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56 調伏3

藤袴の宮は、上品な紅色の着物の裾を、ずるり、ずるりと引きずりながら、千鶴たちのいる部屋に入ってきた。


虚ろな瞳で、ぐるりと部屋全体に視線を巡らせて、公賢(きみかた)、権大納言、未だ目を覚まさない大江業光(おおえなりみつ)を順に見たあと、千鶴のところで、ピタリと動きを止めた。


「藤袴の宮さま!!」


千鶴は、受け止めた視線に返すように、その昏い瞳に向かって呼びかけた。しかし、藤袴が反応はすることはなく、再び視線を大江業光に移した。


と、突然、藤袴が動いた。先程までよりも遥かに俊敏に。


公賢の制止の声が飛ぶ。


「千鶴、下がりなさい!」


しかし、千鶴は、咄嗟に藤袴と業光の間に躍り出た。藤袴が、邪魔な千鶴めがけ、突進してくる。千鶴は、刀に手をかけた。が、その手が躊躇った。

千鶴は、刀を鞘から抜けなかった。


(切れない。)


藤袴の宮さまを、私は、切れない。

柄を握る手の指先が、その迷いを受けるかのように、ほんの一瞬、緩んだ。その隙をついて、藤袴が、両手を千鶴の首にかけた。

ぶつかった衝撃で、首元のナンテンが吹っ飛んで、床に転がり落ちる。


「あ゛っ・・・・」


千鶴の喉が締め上げられ、空気が遮断される。息が出来ず喘いだ。


「くる・・・しっ・・・」


あのときと同じ。

あの晩、千鶴を襲った正体不明の女の霊。あれに締め上げられたときと同じ苦しさが、今、ここで再現されている。


(そうか、あれも、藤袴の宮さまの生き霊・・・)


千鶴は、遠くなりそうな意識を、なんとか繋ぎ止め、


「藤袴の・・宮さま・・・・。離して・・・ください・・・・・・」

「うるさい。私の邪魔をするな。」


藤袴は、低く唸るような声で、「悲しい。悔しい。恨めしい。」と呟く。


「私は、あの者を、どうしても許すことができぬ。私には授からなかった、あの人の子を、私は生かしておけぬのだ。」


(あの人の・・・子?)


藤袴の視線の先には、布団の上の業光。


(そうか!?そうだったのね。)


千鶴は、ようやく気がついた。


そこに眠る子と、治部卿(じぶきょう)の関係を。藤袴が悪霊となったわけを。

治部卿と業光が話をしていたことも、権大納言邸まで千鶴の様子を見に来たことも、公賢が、わざわざここで調伏すると言い出したことも、すべての辻褄が合う。


この人は、悲しかったんだ。あんなに、明るい人が、こんなふうに身を落とすほどに、悲しんでいたんだ。


それまで虚ろだと思っていた悪霊の顔に、突如、感情が宿ってみえる。哀しい、哀しい瞳。


(かわいそうに。)


昏く寂しい世界に、この人は、たった一人。

治部卿を見るときの、恋する乙女のようなキラキラとした瞳の藤袴を思い出す。

きっと、たくさん傷ついたんだ。辛い思いをしていたのね。


そのとき、公賢の低い声が鋭く飛ぶ。


「耳を貸さないように。心を持っていかれます。」


次いで、囁くような調(しらべ)が耳に届く。公賢が、経文を唱えていた。

千鶴は、ハッと意識を取り戻した。


(今、わたし・・・)


藤袴に、心を取り込まれかけていた。

同情して、暗い底なし沼のような世界に引きずり込まれそうになっていた。


公賢の口から流れ出る経が見えない鎖のように連なって、千鶴と藤袴の二人に巻き付き、取り囲む。そのおかげで、千鶴の首を締め付ける藤袴の手が、僅かに緩んだ。


「油断しないように!」


公賢が、印を結んだ手に、力を込めながら、早口で言う。


「千鶴、よく聞いてください。この霊は払うことは出来ません。この霊は、藤袴の宮自身。沈めるためには、悪霊と化した藤袴の宮自らが、自我を取り戻すか、藤袴の魂もろもと払うか。この2つのどちらかしかありません。」

「そんな!それでは藤袴の宮さまは?!」


魂もろとも払うーーーそれは、すなわち藤袴の死!


「ぐぅ・・・こしゃくな・・・」


藤袴が、まとわりつく経文を押し戻すようにもがくと、千鶴の首を締める指先が、再び力を増した。


「あっ・・・っ!?」


(だめ・・・。息が、持たない。)


どうすればいい?

何をすれば、この人を助けられるの?


切ることは、できない。払うことも。


その時、藤袴の宮が言った。


「どうして躊躇う必要がある?切ればいい。」


あの優しい宮さまから発せられたとは思えぬ、毒々しく、甘い声。


「目の前にいるのは、藤袴の宮ではない。ただの悪霊と化した女ぞ?何も躊躇う必要はない。」


その言葉に、千鶴は、精一杯の力を振り絞って、首を横に振った。


「いいえ。あなたは、藤袴の宮さまです。私には・・・藤袴の宮さまは・・・切れません・・・」

「なぜ?」


首を締めている、その手の人差し指の先を、つつつと千鶴の頬に滑らす。まるで、挑発するように。


「藤袴の宮さまは・・・いつも、私に優しくしてくれました。私のような白拍子も、別け隔てなく・・・温かく・・・」


「待ってましたよ」と、御簾を高くあげ、千鶴を迎え入れるときの藤袴の宮のふわりと笑う顔が浮かんだ。しかし、


「優しい?」


藤袴が自嘲するかのように尋ねる。


「私が優しいとな?お前は、私の何を知っている?お前の見ている私は、真の私か?」


問うてから、藤袴は、すぐに自身で否定した。


「否。お前は私の表面しか知らぬ。私は優しくなどない。仮に、そう思ったとしても、その優しさはまやかし。周りに愛されたいと願い、媚びた私の作り上げた、まやかしなのだ。」


藤袴が、挑発するように、顎を少し上げて、


「見よ。私の中には、こんなにもどす黒く、鬱屈したものがたまっておる。これこそが私。私の本当の心の内なのだ。」

「違います。」


今度は、千鶴が、即座に否定する。


「違います。藤袴の宮さまの真実の姿は、そのような姿では・・・ありません。藤袴の宮さまは・・・宮さまは・・・」


本当に、温かい人なのだ。

誰にでも、別け隔てなく接する、優しい人柄の人で、少女のように無邪気に笑う、可愛らしい人だ。


こんなにも昏い目をして、こんなふうに千鶴の首をしめるような人ではない。


本当の・・・本当の姿は・・・


「笑止。」


藤袴が、千鶴の中から溢れ出そうになる言葉たちを断ち切るが如く、言い放つ。


「お前は何を見ている?何を見ていた?私の中に、鬱屈する暗い感情。妬み、僻み、焦燥・・・深く閉じ込め、蓋をしてきた全てのものを呼び起こしたのは、そもそも、()()()()()()()?」


「?!」


瞬間、意味がわからず停止した千鶴を、藤袴は憐れむように、「気づいておらぬのか?」と問う。


「お前の舞が、人の心に踏み込み、荒らしていくのを。」


藤袴が、ひどく残忍な、でも、とても傷ついているような悲しそうな表情を浮かべた。


「お前が私の心を刺激するから・・・お前のその、純粋で、透明で、清廉な舞が、私の心を覆う瘡蓋を剥がし、その奥底に眠る、汚くて醜い感情を炙り出したから、私は悪霊となったのだよ?」

「それ・・・は、どういう・・・?」


思考が追いつかず、真っ白になった頭から、疑問が滑りおちる。と同時に、脳裏では、つい最近、似たようなことを言われたな、と考えていた。


―――千鶴どのの舞は、純粋で、透明で・・・見る人の心の奥底を刺激するような、不思議な魅力が、あります。


そう言ったのは、惟任だ。

怪我をし、傷ついて千鶴を励ますために言ったのだ。


今、同じ意味のことを、全く違う意図をもって、慕っていた女から告げられている。首を絞められながら。


(私が・・・藤袴の宮の奥底の昏く鬱屈した気持ちを呼び覚ました・・・?)


まさか。とも思う。

たかが白拍子。そう有能なわけでもなければ、公賢のような特別な力があるわけでもない。


自分に、そんなことができるはずはない。


だけど、首にかけた手のひらから、指先から、千鶴の身体の中に、確かな憎悪が流れ込んでくる。

重苦しい感情が、首から心臓を侵し、肩、腕、指先へと、黒く染めていく。


(私は・・・私の、踊りは・・・人を傷つけるの?)


ガンガンと後頭部に鈍い音が鳴り響く。呆然と見開いた目がチカチカする。見えている世界が遠くに行くように・・・。

そのとき、ドンッという大きな衝撃が走った。

気づくと、千鶴の身体は、地面に吹っ飛ばされていた。


喉元の拘束は解け、「ゴホッ・・・ゲボッ・・・」という咳とともに、肺に一気に空気が流れ込んできた。


「千鶴どの!!」


名を呼ばれだ。誰かが優しく背を擦っている。


「千鶴どの、しっかりなされよ。」


振り向いた先には、


「・・・惟任(これとき)さま?」


心配そうにのぞき混む惟任が、千鶴が返事をするのを確認して、安堵の顔をした。どうやら、惟任が、藤袴に体当りして、千鶴の拘束を解いたらしい。


「よかった。無事ですね。すみません。事前に、公賢どのから、手を出すなと言われていたのですが、もう限界でした。」


いつも穏やかな、人の良さそうな惟任の瞳の奥底が、燃えていた。


(惟任さまが、怒っている・・・)


惟任が、すっと、千鶴を背に庇うように、藤袴の宮との間に立った。惟任に突き飛ばされていた藤袴が、ゆらりと起き上がる。


「千鶴どのは下がって。私が相手します。」

「惟任さま・・・?」


惟任は、千鶴に背を向けたまま、


「すみません。本当に我慢の限界、でした。これ以上、見ているのは。あなたが傷つけられるのを。」


千鶴は、床にすわりこんだまま、その背中を見上げた。千鶴よりは、背が高い。だが、男性としては細身で、小柄。


「傷つけられる、というのは何も、身体のことだけではありません。私が何より見過ごせなかったのは、心のほうです。」

「心・・・?」


あぁ、そうだ。私は今、藤袴に予期せぬことを言われた。そして、心はそれを上手く受け止められていない。


惟任の肩が一つ、大きく上下した。藤袴の宮にむけて、明確な敵意を放つ。背中からは、炎のような闘気が立ち上っていた。あの、黒い魔物と対峙したときと同じ。何かのきっかけで、まるで、人が変わったようになる。


「藤袴の宮。あなたの奥に、何が眠っていようと、そんなことは知りません。千鶴どのには、何の関係もないことです。だから、たとえ、それが、どんなきっかけで発現したとて、千鶴どのには、一切、何の責任もない。」


惟任が、刀の柄に手をかける。


「あなたの勝手な理屈で、彼女の舞を・・・千鶴どのを貶めないでいただきたい。」


そして、刀を握る手をゆっくりと上に引いた。

薄暗い部屋の中で、鞘から放たれた刀身の鈍色がぎらりと光る。足をグッと踏み込んだ。


(惟任さまは・・・!)


切る。

この人は、容赦なく藤袴を切るだろう。


「だ・・・っ!」


反射的に、身体が動いた。

弾かれたように、惟任の腰へとしがみつく。


「だめです!」


後ろから突進するように抱きついた千鶴に、惟任のどっしりと構えた足は、びくとも動かなかった。戸惑うように後ろを振り返る。


「ち・・・千鶴どの?」

「切っては、駄目です。藤袴の宮さまが死んでしまう!!」

「しかし・・・それでは、あなたが・・・」

「切らずとも、」


考えるより先に、言葉が出る。ただ必死に。


「切らずとも、私を守っていただくことはできるはずです。貴方なら。惟任さまの実力なら、それが、できるはずです。」


惟任の身体が、ピクリと反応した。


「お願いです。」

「なぜ、そこま庇うのです?ここまで悪霊に落ちては、戻ることは出来ますまい。これ以上、貴女が傷つくのは、許せれない。」


なぜ庇うのか。

確かに、惟任の言うとおりだ。今の千鶴は、心も身体も、ひどく傷つけられている。でも、それとこれとは、話が別で。


「わからないけど・・・でも・・・でも、なんか、違うんです。」


うまく言葉にでない答えを、一生懸命導き出そうと考える。


「確かに、この悪霊は、藤袴の宮さまは本当は、優しくなんかないのだと言いました。でも、私は、そうは思いません。思わないのです。」


いつも部屋は良い匂いに満ちている。ここを訪れる人の心が晴れやかになるように。

いつも美味しいお菓子を出してくれる。一人で食べるよりも、あなたと食べるほうが美味しいでしょう、と言って。


「藤袴の宮さまの優しくて温かい心はちゃんと藤袴の宮さまの中にあって・・・でも・・・だから、それを嘘だ、と思っているのは、宮さま自身ではないですか?」


人に認められたいという焦燥感。受け入れられたいという下心。ひょっとしたら、そういうものあるのかもしれない。この悪霊も、藤袴の心の一つなのだろう。

しかし、だからと言って、それが藤袴の全てではないはずだ。


「私・・・・私は、藤袴の宮が好きです。たとえ、ご自身がまやかしだと言っても、嘘だと言っても、それでも、いつも私を優しく受け入れてくれた、藤袴の宮さまが、好きです。だから、そのすべてが、嘘だと思いません。」


本当にそんな気持ちしかなかったら、人はこんなにも藤袴の宮の周りに集まっては来ない。好きにはならない。

ましてや、今、この瞬間でさえ、公賢が、助けようとするはずがない。藤袴の魂ごと、さっさと払っておしまいだ。

それを、こうまで引き伸ばしているのは、助けたいと思う気持ちがあるからに、他ならない。


「だから・・・だから・・・」


そのとき、


「オイラもそう思う。」


藤袴にふっ飛ばされて伸びていたナンテンが、身体を起こす。


「オイラも、藤袴の宮さまの温かい匂いが、好きだ。匂いは嘘つかない。宮さまがなんと言おうと、あの宮さまは、嘘じゃない。」


一人と一匹の言葉に、突如、藤袴の身体から発する黒い靄の色がうすくなった。

藤袴の心が揺れている。


「千・・・鶴・・・」

「藤袴の宮さま!正気に?!」


低い呻き声のあと、藤袴が苦しそうに頭を垂れた。


「払って・・・」


耳を澄まさねば聞き取れぬ程に掠れた声。


「払ってくださ・・・い。私ごと・・・」


そして、自らの身体を、抱えこむように、もがき苦悶する。


「早っ・・・く!公賢どの!」


苦しげな顔を公賢に向けた。公賢は、同じ姿勢のまま、寸分も表情を変えずに経を唱えている。

藤袴は、次いで、惟任のほうへ視線を向けると、


「早く切りなさい。その刀で、私を。貴方なら・・・切れるでしょう?」


それまで藤袴の周りを囲みこむように立ち上っていた黒い煙が、止んでいる。


「待って!待ってください。宮さま。このまま、正気に戻れば・・・」


千鶴の期待を打ち切るように、大きく頭を振った。


「駄目です。私はもう、人には戻れません。どうか、私を・・・・私の魂ごと・・・私が・・・」


藤袴の悲痛な叫びをあげた。


「私が、人でいられるうちにっ・・・!!」


言い切った藤袴の身体から、再び、沸騰したように、黒煙が立ち上った。しかも、さっきまでとは、比べ物にならないほどの勢いで、溢れ出している。


「公賢どのっ?」


惟任が、判断を求めるように、公賢を仰いだ。許可が下れば、すぐにでも刃を振るうつもりだ。


「早く!藤袴の宮が再び、悪霊に堕ちきる前に!!ご判断を。」


千鶴の目の端で、公賢がピクリと反射したのを捉えた。


「ダメ!」


千鶴が、惟任を押しのけて、藤袴の身体を抱き締めた。


「危険です。千鶴どの!離れてください!」


叫ぶ惟任の声が、千鶴の頭を通り越していく。


「ダメです。払っては。切っては、ダメです!」


死んでしまう。

藤袴が死んでしまう。


「やめて!!これ以上、藤袴の身体から、出ていかないで。」


先程よりも勢いを増した黒い煙が、千鶴の身体も一緒に包みはじめた。まるで、自ら、意思をもって燃えつくそうとしているかのように、留まることなく、吹き出している。

千鶴の瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。


やめて。やめて。やめて。

藤袴の宮を助けてください。


「公賢さま、助けて!!誰か!!助けて・・・助けてください!!」


祈るように、叫んだ千鶴の身体が、突然、ふわりと宙に浮いた。かと思うと、ぐっと、大きな何かが千鶴を抱きとめていた。


温かくて、力強い―――まるで、父のような。


「ありがとう。私が変わろう」


その声にハッとして、顔をあげると、今まで見てきたのとは違う、穏やかな顔をした、治部卿と目があった。


「もう貴女は、離れなさい。」


その、有無を言わせぬ口調に、千鶴の身体から、自然と力が抜け落ち、手が離れた。



「調伏」次で終わります。3章自体もあと、3話で「結び」です。

物語全体の転換点に踏み込むパートなので、何度も推敲していて、時間がかかってしまっています。

続きは来週。


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