50 目覚めた千鶴
攫われた千鶴からスタートです。
千鶴は、夢を見ていた。
むかし、むかしの幼い頃の夢。
あれはーーー
どこかの神社の境内か、それとも、誰も来ない真冬の海岸だったかもしれない。
菊鶴は、客のところに出かけていて、一人だった。
そういうとき、千鶴はいつも、一人で練習する。
気を失いそうなほどに暑い日でも、手足が震える寒い日でも。
そうやって、ただ一人、舞に、興じる時間は好きだった。
舞っていても、いなくても、一人なんだ。
それならば、向き合うことが、あるのは良い。
その日は、たぶん、踊っている途中から、雪が降ってきて、でも、それに気づかず踊り続けた。
地面の底から立ち上る冷気を、踏みしめた足の裏で受け止め、押し返す。
冷たい空気が千鶴の身体を、通り抜けて頭から抜けていく。身体が溶けて、透明になる。
千鶴は、世界と混じり合う。
あのとき、あそこに、誰かいただろうか。
少年か、青年か。まだ、大人になるより少し前のーーー
舞を止めた千鶴は、ゆっくりと振り返る。
そこには、髪の長い女人が一人、立っていた。
二人の間に、雪がチラチラ舞い落ちる。
けれど、不思議ともう、寒くない。
「・・・だれ?」
千鶴が、尋ねる。
女人の顔は見えない。
「あなたは、だぁれ?」
千鶴が、もう一度、尋ねる。自分の口から出た声は、思いの外、幼い。
女人の口が、柔かく微笑んだ。
ふいに、懐かしく、切ない想いが、胸のうちから湧き上がってきた。
「あ・・・」
千鶴は、女に一歩、近づいた。
(もしかして、この人は・・・)
腕を広げ、抱きとめてくれるのではないか、そんな気がして、更に、一歩足を踏み出した。
その瞬間、女人が、黙って首を横に降った。
来ては、ダメ。
言葉は聞こえなかった。なのに、そう告げられたのが分かった。
こっちに来ては、ダメ。
「な・・・んで?」
刹那、全身から、滝のような汗が流れ落ちる。
暑い。
暑い、暑い、暑い。
そして、苦しい。
目の前の女人の姿はぐにゃりと歪み、遠くへ。
荒い呼吸を、繰り返す、千鶴の意識は千切れて散り散りになる。
苦しい。
たす・・・けて。
◇ ◇ ◇
「!?」
目を覚ました千鶴は、暗い部屋の中いた。
額から、首筋、背中に至るまで、汗でびっしょり濡れている。
身体を起こそうとすると、
「痛っ!」
胸に鈍い痛みが走り、顔をしかめた。
夢の中と同じように身体が熱い。
だるい。
喉が乾いた。
荒い呼吸を二度、三度。深く吸い込み、吐き出す。徐々に焦点が合い、視界が明白になる。おぼろ気だった、物の輪郭をはっきりと捉えられるようになった。
痛みにそっと触れ、そこに傷があったのだと気づく。
(そうだ・・・。私は・・・・。)
あの晩、黒拍子と刃を交えた。
あの三日月のように弧を描いた不思議な刀。あれに切りつけられ、そして・・・
そのあとの記憶がない。
最後に覚えているのは、大江業光の名を呼ぶ、近衛の番長の声。
(そのあと、私は、一体どうなったのだろう。そして、ここは・・・?)
ゆっくりと首を捻り、周囲をうかがう。
ここはどこなのか。
どこかの貴族の邸宅らしい。見たことがあるような気もするが、分からない。
貴族の邸宅など、どこも似たようなつくりだ。
(私は、誰かに捉えられたのだろうか。もし、そうだとしたら・・・)
千鶴はもう一度、胸元に手を置く。
ここには傷。どうやら、誰かに手当されたらしい。そして、その包帯が巻かれた胸は、柔らかく膨らんでいる。
(露見・・・してしまっただろうか。)
女が黙って近衛のふりをしていたことを、手当をしていた者は気がつただろう。
(回復するまでの間、私はここに身柄を預けられている、ということなのだろうか。)
ここは、本当にどこなのだろう。
せめて外が見られれば分かるかもしれない。しかし、庭に面して立てられた几帳に隠れて、外の様子は分からない。
その几帳はどことなく品が良く、相当に裕福な家らしいことだけが分かる。
おそらく、かなり高位の貴族なのだろう。
ぼんやりとする頭でそんなことを、とりとめもなく考えていると、どったどったと足音が近づいてきた。
足音は、廊下に面した几帳の向こうで止まった。
「千鶴どの?目が覚められたか?」
部屋の手前で、ぐるぐると逡巡するような足踏みの音に交じり、聞き覚えのある男性の声がした。
「・・・はい。」
誰の声だろうと、考えながら、返事をする。喉からは、思ったよりも掠れた声が出た。
「そちらに入っても良いだろうか?」
男は、遠慮がちに尋ねる。誰だろう。ごく最近、聞いた気がする。中年の男性。
しかも、千鶴に「どの」つけて呼ぶ。
思い出せなかったが、断る権利がないことは分かっているので、「はい。」と素直に頷く。
すると、声の主が、几帳の向こうから、おずおずと、躊躇いながら姿を現した。
「あぁ。」
千鶴は、その正体に気づき、心の底から、ほっと安堵する。
「あなただったのですね。」
声の主は、権大納言 花山院忠経。唐錦の父親にして、その正体はきつねの妖かし。
以前、彼らの娘、唐錦の君の出生に拘わる秘密を巡る騒動のときに出会った。千鶴に対してはかなり好意的な感情を抱いているはずの相手だ。
忠経は、布団から起きて出ようとした千鶴を手で制し、「どうぞそのままで。」
千鶴は、半身を起こしたまま、
「あの・・・水をいただけませんか?喉が焼けつくように痛いのです。」
「持ってこさせましょう。」
忠経は、とんとんと手を叩いて、几帳の向こうに向かって、呼びかけ、命じた。
それから、千鶴の布団の傍らに腰をおろす。
「喉が渇くのはまだ、熱が下がっていないせいでしょう。」
「熱・・?」
確かに身体全体が熱く、関節には、ギシギシとたわむような痛みが走る。
「胸の傷から来るものです。相当にうなされているようでした。」
胸の傷。
(あぁ、良かった。では、これを手当てしてくれたのは、やはり権大納言なのか。)
千鶴は、ハッとした。
「ではやはり、ここは、権大納言家のお屋敷ですか?なぜ私がここに?助けてくれたのは、権大納言殿ですか?」
矢継ぎ早に質問しようとする千鶴に、権大納言が
「落ち着いてください。」
と宥めるように声をかける。
「丁度、水が来たようです。まずは、喉に含みなさい。」
その言葉を合図に、
「殿、千鶴どの、中に入りますよ。」
水を持って現れた女の顔を見て、千鶴は驚嘆した。
「北の方さま!」
忠経の妻であり、権大納言家の女主人。
そして、彼女も狐である。
「奥方様自ら、そのような・・・申し訳ありません。」
恐縮する千鶴に、「女房に聞かせたくないお話もあるでしょうから。」と答えると、忠経も「うむ。」と頷く。
「ともかく、まずは水分を。」
千鶴は渡された杯を、ゴクリとあおぐ。冷たい水が、ひりついた喉をゆっくりと滑り落ちていく。
権大納言が、落ち着いたところを見計らって、「先程の質問ですが、」と口火を切った。
「ご推察の通り、ここは我が屋敷です。そして、この部屋は、かつての唐錦の部屋。」
どおりで、見たことがある。以前、唐錦に捕まったときに、連れてこられたことがあるのだから。
ちなみに、唐錦は、今は、宮中に出仕しており、ここにはいない。
「それから、そなたを助けたのはな、私ではない。」
「違うのですか?」
千鶴が驚き、聞き返す。
「では、どなたが?」
「道で倒れていたそなたを保護したのは、斑の姫だ。」
「斑の姫!」
そういえば、意識を失う直前、確かに女性のような顔を見た気がする。
いや、でも、あれは、夢の中だったか・・・?
どうも、記憶が錯綜している。
「斑の姫は、黒拍子にやられ、意識を失っているそなたを、連れてきたのだ。」
「なぜ・・・権大納言さまに?斑の姫とは、お知り合いでしたか?」
「いや、面識はない。」
「ならば、なぜこちらに?」
千鶴は、混乱する脳内を鎮めるように。眉間を揉みながら聞いた。
「それは、まぁ・・・蛇のみちは、蛇。と言っても私たちは狐たが。同じ、人ならざる者どうし。斑の姫は、先日、私たちが千鶴に世話になったのを知っていて、私たちに託したのだ。例えモノノケでも、我らは、表向きは権大納言。そのほうが良いと判断したのだろう。」
「そう・・・でしたか。」
「ナンテンも、飯をたらふく食って、今は別のところで眠っているから、安心せい。」
確かに、権大納言ならば、身元確かだ。ナンテンの正体も知れている。
そして、もう一つの心配事も。
「なれば・・・私の身代わりについては、まだ宮中に露見してはいない、ということでしょうか?」
「うむ。」
権大納言が、千鶴を安心させるように、大きく、しっかりと頷いた。
「近衛府には、重症の舎人を我が家で保護したと伝えてあるので、心配無用だ。気のすむまで、我が家で養生するとよい。」
さすが、権大納言として宮中で地位を築いているだけあって、ぬかりない。
権大納言家ならば、大江業光にとっても、悪いことにはならないだろう。
「ありがとうございます。」
千鶴が深々と頭を下げた。
「それにしても、なぜ、斑の姫は、私を見つけたのでしょうか。」
千鶴の記憶が確かであれば、黒拍子と争い気を失った場所は斑の姫の社の近くではないはずだ。
偶然通りかかったとしたら、相当な僥倖ということになる。
それには、忠経も「さぁ。」と首を捻り、
「誰かに呼ばれたようなことを言っておったが・・・」
「誰かに・・・呼ばれた?」
一体、誰が呼んだんだろう。
そのうち、会いに行かねばと思っていたが、千鶴が呼んだ記憶はない。倒れるあの瞬間、名を呼びかけでもしただろうかと思い返してみても、そんな記憶は微塵もなかった。
「まぁ、元気になれば、お礼がてら、直接聞きに行きなされ。」
横から、北の方が言った。
「そうじゃ。問題は、そちらではない。むしろ、お主に傷をつけたもののことだ。」
「傷をつけたもの?黒拍子のことですか?」
「やはり、そうか。間違いないか。」
忠経と北の方は、互いに顔を見合わせた。
「黒拍子の正体をご存知なのですか?」
「正体は知らぬ。しかし、やつは十中八九、人ではない。」
「人ではない?」
忠経の言葉に、またしても驚かされた。
「では、モノノケの類いですか?」
「おそらく。人ならざる者、もしくは、モノノケの血が混じっている者。」
「間違いはないのですか?なぜ、それがわかるのですか?」
「そなたの傷です。」
北の方が言った。
「そなたの傷、私が治療しましたが、その傷口からは、獣臭い匂いがしておりました。」
そういえば、ナンテンも似たようなことを言っていた。
「傷痕から・・・?」
「うむ。おそらく、鉤爪のようなものでやられたのだ。」
千鶴は、まだぼんやりとする頭を必死に動かし、あの晩のことを思い出そうとした。
あの男、黒拍子は、変わった武器を使っていた。刀身が三日月のように丸まった短い刀。
それが、「爪だったか」と問われれば、そうかもしれない、と思えてくる。
刃の根本は暗く、黒い装束と相まって判別できなかった。
「あれの狙いはなんだ?」
千鶴は、答えて良いものか迷ったが、権大納言ならば、信頼できよう。
「伏龍、だそうです。」
「伏龍?!清盛公のか?」
権大納言は、すぐに反応を示したが、北の方は知らないらしく、ぽかんと首を傾げている。
「黒拍子というのは、どうも・・・頭中将と繋がっているようです。」
慎重を期して、声を潜め、宮中で盗み見たやり取りを話す。
「頭中将・・・九条殿か。」
見目麗しく、体格の良い頭中将は、多くの人たちから、宮中の華と崇められている。にも拘らず、権大納言は、その名を聞いて、苦々しく顔をゆがめた。
「あそこの兄君は、ひどい野心家だからな。弟君の方はそうでもないのだが・・・。」
「あぁ!九条の。」
ようやく北の方も話についていけるようで、「あそこの弟君は、お優しい方ですね。」と、同意した。
「しかし、頭中将が伏龍とは・・・天下でも狙っているのか。だとしたら、穏やかではないぞ。」
帝の信厚い、権大納言の顔つきで言った。
「だが、伏龍は、おそらく内裏にはあるまい?そもそも、一度忍び込んでいるのだ。」
確かに、頭中将と黒拍子の会話を盗み聞きしたとき、同じ事を言っていた。内裏にはない、と。
「とすると、今回、大内裏から出てきたのは、何か別の狙いがあるのか。」
千鶴も一緒になって考えていたら、だんだん、いてもたってもいられなくなってきた。
「あの・・・そろそろ、戻ります。近衛の舎人の仕事もあるなので。」
身代わりを頼まれているのに、こんなに休んでいてはいけないのではないか。あの時、一緒にいた番長のことも心配だ。
そう思って立ち上がらろうとした千鶴を、北の方が、
「あら、だめですよ。まだ傷がなおっていないし、熱もあるんですから。」
と、押しとどめ、忠経も、
「そうだ。うちのことはいいから、もうしばらく寝ていなさい。」
「いえ。水をいただいて、大分楽になりましたし・・・」
そう言って、布団から出ようとした瞬間、
「!?」
身体がぐらりと、揺れた。力が、入らず、持ち上げたさきから、くにゃりと崩れ落ちる。
「あら、効いてきましたね。」
おっとりと、北の方。
「先程の水っ!」
(何か・・・盛られた?)
「何でも眠気を誘う薬だとか。身体を回復させるために良いそうですよ。」
布団に突っ伏した身体に、北の方が、優しく布団をかけた。
「何も案じることはありません。もうしばらく眠りなさい。」
ポンポンと掛け布団ごしに叩く感触が伝わってきた。
「大丈夫。大丈夫ですからね。」
千鶴は、人にそのようなことをされたのは初めてだった。
親代わりで、師匠の菊鶴は、そういうことはしない。
(あぁ、暖かい。とても・・・安心する。)
瞼の裏に、さっき夢の中でみた、女人の姿が浮かんできた。
早く、行かなければならないのに。
鶯の父に頼まれたこと。番長のこと。黒拍子のこと。頭中将の不穏な動き。
休んでいてはいけないのに・・・。
ぐるぐると頭の中を駆け巡り、混ざり合って、消えていく。
遠くから、「おやすみ。」と、二人分の優しい声が聞こえる。
そして―――千鶴の意識は、そのまま夢の中へと消えていく。