51 曲者1
再び目を覚ましたとき、すでに日が沈み、開いた蔀戸の向こうは暗く、静かだった。
「おい!千鶴、おきたか?」
視界の先を遮るように、白と灰色の毛玉が飛び込んできた。
「ナンテン・・・?」
「おうよ。」
千鶴は、ゆっくりと身体を起こす。
ぐっすり眠ったせいか、先ほどよりも、随分と楽に起き上がれた。
「もぉう!心配したんだからな。」
ナンテンが、ぐすぐすと、鼻を鳴らした。
さっき千鶴が目覚めた時には、寝ていたくせに、という言葉のかわりに、苦笑交じりに、
「ごめんね。心配かけて。」
「まったくだ!!」
ナンテンが、照れ隠しのように頬を膨らませた。それを、抱き上げ、膝に乗せる。
「テンも怪我をしたの?」
あのとき、ナンテンは千鶴の肩に乗って、黒拍子の逃げた先を、鼻を効かせて、教えてくれた。
「いや。オイラは、大したことない。千鶴が倒れたとき、肩から落っこちたくらいで。それで、千鶴は、あんとき、胸から血がドバって出て・・・」
ナンテンが、ぶるりと身を震わせた。
「それで・・・斑の姫さまが来て、助けてくれたから、いいようなものを・・・」
その言葉に思い出し、
「あ、そうだ。斑の姫さま!姫はどこ?聞きたいこのがあるんだけど。」
ナンテンが、庭に向かって顎を、くいっと動かした。
「あそこだ。」
その先には、白い影がぼうっと浮かんでいる。
「千鶴がここに来てから、夜はずっと側についてくれる。」
目を凝らすと、白い影は、単衣姿の女人となり、外を向いて座っているのが、わかった。
「斑の・・・姫さま?」
顔を認め、呟くと、それに反応したように女の影がゆっくりと振り向いた。
「目を覚ましましたか?」
斑の姫は微笑むと、すすすと千鶴の傍らに寄ってきた。
「いつから、そこにいらっしゃったのですか?」
「日が沈むと共に。」
斑の姫は、千鶴の顔をのぞきこみ、
「顔色は大分、よくなっているようだな。」
「はい。動きも軽いです。」
軽く右肩を回してみせる。
「それは、よかった。」
「あの・・・助けていただき、ありがとうございました。」
「なんの。私は千鶴に恩があるからな。」
以前、斑の姫の恋人、青嵐の中将の生まれ代わりである蛇が邪法の呪具とされるのを防ぎ、取り戻したときのことだ。それ以来、千鶴は時々、斑の姫の社を訪れて、交流を持っていた。
「でも、どうして、あのとき、あそこに斑の姫がいたのですか?」
姫の社から近くはない。偶然通りかかるような場所とは思えなかった。
「呼ばれたのじゃ。」
「呼ばれた?それは、誰にですか?」
「鶯の君。」
「なんですって?鶯の君が?」
でも、確かに、考えれてみれば、斑の姫を呼べるのは、鶯を置いて、他にはあり得ないのだ。
姫の存在を知っているのは、鶯と公賢。
公賢は今、不在だし、そもそも、自分の力で助けることができるたろうから、斑の姫を呼ぶわけがない。
「昼間に私の社にやってきた鶯の君が、千鶴が困っているから助けてほしいと書いた手紙を残していったのだ。」
斑の姫は昼間は蛇の姿なので、日が沈み、人に戻ると、すぐにその手紙を開いて読んだ。すると、そこには事の顛末、自分のために千鶴が近衛の舎人のフリをしていることと、悪霊に狙われているらしいことが書いてあった。
「鶯の君は、夜に自分で動くことはできぬ。だから、私に助けてほしいと、懇願していた。」
「鶯の君・・・」
彼女の屋敷で話をしたとき、公賢の不在を心配し、自分で動けぬ歯がゆさを口にしていた。
「鶯の君は、千鶴のことを心底心配していた。自分は、何もできないから、せめて私に力になってもらえないか、と。」
鶯の君が軽々しく出歩くことを、彼女の父は、よしとしない。ましてや、夜中など、もっての他だ。だから、これは、彼女にできる精一杯で動いてくれたのだとわかる。
「私は、鶯の君の手紙を読んで、すぐに千鶴を探しました。」
丁度、黒拍子にやられ、倒れるところを見つけ、連れてきたのだという。
「鶯の君に頼まれた悪霊の気配はありませんでした。」
「黒拍子は、斑の姫が追い払ってくれたのですか?」
「いや。」
斑の姫が、ゆっくりと首を振る。
「私が来たときは、もう、逃げていくところだった。追い払ったのは、あの、一緒にいた近衛の男です。」
近衛の男。番長、平秋良。一緒に宿直をしていた大江業光の上司で、業光をかわいがっていた。
「番長は、無事だっただかしら・・・」
「千鶴。」
斑の姫は、先程より、やや重い声で、
「あの瞬間、あの場所で、貴女にとっての脅威は、霊ではなく、あの男のほうでした。」
「あの男のほう?」
「私が見つけなければ、一緒にいた近衛の舎人に連れて帰られるところだった。そうすればどうなると思いますか?」
分かってる。
それは、千鶴が、最も避けなければならないこと。一番、最初に心配したこと。
千鶴が、姫の質問の意図をきちんと理解しているのを見てとると、
「そう。女だと気づかれて大騒ぎです。」
あのとき、もし斑の姫がいなければ、番長が千鶴を介抱していただろう。そうなったら、すぐに女だと知れていた。
そうなれば、千鶴のみが危ういだけではなく、身代わりになっている大江業光ごと、まとめて帝を謀った罪に問われかねない。
「千鶴は、意外と後先考えずに突っ込むところがあるようだから、気をつけなさい。」
「すみません。」
深々と頭を、下げる千鶴の横で、ナンテンが、「まったくだ!」と同調する。
その様子を見ていた斑の姫は、ふいに笑って、
「私は千鶴のそういうところは、結構好きではあるのですがね。」
千鶴は、目をパチクリとさせた。胸が、訳もなくじんわりと温かくなる。熱の不快感とは違い、優しい温かさ。
「でも、覚えておきなさい。恐れるべくは、霊や物の怪だけではない。生きている人間も、時に、それと同じか、それ以上に怖いものだ、ということを。」
蛇となる前、人間だったときに、多くの悲しみを味わった斑の姫。
斑に広がる全身の痣故に、時に蔑まれ、時に憐憫の眼差しを向けられ続けた。そして、政争に巻き込まれ、愛する人とは、結ばれぬまま、命を断った。
自身の無力を嘆いた、この人は、今、千鶴にとって、頼もしい味方だった。
「はい。」
千鶴は、斑の姫の瞳を、しかと見つめて頷く。
千鶴の様子に、姫が満足気に微笑む。
「まだ。夜明けまでは時間がある。千鶴は、もう少し休みなさい。」
「斑の姫は?」
「私は、夜が明けるまでここにいます。」
だから、安心して眠りなさい、と布団に誘う。
斑の姫は、毎晩、ここにで、悪霊を寄せ付けぬように見守ってくれていたらしい。
「千鶴、おいらも見ているから、もう少し、眠れ。」
ナンテンが、膝の上から、ぐいっと背筋を伸ばして千鶴の顔をまじまじと見る。
「傷は治ってないんだ。やっぱり、もう少し休んだほうがいい。」
しばらく起き上がって話をしていた千鶴は、確かに、とても疲れていた。
大きなあくびを一つすると、二人にに促されるままに、布団に潜り込んだ。
横になって、目を瞑ると、何故だか、先程の斑の姫の言葉が頭に思い浮かんだ。
―――恐れるべくは、霊や物の怪だけではない。生きている人間も、時に、それと同じか、それ以上に怖いものだ。
千鶴の頭の中を通りすぎていく言葉をぼんやりと聞きながら、ゆっくりと浅い眠りの静寂に落ちてていく。
意識を手放した、その直後、静寂を切り裂くような惟任の声に起こされた。
「曲者っ!」
◇ ◇ ◇
初めて鉤爪から滴る血をペロリとなめた瞬間、背筋から、ぞくりとするような快感に襲われた。
それ以来、暇さえあれば、爪の先にこびりつき、固まった血を舌先でなぶるように、執拗に口に含んでいる。
「うめぇなぁ。あの女の血は。」
気づくと、時の経つのも忘れて、しゃぶってしまう。しかし、惜しいことに、その乾いた血も、そろそろ吸い尽くして無くなりそうだ。絞りかすみたいに、スカスカで、味気がねぇ。
あぁ、惜しいなぁ。
まだまだ、足りねぇのに。
もう一口舐めとろうと、長い舌をつきだきたところで、足元から聞きなれた主の声がした。
「クロ、何をしている?」
クロ、と呼ばれた男は、長い舌をヒュンと引っ込め、
「あんたには関係ないだろう?」
闇夜に潜んでいるのだが、なんと夜目の効く男か。クロは、主の屋敷の庭の木の上で、枝に寄りかかって寝そべったまま、視線を落とす。
男は、クロの仕草を、汚いものでも見るように、顔をしかめた。
もともと灰色がかった黒の毛並みに、いつも全身黒い装束を身に付けているので、クロ。
それが、いつのまにか、巷では、黒拍子と呼ばれるようになっていた。
「失敗しておいて、何を言ってるんでしょう。」
「失敗じゃねぇさ。あんたに言われたことはやった。」
そうだ。
俺は依頼されたことはやった。
「だが、近衛の舎人に、顔を見られたでしょう?」
「いや、見られてないね。」
顔まで全てが黒づくめ。あの闇夜のなかで姿を見られたとは思えない。そう告げると、主の男は「ふんっ」と鼻を一つ鳴らした。
「とどめは?さしましたか?」
「いや、指し損ねた。」
クロは、右手の甲をみた。そこには、忌々しい矢傷の後がある。
もう一人、あとから追いついてきた近衛にやられた。あいつがこなければ、仕留めることだってできた。が、まぁ、それは命じられたことではないので、さほど気にはしていない。
しかし、
「ちっ。」
主の舌打ちが、耳に障る。
「とどめを指してこい。この世から消しておきなさい。」
不機嫌な声に、
「お望みとあらば。」
そう答えてから、少し考えて
「この世から消すってのは、身体ごと全部、俺がいただいちまっていいってことか?」
この血の味を思い浮かべると、身震いがするのだ。
それを、全身、好きにしていいだなんて、想像しただけで、居ても立ってもいられない。
主は、何を言っているのか意味が分からないと、眉根を寄せた。クロの中に、可笑しさが込み上げてきた。
血のついた爪を、一舐めする。至高の食材を味わうように、じっくりと。
「あんたには分からないだろうが、こいつはなぁ、身震いするほど上手いんだ。しかも、こう、腹の底から力が出てくるというか、な。」
自分の中の血が、快感を伴いながら、カッと燃えるように滾る。食らえばどうなるか。想像しただけで、身震いがした。
主は、不快感を隠すことなく顔を背け、
「好きにしろ。」
その言葉に、クロは、満足に頷くと、
「では、すぐに。」
闇のなかに溶け込むように消えていく。
「遠慮なく、あの女はいただくぜ。」
という言葉を残して、笑いながら。
後に残された、頭中将が、「あの・・・女?」と小さく呟いた言葉は、クロの耳には届かなかった。




