53 几帳ごしの惟任
北の方が退出して、少し経った後、
「千鶴どの?」
廊下との間を隔てる几帳の向こうから、やや遠慮がちな惟任の声がした。
「千鶴どの、起きていますか?」
「はい。起きています。」
千鶴は、権大納言家で着せてくれたらしい、寝間着代わりの上等な小袖の襟元を合わせ、居住まいを正す。ナンテンが、その襟元に潜り込んだ。
「少し話をしたいのですが、いいですか?」
「はい。どうぞ。」
床から出て、きちんと座ったほうがいいだろうかと、腰を上げたところで、
「実は公賢どのから、伝言を預かっておりまして・・・」
てっきり、部屋の中に入ってくるのだろうと思っていた千鶴は、惟任が突然、話し始めたので、慌てて、
「あの・・・中にいらっしゃらないのですか?」
と、惟任を遮った。
惟任は、少しの間、沈黙した後、やや照れ混じりの声で、
「やめておきます。女性が寝ているところに入るのは。」
「え?あっ・・・」
考えてみれば、当たり前のことだ。
何となく、公賢の伝言を携えてくるのだから、内密の話であり、近くに寄って話すのだと思いこんでいた。
当然のように寝室に招き入れようとしたことが、酷く、はしたない行為だと気づき、恥ずかしさに、頬が熱くなる。
「す・・・すみません。」
「いえ。」
「あっ、それでは・・・」
千鶴は、そろりと布団を抜け出すと、膝行して、几帳の前まで行った。
「ち・・・千鶴どの?」
「あの・・・ここで、伺います。」
几帳の前で正座する。
「公賢さまのご伝言なら、声を潜めたほうがいいでしょうから。」
「あの・・・声が近いようですが、今は、どちらに・・・?」
「はい。几帳のすぐ、こちら側にいます。」
ガタン、と音がするとともに、ズリズリと後ずさる気配がした。
「惟任さま?」
「あ、いえ、あの・・・やはり・・・几帳一枚というのは、あまり近いかと・・・。」
今まで、何度も道で会っているのだ。いつも、すぐ隣に並んで話をしている。共に信太の森まで旅もした。
それが、寝間着と寝室に変わるだけで、惟任が、千鶴を女性として意識しているかのような言動をしたことに、千鶴は、驚きと戸惑いを覚えた。
これでは、まるで、
(惟任さまが、妻問いに来る男のよう。)
つい、そんなことを考えてしまうと、何だか身体の中に、妙にムズムズとしたおかしな感覚が広がってくる。
(何を変なことを・・貴族の男女でも、あるまいし。)
こんなことを考えること自体、惟任に対して、失礼だ。
「布団を抜け出しては、千鶴どのの身体にも障る。どうか、元の場所に戻ってください。」
「いえ、それは、大丈夫です。ですから・・・どうぞ、このまま・・・」
惟任は、千鶴の身を案じてくれているだけなのに。何だか、とても恥ずかしいことを話しているみたいに、うまく言葉が出てこない。
いつもとは違う場面に、緊張している。
「いえ、そういうわけには・・・」
互いに、吃りながら答える二人のやり取りに、懐のナンテンが、「チッ」と舌打ちした。
「なんでもいいから、さっさと話せ。千鶴は、大丈夫って言ってんだよ。オイラも側についてるんだし。」
襟元から顔を突き出して、シャーッと牙をむく。
「テ・・・テン!」
慌てて口を塞いだが、時すでに遅し。
「今のは・・・」
惟任がハッとして、
「あのとき、黒拍子を見た晩に、千鶴どのと一緒にいた小さな獣ですね?」
「獣じゃない!オイラは旧鼠!ねずみの、よ、う、か、い!!」
几帳の上に飛び乗って、頭を惟任の方に突き出した。
「オイラは旧鼠のナンテンだ。覚えとけ!」
几帳の上から、ぶら下がったナンテンのお尻がフリフリと揺れていて、千鶴は思わず、「ふふふ」と笑った。
それで、さっきのまでの妙な緊張が、少し解けた。
「テン。自己紹介が済んだら、おりておいで。」
ナンテンが、ぴょんっと千鶴の膝におりてくる。
「惟任さま、私は本当に大丈夫ですから、公賢さまの伝言を教えて下さい。」
「分かりました。」
千鶴は、公賢からの伝言を聞く。
それは、これから千鶴が成すべきことについての公賢からの指示だった。その指示は、ただ、やるべきことに対してのみ簡潔で、なぜそうするのが、そこで、どんなことが起こるのかについては、一切、触れられていない。
「以上が、公賢どのからの伝言です。」
惟任が話を締めくくる。
たぶん、その理由や起こることについては、深く教えてはくれないのだ。それも含めて、惟任から公賢への指示なのだろう。だから、千鶴は、公賢を信じるしかない。
「わかりました。」
千鶴が、しっかりと頷くと、
「それと、もう一つ。」
惟任が、几帳の横から、細長い布の包をスッと出した。
「あの、これは?」
「公賢どのから預かりました。どうぞ、手にとってください。」
惟任に言われ、布包みを掴んで引き入れる。
「どうぞ、あけてください。」
促され、包を解くと、
「これ・・・」
「刀・・・か?」
ナンテンも膝の上から首を伸ばして、みる。
「はい。千鶴どのに、渡してほしいとのことです。千鶴どのを、加護するための呪いが施してあるそうです。」
「これを私に?」
手に取ったものの、俄には信じがたい。
「本当ですか?とても・・・上等な物のような気がするのですが。」
丁寧に塗られた黒い鞘が、上品に光っている。柄は、白と赤の組紐で装飾されていた。
「折れてしまった刀の代わりに。どうぞ、受け取ってください。」
「でも・・・」
戸惑う千鶴の横で、ナンテンが、鼻をクンクンさせて刀の匂いを嗅ぐ。
「千鶴、受け取っておけよ。」
「え?」
「なんかうまく言えないけど、なんでか分からないけど、これは千鶴のもので合ってる。」
「私の・・・もの?」
どうして?
ますます困惑する千鶴に、
「公賢さまが、くれたんだろ?それなら、何か意味があるはずだ。」
「そっか・・・そう、だね。」
ナンテンに背を押され、千鶴は、刀の柄に手をかけた。
柄は、まるで、その場所でずっと主の帰ってくるのを待っていたかのように、触れた千鶴の手に、スッと馴染んだ。
そうか。これは、私のものなんだ。
「ありがとうございます。」
千鶴が、刀を胸に抱き、改めて、頭を下げる。
「それと、惟任さまを巻き込んでしまったようで、申し訳ありません。」
思えば、惟任には、いつも助けられてばかりいる。
鶯が襲われた晩、斑の姫と庵を覗いた時。
頭中将に会った時には背に庇われ、黒い物の怪の前では、千鶴を置いて逃げることはしない、と言われた。
この人は、どうして、いつも、いつも、こんなにも助けてくれるのだろう。
「謝る必要はありませんよ。」
惟任は、静かに、しかし、きっぱりとした口調で言った。
「私が千鶴どのを助けることを、貴女が謝る必要はありません。」
瞬間、千鶴の胸のあたりで、何かがトンっと跳ねて膨らんだ。
「えっと・・・あの、それは、どういう意味で・・・?」
「私自身も、公賢どのに、交換条件を出しているのです。極めて・・・政治的なことなので、詳細はお話できませんが。」
千鶴の質問を遮るように惟任が答えた。
(なんだ。そういうことか。)
千鶴は、その意味を理解し、腑に落ちる。
惟任の主は、右大将、源実朝につかえていると言っていた。
源実朝は、征夷大将軍であり、新興勢力である武士の棟梁。つまりは、惟任自身も、鎌倉方に与する人間。
だから、「政治的な」ということは、その任務に係ることなのだろう。
公賢との取引。なんて分かりやすい理由。ならば、千鶴が申し訳なく思う必要もない。
だから、腑に落ちた。
腑に落ちた・・・はず。なのに、千鶴は、先ほど、身体の中で膨らんだ何かが、急速にしぼんでいくのを感じていた。しかも、質の悪いことに、それが不快な感覚を伴っている。
千鶴にとっては、初めて味わう不快感だった。
つい、黙りこんでしまった千鶴を気遣うように、
「あの・・・本当に、お怪我はもう、大丈夫なのですか?また、踊ることはできるのですか?」
心配そうな惟任に、千鶴は、慌てて、平静を装って返事をする。
「あ、はい。それは、大丈夫だと思います。権大納言の北の方さまが、とても丁寧に手当してくださいました。体力が回復すれば、問題なく踊ることができると思います。」
「そうですか!それは、良かった!」
惟任が、ぱぁっと弾んだ声で言った。
「千鶴どのの舞は、純粋で、透明で・・・見る人の心の奥底を刺激するような、不思議な魅力があります。もし、万が一にも、もう舞えないとなると悲しむ方も多いでしょうから・・・本当に良かった。」
その声が、心から嬉しそうで、一旦しぼんだはずのものが、また少し元気を取り戻して、フワフワと心地よい物に変わる。
一体、自分はどうしてしまったんだろう。
まるで、惟任の言葉に一喜一憂しているよう。
胸にそっと手を当てた。
ひょっとしたら、この傷のせいかもしれない。
傷が、おかしな具合に良くなったり、悪くなったりしているのだ。
そんなことを考えていると、几帳の向こうで、カタンと動く音がした。
「千鶴どの。私は、そろそろ行きます。」
惟任が、そろそろと後ろに下がってから、立ち上がる気配。
「あ・・・あの・・・惟任さま?」
千鶴が、呼び止めると、立ち止まる気配とともに、
「はい?」
どうして、呼び止めたんだろう。言葉に詰まる千鶴に、
「どうしましたか?」
人の良さそうな惟任の穏やかな笑みが目に浮かぶような、優しい言い方だった。
「えっと・・・お気をつけて。」
「ありがとうございます。千鶴どのも、どうか、お大事に。それでは、また。」
そう告げると、廊下の足音が遠ざかっていった。
反対側に誰もいなくなった几帳を、千鶴は、しばらく座ったまま、ぼんやりと眺めていた。
なんでこんなに、ウブなんだろう。。。
今週中にもう一回投稿予定です。続きます。