴女の一番の味方になりましょう。」
もともと愛情深い人だ。きっと、言葉どおり、業光を大切にするだろう。
藤袴は、今度は千鶴の方に向き直り、
「千鶴。貴女が、あのとき、私を呼び戻してくれたおかげで、私は、悪霊に堕ちたまま死ぬことなく、戻ってこられました。本当にありがとう。」
両手をついて、深々と頭を下げた。
「そして、今日、ここに来てもらったのは、他でもありません。最後に、あなたに、一つだけ、お伝えしなければならないことがあります。」
先程までの柔らかい笑みが消え、唇を固く結んだ、真剣な眼差しに変わる。
その瞳を千鶴に向けて逸らさぬまま、ゆっくりと口を開いた。
「あの時、貴女に対して私が口にした言葉は、全て嘘です。」
千鶴は、ハッと息を呑んだ。
何のことを言っているかは、すぐに分かった。あの時、あの、悪霊となった藤袴が口にした言葉。
ーーーお前のその、純粋で、透明で、清廉な舞が、私の心を覆う瘡蓋を剥がし、その奥底に眠る、汚くて醜い感情を炙り出したから、私は悪霊となったのだ。
その言葉は、藤袴が元に戻った今も、千鶴の胸に棘として突き刺さっている。忘れることはできない。
今、藤袴は、その棘を抜こうとしていた。
「私が悪霊に落ちたとき、あの悪感情は、全て私自身の不徳が育てたものです。だから、あなたには、何一つ、責任はありません。貴女は、何も悪くないのです。」
藤袴は、背筋を伸ばし、千鶴の心に届けようと、懸命に声かけていた。自分が傷つけてしまった人の心を、元に戻そうとしていた。
しかし、一度、千鶴の耳に入ってしまった言葉は、なかったことにはできない。棘は、そう簡単に抜けるものではなかった。
千鶴は、一度、ゆっくりと瞬きをして、その棘を覆い隠し、正反対の答えを返した。
「はい。分かっております。」
両手をついて、まっすぐ見つめ、わざとらしく見えないように努めて、笑顔を取り繕う。
「あれは、不幸な出来事。藤袴の宮さまも、どうかお気に召されませんように。」
「千鶴・・・」
藤袴は沈痛な面持ちで呼びかけ、さらに続けて、何か言いたそうに口を開いたが、千鶴が静かに首を振って、それを遮った。
これ以上、藤袴と話しても、仕方がないのだ。アレは、今、目の前にいる、この方自身が自覚をしてやったことではない。だが、だからと言って、千鶴が、この人の心の悪意をこじ開けたという、事実も変わらない。
しかし、今となっては、それももう、藤袴には関係ないこと。千鶴が藤袴の前で舞うことは、二度とないのだから。
この方は、もう白拍子の舞を見ることは、しないだろう。贖罪の気持ちから、千鶴との交流さえも断つつもりでいる。
そして、千鶴自身もーーー
(私はもう、誰の前でも舞わない。舞えない。)
私の舞は、人を傷つけてしまう踊りだから。
人の悪意をこじ開けてしまう踊りだから。
だから、もう白拍子として舞うことは、出来ないのだ。
千鶴は、膝の上に置いた拳をキュッと握った。
それから、しっかりと面をあげて、藤袴を見た。
この方と謁見するのは、これが最後。
どんなことがあっても、この方のくれた、温かい心遣いは嘘ではない。いつも千鶴を優しく、温かく迎え入れてくれた方。
「ありがとうございました。どうか、お元気でお過ごしください。」
千鶴は、今までの感謝の気持ちを込めて、深く頭を下げ、別れの挨拶をした。
次回、3章結び(エピローグ)です。