48 宿直1
左近衛府の建屋に入ると、髭の番長、平秋良が、ちらりとこちらを見ていった。
「なんでぇ。今晩の宿直は業光と一緒か。」
今夜は、千鶴こと、大江業光の宿直、すなわち夜勤であった。
「よろしくお願いします。」
ここ数日の付き合いで、髭の番長は、やや荒くれ者だが、面倒見が良いことも知っている。
「夜勤は久しぶりか?まぁ、まだ見回りまでは時間があるから、楽にしとけ。」
千鶴と番長、それから、あと二人が今夜の当番だ。
「はい。ありがとうございます。」
千鶴は、殊勝に頷いた。
一刻ほど建物の中で過ごした後、番長の「そろそろ行くか。」という掛け声で、千鶴も腰を上げる。
二人は、左近衛府の建物を出た。手には、各々、松の木に火をともした灯りを携えている。
灯りを頼りに、宮中、不審なものがないか、見て回る。
千鶴は、番長が先導するままに、キョロキョロと、警戒しながら、後をついていく。
番長は、しきりにチラチラと後ろをうかがってきたかと思うと、遠慮がちに、声をかけてきた。
「なぁ、業光よぉ。」
「はい。」
「その・・・病気ってぇのは、そんなに大変だったのかい?」
「え・・・えぇ、まぁ。」
千鶴は返答に惑い、曖昧に答える。
さらに、何か突っ込んで聞かれるだろうか。
しかし、番長は、僅かに沈黙したあと、気まずそうに、おずおずと、
「いや、お前、少し感じが変わったからよ。」
どきり、とした。
一緒にいることが多いだけに、どこか違和感があるのだろうか。でも、それは仕方がないことかもしれない。
「前から、ガキだと思っちゃいたが、病気をして、少し線が細くなったっちゅうか・・・なよっとしたっちゅうか。」
こちらを振り返らないまま話しているので、表情は読めない。
前を行く髭の番長の背中に千鶴の松明の灯りが反射し、ゆらゆらと光と影が動いていた。
「ぼんやりして、いろいろ忘れちまってるようだし。」
「すみません。」
とりあえず、謝る。
「高熱が出たせいで、まだ、記憶が曖昧なんです。」
いつものように誤魔かしたが、即座に、
「いや、謝って欲しいわけじゃねぇんだわ。」
「はぁ。」
後ろから、番長が、髪をくしゃりと、かきあげるのが見えた。
「俺は、ただ・・・なんていうか、心配してたのよ。ほら、休みに入る直前に、治部卿に話しかけられていたからよ。」
「治部卿に?」
想定外の人物の登場に、思わず声をあげた。
髭の番長が、ピタリと足を止めた。後ろを振り替えり、首を傾げる。
「なんだぁ?忘れちまったのか?」
「あ・・・えぇっと。・・・はい。」
忘れるどころか、知らないのだから、答えようがない。
治部卿は、治部省の長。
治部省は、姓名制度の管理や、婚姻、それにまつわる訴訟など、戸籍に関わることが主な業務で、普通に考えれば、近衛とは接点がない。
そして、治部卿は、藤袴の宮さまの夫でもある。
(ありえない。)
一介の近衛の舎人に上級官僚の治部卿が話しかけなんて。
「あの・・・私と治部卿は、どんな話をしていたんでしょうか?」
番長の眉が怪訝そうに、きゅっと寄った。
「知らねぇよ。遠くから見かけただけなんだから。」
それから、何かを思い出すように、頭を捻り、
「いや。まぁ・・・迷惑しているようには、見えなかったな。そういや。」
「そう・・・ですか。」
たいした用事でもなく、たまたま何か話しかけられただけなのだろうか。
治部卿の熊のような大柄な身体と、もしゃもしゃとした髭を思い浮かべた。
「まぁ、それでも心配はしたんだ。なんせ、あの治部卿だからな。」
「あの、治部卿?」
今度は千鶴が首を傾げる番だった。
「治部卿に何かあるのですか?」
「なんだぁ?お前、知らねぇのか?」
静かな夜の大内裏に、思いの外、番長のかすれた声は響いた。
「あ、すまん。」
「いえ。」
番長は、くいっと、顎でしゃくって、
「歩きながら話そう。」
千鶴は、番長の隣に並んで、歩きだした。
「治部卿は、何か・・・その、悪い噂でもあるのでしょうか?」
番長は、「俺が教えたって言わないでくれよ。」と念押ししてから、
「あの人はな、相当な色好みって話だ。」
「い・・・いろ・・・?!」
「しっ!」
声を上げそうになった千鶴を、今度は番長が制する。
「色好みって・・・そんな、だって・・・。」
色好みというのは、早い話が、恋愛好き。もう少し砕けていえば、方々の女に手をだす浮気性だ。
「だって、藤袴の宮さまとおしどり夫婦だって。」
「まぁ、表面上はなぁ。」
千鶴は、驚きのあまり、目を白黒させた。
つい先日、あんなに仲睦まじい二人を目撃したというのに。
恋愛とは、そういうものなのか。経験のない自分には分からかい。なんだか、頭が混乱して、くらくらしてきた。
「藤袴の宮さまがどう思っているのかは、分からねぇが、治部卿は、結構、あちこちの女に手を出してるって話だぜ。」
「では、藤袴の宮さま、はご存じないのですか?」
「さぁ・・・なぁ。」
髭の番長は、さして関心なさそうに言った。
「雲の上の方だから、わかんねぇよ。」
まぁ、確かに、近衛の舎人からすれば、治部卿同様、藤袴の都も接点は全くない。
いや、ひょっとしたら、大江業光には、何か接点があるのか?
「わりと四方八方、手を出してるみたいで、高貴な身分の女だけじゃなく、中には、白拍子みたいな遊び女もいるみたいだぜ。」
白拍子みたいな遊び女。
そう言われ、条件反射で、ドキリとする。
いや、仕方ない。
ーーー白拍子は、遊女が如き。
以前、中納言の藤原某にも言われた言葉。
実際に、身分高い者たちに、取り入り、囲われ者となる白拍子も数多いるわけで、そう考えられることは、間違ってはいない。
ただ、唐突に、「白拍子」と言われ、少し驚いただけ。
「でも、夫が、あちこちの女に手を出しているなんて、よくあることだろ?身分が高い人なんかは、特に。まぁ、うちみてぇな家じゃ、かかあが、絶対に、許さねぇけどよ。」
そんなことした日には、家から追んだされるぜ、と言って、「カカカ」と笑う。
「でも、よりによって、白拍子だなんて。藤袴の宮さまのお母さまと、同じ。」
「あぁ。そういや、そうだったなぁ。」
藤袴の母親のことは、多くの者たちに知れ渡っている。
「じゃあ、まぁ、因果応報ってんじゃねぇのか?もともと、帝の愛人の子なわけだし。」
「そんな・・・」
藤袴の優しい顔を思い浮かべる。
近くにいると、ポカポカと包み込むような、温かい気持ちにしてくれる。
身分の低い愛人の子。その立場は、きっと苦労したに違いないのに、そんなことを感じさせないような、明るく慈愛に満ちた人。
そして、治部卿を見たときの、恋する少女のような、可愛らしい顔。
藤袴の宮には、何の非もないのに、因果応報、だなんて・・・。
(でも・・・そうか。治部卿は、大江業光の顔を知っていたのだな。)
それならば、治部卿と謁見した、あのとき。治部卿の瞳が僅かに見開かれたのは、見間違いではなかったのだろう。
弁官の某が、一目見て、「成り代われる」と言った容姿。そして、現に、成り代われているという事実。
顔見知りの近衛と、そっくりな顔の白拍子が、妻の知り合いとして、現れたら、さぞ驚くだろう。
ーーーもしかしたら、大江業光の正体を、今の業光が千鶴であることを、気づいている者がいるかもしれぬ。
先日、鶯に、忠告されたことが、頭をよぎり、先程とは、違った意味で、ドキンと心臓が跳ね上がった。
治部卿と大江業光は、どの程度、親しかったのだろう。
もし、業光の病気のことを知っていたら?
まだ、目を覚まさないことを知っていたら?
そしたら、業光がここにいることを、不審に思うだろうか?
千鶴のことを思い出すだろうか?
(いや。まだ、そうと決まったわけではない。)
普通、女が近衛の舎人に成り代わるなど、考えもしないはずだ。
ぐるぐると考えを巡らせていた千鶴に、
「あのよぉ。」
と、番長が、遠慮がちに声をかけた。
「それでな、俺が心配したのは、お前のことなのよ。」
「え?あ、はい。私・・・ですか?」
何のことだったかと、首を傾げる千鶴に、
「お前ぇ、結構かわいい顔しているからな。治部卿に狙われてもおかしくないとな思っちまって。」
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。しかし、番長は、慌てて、「違う、違う!」と手をふった。
「いや、さすがの治部卿も、男色の噂はないんだけどな。お前、ちょっと女みたいな顔しているし、高貴なお方たちの中には、そういう人もいるって聞くから、ひょっとしたらって思っちまって。」
「ち・・・違いますよ。」
意味を理解し、慌てて首をふる。
「そんな関係では、ありません。」
言ってから、よく考えたら、本当にそうでないかは、分からないのだな、と思った。
しかし、藤袴の宮のことを思うと、否定せずにはいられない。
「そう・・・か。」
千鶴の強い否定に、髭の番長が足を止めた。
「そりゃぁそうだよな。変なこと言ってすまなかった。」
頭をかいて謝る。
でも、よく考えれば、変なこととは限らない。
男色は、宮中でも、普通にあることなのだ。
治部卿が、そうでないとは、限らない。
「これでも、俺ぁ、お前のこと、かわいがってんだ。娘の婿にでもどうかと思ってるしな。」
番長が、照れ隠しに、冗談めかしていった。
「娘さん、おいくつですか?」
再び歩きながら尋ねた。
「今、5つだな。毎晩、おっとぅ、おっとぅって、うっとおしほど寄ってくらぁ。」
言葉とは裏腹に、満更でもなさそうに、言った。
千鶴が、「ぷっ」と笑って、「嬉しそうですよ。」
「うるせぇ。がはは」
と照れ笑い。
その時、二人の長閑な笑い声をかき消す、太い声が上がった。
「曲者!」
二人は同時に、声のしたほうを振り向いた。
「あれは?」
「左近衛府の建屋のほうだ。」
駆けながら話す。
その時、千鶴は、視界の端に、黒い何かが、空を横切るのを捉えた。
―――あれは!!
「黒拍子!」
叫ぶと同時に駆け出していた。
闇夜の影は、まるで、鳥のように、ふわりふわりと、建物から建物へと飛びうつっている。
「大内裏をでる!」
大内裏を囲む外壁、通称、外の重に向かって跳ねていくのが見えた。
千鶴は、外の重に向かって足を走らせた。
「あっ、おい!」
後ろから番長が呼び止める声がした。
千鶴の視界が外の重を捉えた時、影がそれを越えていくのを見た。
続きは明日、投稿予定です。