55 調伏2
続きからです。藤袴から始まります。
藤袴の宮は、重い単衣を引きずりながら、ただ、目的の場所へと足を動かす。
すでに自発的な思考はない。心の内は、完全に、黒く渦巻く感情にのみ支配されていた。
悲しい。
悔しい。
恨めしい。
悲しい。
悔しい。
恨めしい。
藤袴の宮。
帝の子として産まれたが、その人生には、何の保証もなかった。
母は身分の低い白拍子。
小柄で童顔、どちらかというと地味な顔をした娘だが、それが、一度舞えば、大輪の菊が咲いたかのように、華やかになる。
そして、えもいわれぬ良い香りがするのだ。
そんな母を帝が見初め、愛妾にした。
生まれついた娘は、母のその香りにあやかって、「藤袴」(乾燥させると芳香がする)と呼ばれた。
藤袴が産まれた時、すでに帝には、たくさんの子がいた。
その中で、女御や位の高い娘から産まれた子は、「親王」の位を賜り、その名乗りを許される。いわゆる親王宣下と呼ばれるものだ。
しかし、藤袴のように、身分の低い産まれの子どもは、親王の位を賜るとこはなく、ただ単に皇女となる。
どこぞの馬の骨から生まれた身分の低い娘など、政治的にも、何の脅威にもならないから、良くも悪くも、藤袴は、誰からも関心を持たれることがなかった。
藤袴にとっても、別に、それで良かった。
母は、帝の寵愛を受けているので生活に不自由はないし、藤袴は、かえって人目に触れることもなく、のびのびと幼少期を過ごすことができたのだから。
一人で遊ぶのも苦ではなかった。香を焚き、絵物語を読む。そうして自分の小さな世界で満足できる、そういう娘だった。
しかし、幸せな日々が永遠に続くとは、限らない。
その終わりの足音が、刻々と近づいていることを、ある日、聡明な藤袴は悟った。
きっかけは、母が病気。
それでも、初めのうちは、まだ良かった。
身体が弱っても、何とか舞うことができる。
帝は、母の元を訪れ、彼女の舞いを堪能し、愛でるように寄り添った。病身の母を、心配そうに抱きしめる父。その姿は美しく、幼心に、これが真実の愛なのね、などと思ったりした。
ところが、日が経つにつれ、母は、舞いを踊れる時間が短くなり、二曲から、一曲へ。
帝の訪れは、それに比例するように、短時間となり、やがて足が遠のいていった。
母は、このままでは、早晩、立っていることもままならなくなるだろう。
皇族の血をひいていながら、零落していく貴族は数多いる。
もし、このまま帝が来なくなったら?帝に捨てられたら?私たちは、一体どうなるのだろう。
私と母は・・・
藤袴は、気がついた。
雷に打たれたように、唐突に。強い衝撃をもって。
ーーー私が愛されなくては。
愛されなくては。
帝がいらしてくれるように。
愛されなくては。
まわりの方が、放っておけないほどに。
私自身が愛されなくてはいけないのだわ。
その日から、藤は、人が変わったように、愛嬌のある娘となった。
数少ない帝の訪問は、必ず笑顔で迎え入れ、それ以外にも、限られた来客の際は、付き人に至るまで、身分の上下を問わず、心を尽くして、もてなした。
一歩間違えば、下品な媚びと捉えねないその振る舞いが、藤袴の場合は、母親譲りの愛らしい顔と、もって産まれた気質が幸いし、男も女も、また、身分の貴賤も問わず、皆が好意的に受け入れた。
藤袴の努力が、効を奏して、母の死後も、世間に見捨てられることはなかった。
僅かながら荘園をいただき、何かと気にかけてくれる人も多く、なんとか生活できる。また、そのおかげか、皇族の血を重んじ、皆、礼節をもって対応してくれた。
これは一重に、藤袴の努力の賜物であった。
しかし―――
成功したはずの藤袴の心の奥底は、懊悩していた。
ある日突然、閉じ込めてしまった、幼い頃の自分が、ふとした瞬間、囁くのだ。
生きるために、食べていくために、お前は、周りに媚びているのか、と。
本当は、引っ込み思案だった小娘が、昏く引きつった笑みを向けて、問いかけるのだ。
本当は、皆がお前を見透かし、笑っているぞ。身分の低いお前が、皆の愛情を得ようと見苦しくもがく様を。
それなのに、お前はこれからも、その下品な媚を顔に貼り付け、生きていくのか、と。
なんて不幸な女なんだ、と。
(チガウ!)
藤袴は、そのたびに、彼女の残像に、蓋をし、耳を塞いできた。
(違うわ。今の私は、不幸なんかじゃない)
皆が私を大切にしてくれる。
愛する人にも巡り会えた。
その人は、誰よりも私を愛してくれる。私にとって、唯一無二の人。
藤袴は、母が亡くなってから、幾度も考えた。
父は、母を愛していたのか。
母は、父を愛していたのか。
母は、間違いなく、父を愛していた。
帝である父が、自分のものだけになることはないと知りつつ、それでも母にとってな、ただ一人の男だった。
だが、父は・・・?
父は、母の踊りを愛していた。その愛らしく優雅な舞い姿を、可愛がっていた。
しかし、父の愛は、母ではなく、母の舞いであったと思う。そして、その愛すらも、方々へ与える多くの愛のたった一つに過ぎない。
藤袴には、言葉に出して聞けなかったことがある。
ねぇ、お父様。なぜ、あんなにも、お辛そうなお母様に、舞いを踊らせるの?
なぜ、休ませてやらないの?
なぜ、あなたの身体のほうが大事だといってあげないの?
帝の訪れが途絶えた暗く寂しい部屋の中で、それでも母は、死の瞬間まで、父を愛し、そして、愛されていると、一点の曇りもなく信じていた。たとえ、自分の与える愛と相手から送られる愛が同じ性質でなくとも。
それが仕方がないことだ、とも分かっている。
帝である父は、そういう愛し方が許される人だったのだから。そういう愛し方をする人だったのだから。
そして、母は、その男を愛したのだから。
でも、藤袴は違う。
あんな愛など、欲しくない。
身分など、高くなくてもいい。
ただ、私は、私を愛してくれる方と添い遂げたい。
治部卿と出会ったのは、母が亡くなり、帝が退位して、院となられてしばらくたった頃だ。
知り合いを通じ、手紙をいただいた。
治部卿は、一回りも年の離れた藤袴を愛おしみ、大切にしてくれた。何度も足繁く通う様に、「この人なら」と思ったのだ。
世間では、皇女と婚姻を結びたかっただけだと、意地悪く言う人もいる。
しかし、それは勘違いだ。
藤袴は、愛嬌と愛想のよさで、人間関係を築くことで、皇女という地位をまわりに認められただけで、彼女自身には、実質的な権力も影響力も、何もない。
自分のおかげで、治部卿の地位を得たのだと言う人もいたが、それも彼自信の能力と縁によるものだと信じていた。
治部卿には、愛人が一人、二人いたようだが、それは構わない。貴族の男たちには、よくある事だし、何より、藤袴を一等大切にし、誰よりも優先してくれると分かっていたから、咎めるつもりはなかった。
私は、他の妾たちと自分は違う。
真に愛されているのは自分だけ。
その矜持があるから、その者たちに目くじらなど立てない。
あとは、子が授かれば、完璧だった。
治部卿と、自分との間の、揺るぎない絆。
子が、授かれば。
子さえ、授かれば。
しかし、藤袴の強い望みとは裏腹に、子は一向に授からなかった。
待てど、暮らせど、いつまでも経っても子ができぬ。
それでも、他の女のところにも出来ないのが救いだった。他の誰かが、自分以上の特別な絆を、治部卿と結んでしまうことだけは、堪えられぬ。
藤袴は焦っていた。
他の女に、子が出来ぬように。
他の女が、かの人の唯一無二にならぬように。
そんなことばかり考えていた折、その願いが、全く違う角度から、打ち破られた。
憎い。憎い。
藤袴には、なし得なかったことが。
憎い。憎い。憎い。
愛しいあの人の血を分けた、あの若者が。
気がつくと、あの日の少女が、すぐ隣りにいた。閉じ込めて、蓋をしたはずの少女は、意地悪そうに「ふふふ」と笑った。
「だから言ったでしょう?無理などしても、意味がないって。」
藤袴の首にくるっと手を回し、小首を傾げた。
「ホントは、ずっと嫌だったんでしょう?他の女のところに行くのも、あたしのことだけを見てくれないのも。」
キュッと頭を抱き寄せ、耳元に唇を寄せる。
「ねぇ?もう、いいじゃない。我慢することなんてないわ。あなたの心の思うままに振る舞えばいいの。」
そう囁くと、少女は、藤袴の手をとって、底のない深い闇の中へと誘った。
◇ ◇ ◇
治部卿、平業兼は、自分の愛した人が、黒い煙に包まれるのを、ただ、呆然と見ていた。
初めのうち藤袴の宮は、「一体、何の調伏なのでしょうね?」と、いつもの朗らかな笑みを称えて、愛らしく小首を傾げていた。
「なんでも、公賢さまのお話によると、とても難しい調伏らしく、我が屋敷が、条件にぴったりなんですって。」
なるほど、公賢は、そのように説明したのか。
もちろん、治部卿は、今、何が行われているのかを知っている。
我が息子にとりついた悪霊を払っているのだ。
ここのところ、業兼の周りでは、同じように悪霊に憑かれる被害が頻発していた。
業兼が情を交わし、通っていた娘たちが、すでに3人、同じように霊に取り憑かれて寝込んでいる。二人は貴族の娘で、一人は遊び女。
貴族の女たちは、突然消えたかのような噂が流れているらしいが、実際には、彼女たちの家が、でそれぞれ地方に療養に出している。おそらく、外聞を気にした家族たちが、霊に憑かれたことを隠すために、神隠しにでもあったことにしたのだろう。
遊び女のほうは、地方の出で、業兼から親に連絡をしてやったら、引き取りたいと言われたので、手配して、高齢の母の元まで、送ってやった。
それぞれに、心配ではあったが、その三人に対して、業兼ができることは、何もない。
だが、自分の息子、業光は別だった。
彼だけは、自分が何とかしてやらなくてはならない。
「何やら分かりませぬか、公賢どののお役に立てて、嬉しいですわ。」
何も知らぬ藤袴は、業兼にむかって、「ねぇ、あなた」と、無邪気に手を叩いている。やや、はしゃいでいるようにも見える。
人の世話をし、役にたつのが、好きな女だ。
誰にでも分け隔てなく、愛想を振りまく、明るい女。初めて彼女と御簾ごしに会った時に、すぐに惹かれた。自分は、この人を今まで出会った誰よりも、愛することになるだろう、と予感した。
御簾の中に踏み込んで、顔を見たとき、その予感が確信に変わった。
生涯、共に生きていく人。
あちこちの女に遊び半分、手を出しても、藤袴だけは特別だ。
だから、今回のことについて、業兼は、騙しているような後ろめたさに、心がちくりと痛んだ。
藤袴に出会う前、業兼が、まだ治部卿となるよりもずっと以前、美濃守であった時に、現地にいた女、大江某の娘との間に婚姻を結んだ。その時にできた一粒種が大江業光だ。
今年で13歳になる。
業兼が美濃守の任期を終え、都に戻るときに女との縁は切れたが、業光は、そのあとも、母のいる美濃で暮らしていて、業兼は、時々、用事にかこつけて顔を見せていた。
何事もなければ、そのまま美濃で一生を終えさせてもよいかと思っていた。こちらには、藤袴の宮がいるのだ。跡継ぎに対する未練はなくはないが、彼女に、精神的な負担をかけたくはなかった。
しかし、事態は、そうもいかなくなった。ずっと世話をしていた子の母親が、昨年、流行り病で亡くなったのだ
天涯孤独になった息子を、一人、放っておくわけにはいかない。
業兼は、藤袴の宮に話せぬまま、息子を都に呼び寄せた。
流石に、いきなり息子として招くことは出来ず、近しく、無理のきく大弁に頼み、縁者としてもらって、近衛の舎人にいれさせた。
心の片隅では常に、藤袴に話さねば、と思いながら、ついに今日まで来てしまった。しかし、やはりこのまはまでは、いけない。
これが無事に終わったら、話をしよう。
「あの・・・藤袴の宮・・・?」
あとで、話したいことがある。意を決してそう伝えようと、手を握ろうとした、その瞬間、
「う・・・」
藤袴の身体が、ガクンと脱力した。
「藤袴?大丈夫か?」
慌てて身体を支えようと手を伸ばした。
その手が、パンっと払い除けられる。
「藤・・・袴・・・?」
ゆらり、と揺れながら身体を起こした藤袴のまわりを、真っ黒な靄が包んでいた。
彼女は、右に左に、前に後ろに、ゆらゆらと揺らぎながら、ゆっくりと立ち上がったかと思うと、その動きが、ピタリと止まり、目がカッと見開かれた。
真っ黒で、生気のない、虚ろな瞳。
(憑かれた!!)
なんてことだ。息子の徐霊をしてもらったと思えば、今度は、藤袴が取りつかれるなんて。
一体、自分が何をしたのか。
「藤袴!正気に戻ってくれ!!」
とりすがって、肩を揺すった。
藤袴の身体は、その動きに合わせて、意思のない人形のように、ガクンガクンと揺れた。
そして、その手を止めた瞬間、虚ろな瞳を業兼に向け、
パンッ!
「っっっ?!」
気づいたときには、部屋の隅に吹っ飛ばされていた。信じられない力で。
藤袴は、壁に打ち付けられた業兼に、一瞥をくれることもなく、部屋の出入り口の方へと歩きだした。
業兼は、吹っ飛ばされたままの姿勢で、飲み込まれそうな程の黒い靄に包まれた藤袴の姿を、ただ呆然と、見ていた。
「誰かっ!藤袴の宮さまが!!」
部屋の入り口に控えていた女房が、恐怖の声をあげながら、走っていくのが見えた。
「はっ!」
正気を取り戻した業兼も、慌てて立ち上がる。
藤袴は、屋敷の主室、業光や公賢たちがいる部屋に向かっている。
「痛っ!!」
立ち上がるとき、業兼の肩や腰に鈍い痛みが走った。床と壁に強く打ち付けたときに痛めたらしい。
しかし、それに構っている場合ではない。
止めなければ。
私の息子がいるのだ。
彼を守らなければ。
そして、藤袴を!
藤袴の宮を守らなければ!!
◇ ◇ ◇
藤袴は、屋敷の主室の入り口で立ち止まり、部屋の中を眺めた。
部屋には4人。
一人は、陰陽師、安倍公賢。一人は、狐の物の怪。一人は、憎き少年。そして・・・
藤袴は、視線を最後の一人に向けた。
白拍子。
あぁ、そうだ。白拍子だ。
母と同じ、白い水干に、緋の袴。頭の上には立て烏帽子が乗っている。
母と同じように舞う、あの女。
その舞は、一見すると、素直で、野を駆ける小鹿のように、しなやか。そして、無垢で、清廉で、磨き上げられた透明の水晶体のように、不純なものが一つもない舞を踏む。
初めのうちはいいのだ。
見ていると、こちらも、さわやかな風に当たるような、清々しい気持ちにある。
だが、時が経つにつれて、その舞に魅せられれば、魅せられるほどに、自分の中が、共に透き通っていくような感覚を得る。
透明に、透明に。自分の奥底の感情を覆い隠していた物たちを剥ぎ取っていく。
誰からも愛される藤袴の中にいる、小さな少女。
愛されたいと思っていた。
だから、皆を愛そうと思った。
でも、それは私の打算でしょう?
愛されていたはずだった。
夫は、私を誰よりも大切にしてくれたから。
でも、実は、奥底では、狂おしいほど嫉妬していたのでしょう?
透き通っていく感情の中で、そういう、心の奥の奥に眠っている、濁った、黒く、昏い澱がすくい上げられていく。露になっていく。
ずっと、蓋をして、見ないようにして、閉じ込めていた、私の中の醜い私。
あの女。
あの女にさえ・・・あの白拍子にさえ、出会わなければ、思い出すことはなかった私。
藤袴は、憎憎しい思いをぶつけるように、じっと千鶴を睨みつけた。
次の回、推敲に時間がかかっているので、ちょっと遅くなります。今週中に投稿予定です。