54 調伏1
いつもより投稿時間が少し遅くなりました。
「一体、公賢どのは、どうして、わざわざ、あちらの屋敷に呼ぶのだろうなぁ。」
牛車の中で、権大納言 花山院忠経がぽつりと呟いた。
「何か、公賢さまのお考えがあるんでしょう。」
それを、北の方が宥めるように言う。
「しかし・・・」
一瞬、反論しかけた権大納言だったが、その後に続ける言葉はなかった。
牛車は、権大納言、その北の方、そして千鶴の三人を乗せ、のんびりとした速度で、藤袴の宮の屋敷へと向かっていた。
なぜ、藤袴の屋敷にいくのか、その理由を千鶴は知らされていなかった。ただ、それが惟任経由で伝えられた公賢からの指示だ。
権大納言と北の方のやり取りを見るに、権大納言さえも、その理由は、知らされていないらしい。
権大納言家で目を覚ましてから3日。すっかり熱も下がり、普通に動き回るのに支障はない。
結局、千鶴は、今の今まで権大納言邸で世話になっていた。何度か辞去を申し出たのだが、権大納言夫妻がそろって、反対し、ついに今日まで許されなかった。
黒拍子や悪霊から狙われる可能性があるから、そのほうが守りやすいと、斑の姫からも強く後押しされ、千鶴は、素直に三人に従うことになったのだ。
今朝、千鶴は、藤袴の宮の屋敷へ、歩いて行くつもりであった。しかし、そう伝えるより先に、権大納言が牛車で送ると言うことに話が決まっていて、あれよあれよと言う間に、屋形に押し込められていた。
それにしても、なぜ、藤袴の家なのか。改めて理由を考える。
思い当たるのは、先日、権大納言邸で不審な動きをしていた治部卿のこと。
惟任が話をして、解放したと聞いているが、その話合いの詳細は千鶴には、明かされていない。
治部卿は、藤袴の宮の夫。
おしどり夫婦だと思っていたが、どうやら違うらしいということ、千鶴が成り代わっていた大江業光と顔見知りらしいということがわかっているが、それらが、これから藤袴の家に行くことと、何か関係あるのだろうか。
千鶴は、膝のうえで寝そべるナンテンの背を撫でた。
牛車は、ことり、ことりと揺れながら進む。その長閑な揺れとは裏腹に、千鶴は、これから起こる何かを思い、腰に差した剣に手を触れた。
その剣は、黒拍子とやりあった時に折れてしまった剣の代わりに、惟任から渡されたものだ。
もとは、公賢から預かったもので、手に取ると、まるで、ずっと探していた身体の一部のように、不思議なほどに手に馴染んだ。
公賢が、なぜ、こんなものをくれたのか分からない。惟任も知らされてはいないようだった。
(直接、聞いてみようか。教えてはくれないかもしれないけれど。)
藤袴の屋敷には、公賢も来るはずだ。
権大納言邸から藤袴の宮の屋敷は通り3つを横切る程度。牛車は、程なくして、ゆっくりと止まった。
藤袴の屋敷の前で千鶴と権大納言だけを降ろして、牛車は権大納言邸に戻っていく。どうやら、北の方は、同席しないらしい。
二人が主室に案内されると、この屋敷の女主、藤袴の宮が、出迎えた。今日は、さすがに、権大納言に配慮して、膝のあたりまで御簾を下ろしている。
「ようこそ。」
二人が腰を下ろすのを見計らい、藤袴の宮は、いつもの温かで優しい声で、千鶴に挨拶をした。
「怪我をしていたんですって?もう大丈夫かしら。」
「えぇ。お陰さまで。もうすっかり元気です。」
答えながら、ふと、この人はどこまで知っているのだろう、と考えた。まさか、千鶴が近衛の舎人の身代わりをしていることは、知るまいし。
「お気遣いありがとうございます。」
御簾ごしに、藤袴が頷くのが見えた。と、今度は、権大納言に向けて、
「権大納言さまも、お久しぶりにございます。」
「いえ、こちらのほうこそ、ご無沙汰しております。」
互いに挨拶を交わす。
権大納言と藤袴が時候の話などをしているうちに、女房がやってきて、「安倍公賢様がお着きになりました。」と声をかけた。
「あら、それでは、私が出迎えに・・・。」
立ち上がりかけた藤袴を制するか如く、公賢が、
「ご機嫌麗しゅう。藤袴の宮さま。」
廊下に面した几帳の向こうから、すっと姿を現した。
「あら!公賢さま。この度は、我が屋敷へようこそ。」
「いえ、こちらこそ。お屋敷をお借しいただき、助かりました。」
公賢が、千鶴の横に、スッと腰を下ろす。いつもの、ダラリと脇息に寝そべる姿とは違い、雅な貴族の威光を放っている。
「なんでも、難しい調伏だとか。構いませんわ。部屋なら、いくらでも余っていますもの。」
藤袴と公賢。
二人のやり取りから、今日、なんらかの調伏、すなわちモノノケや悪霊の払いをするために、藤袴に頼んで、この屋敷を提供してもらったことが、わかった。
「実は、こちらの部屋に肝心の患者を運びたいれたいのですが、若い男なもので。」
「分かりました。私は、奥の部屋、北の対屋に行きますので、あとは家の者に手伝わせましょう。」
「えぇ。悪霊につかれておりますので、藤袴の宮さまは、直接はご覧にならないでください。ところで、治部卿は、おられますか?」
「急用があり、宮中に呼ばれましたが、直に帰ってくるはずです。」
千鶴は、二人のやり取りに、ふと、疑問を感じる。
そんなに危険ならば、なぜ、ここでやるのか。
治部卿がいる必要があるなら、せめて、藤袴の宮に、別のお屋敷、例えば公賢のところや、権大納言邸にでも移ってもらえば良いのではないか。
しかし、そんな疑問を差し挟める余地もなく、準備は着々と進んでいく。
藤袴の宮が部屋を移ってしばらくすると、下男たちによって、一人の若者が運ばれてきた。若者は、意識がないらしく、運ばれてきてから、布団に仰向けに寝せられるまで、目を瞑ったまま、微動だにしない。
年の頃は、13、14だろうか。あどけない少年の顔だが、頬に年相応の膨らみや艶はなく、青白く痩けていた。
一目で見て分かる。
何かに憑かれているのだ、と。そしてーーー
「この子は、もしかして・・・」
千鶴の発した問いの意図を察した公賢が、頷く。それで、「あぁ、やはり。」と確信した。
「大江業光どの、ですね?」
大江業光。彼こそ、千鶴が、身代わりをしていた近衛の舎人、本人であった。
「確か、宇治で療養していたと伺っておりましたが。」
「明朝、引き取ってきました。」
一体、どこに、どう手を回して、そんなことをやってのけたのか。千鶴には皆目検討がつかなかったが、ともかく公賢は、連れてきたこの少年に取り憑いている何かを、これから、ここで調伏するつもりらしい。
「治部卿が、お帰りになりました。」
公賢の手伝いをしていた下男が声をかけた。
「分かりました。それでは、藤袴の宮と共に、北の対屋で、待つように伝えてください。」
下男が、公賢の伝言を伝えに下がる。
千鶴は、公賢があれこれ準備をしている傍らで、眠っている若者の顔を、改めて、のぞきこんだ。
まだ、幼い、あどけなさを残した顔。眉は男の子らしく、凛々しい。モノノケのせいで、痩せているが、本当はもっとふっくらした可愛らしい顔なのだろうと思えた。
(それほどまでに似ているかな?)
「似ていると思えば、似ている。」
千鶴の心を読んだかのように、公賢が言った。驚いて、振り返り、公賢を見る。
「しかし、見るものが見れば、全く似ていない。」
そう告げると、両手をパンっと叩いた。
「さぁ。始めましょうか。」
公賢は、大江業光の寝ている横に、座禅を組むようにして座る。
部屋は、几帳と御簾でぐるりと囲んで、外の灯りを防いでいるため、薄暗い。
いつの間にか、下男たちもおらず、部屋には公賢、千鶴、権大納言の三人だけとなった。
公賢は、目を瞑り、何かを唱えるように、口を動かした。経文の類いなのだろうが、言葉の一言一句を聞き取ることはできなかった。
ただ、旋律のようなそれが、公賢の口から流れだし、目に見えぬ壁のように公賢と、その前に眠る兼光を取り囲んでいくような感覚がした。
さほど長い時間ではなかった。
経文を呟いていた公賢は、突如、スッと目を見開いき、九字を切った。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
流麗で、美しい声だった。
そういえば、以前にも、安倍晴明の子孫だからと言って、五芒星ではないのだな、と思ったことを思い出す。
公賢は、印を結ぶ手に力を込め、
「はっ!」
その声と同時に、業光から、黒い煙が立ち昇る。
「あれは・・・!?」
「しっ!」
横にいた権大納言が、人差し指を立た。
「静かに。直に出てくるぞ。」
公賢は、固く結んだ指に力を込め続ける。
黒い影は、真ん中に集まり、徐々に山のような形をなしてきた。
いや、あれは山ではない。
はっきりと型どり始めた煙は・・・女。確かに、十二単を着た髪の長い女性である。
あれが、業光にとりついていた悪霊。
「う・・・うぐぅ゛ぅ・・・・」
女の影は、苦しむように、低い声で呻いた。
「汝、この者を離しなさい。」
公賢が、静かに語りかける。
「・・・いや・・・です。」
女が、かすかに、首を横に振るような仕草をした。
「いいえ。貴女は自らあるべきところに戻るのです。」
再び、イヤ、イヤと首を横に振って、
「戻りま・・・せぬ。」
先程よりも、はっきりとした答え。
影は、明確に、それと分かるほどに、くっきりとした女人の形になっていた。しかし、目と口は落ち窪んでいて、顔立ちはわからない。
「戻りなさい。戻らぬのならば、私が貴女を、払わねばならぬ。」
戻る、ということは、死霊ではなく生霊、ということなのだろうか。
女が、少し沈黙したのち、
「ふふ・・・ふふふ。」
と、笑いだした。
その声は、その醜悪な容姿からは想像できないほどに、可愛らしい。まさに鈴を転がすような美声で、春の庭で聞いたら、奥には、どんなに美しい女人がいるのだろうと、思わず覗き見ずには、いられないほどに。
しかし、女は霊だった。
「どうぞ、ご自由に。たとえ、払われても、私は何度でも、この者にとりつきますから。」
流麗な声から滲み出る、執念深ささに、背筋がぞわっと粟たった。
「何度でも、何度でも。この者が命絶えるまで。」
公賢が、ふぅ、とため息を着いた。
そして次の瞬間―――公賢は、優しげに笑っていた。
「それは、貴女の本心ではないでしょう?」
そして、懐から札のようなものを取り出すと、
「ですが、いいと言われれば、遠慮しません。お望み通り、払いましょう。」
その霊に向かって投げつけた。
「うぐぅ・・・」
札があたった途端、黒い煙のような霊は、どろどろと溶けて崩れ落ちた。目も口も、ただぽかりと空いているだけだから、何の表情もない。苦しむ様子もなく、ただ、暖かい春の日に、日陰の名残雪が黒く濁りながら溶けていくように、自然に消える。
霊は程なく、完全に霧散した。
それまで、あたりを取り囲んでいた目に見えざる公賢の経文の壁も、一緒に消えたように感じた。
静寂の後、千鶴が尋ねた。
「終わったの・・・ですか?」
権大納言も、固唾をのんで、公賢の次の言葉を待っている。
公賢は、首をふった。
「いいえ。これからが本番です。」
その時、権大納言が、ハッと目を見開いて、
「来る?!」
言うが早いか、
「きゃーーーー!」
別の部屋から、女の叫び声があがった。
「あれは・・・北の対屋!」
千鶴が立ち上がると同時に、女房が飛び込んできた。
「き・・・藤袴の宮さまがっ!藤袴さまがぁぁぁ!!」
その女房を受け止め、肩を掴む。
「藤袴の宮に、何かあったのですね?!」
千鶴は、がくがくと震えて、まともに口を開けぬ女房を権大納言に委ねると、北の対屋とつなぐ渡り廊下に出た。
そこには―――
髪を振り乱し、目を真っ赤につり上げた藤袴の宮が立っていた。
藤袴の宮は、北の対屋から続く廊下をまっすぐ、こちらに向かって歩いてくる。
「藤袴の宮様!」
千鶴が呼び掛けるが、返事はない。
藤袴の宮の身体からは、先程見たのと同じ真っ黒な煙が立ち上っている。
悪霊に取りつかれた?
―――いや、違う。
千鶴は、即座に否定する。
悪霊に取り憑かれたのではない。
あの霊こそが、藤袴だったのだ。
「藤袴の宮さま、どうか!!どうか、目を覚ましてください。」
悲痛に呼び続ける千鶴の声など、全く届いていないようで、藤袴は、その上品な赤い着物を不気味に、ずるり、ずるりと引きずりながら、一歩、また一歩と千鶴たちのいる部屋に近づいてきた。
ここから、しばらく「調伏」が続きます。




