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46 藤袴の宮

「よく来てくれましたね。」


藤袴(ふじばかま)(みや)の柔かな曲線を描いた顔が、ふわりと笑った。

スッキリとした甘味を伴う、良い薫りが千鶴を優しく包み込む。


「近頃、顔を見せないので、寂しく思っておりましたよ。」


藤袴の宮は、いつものように、御簾をあげて、千鶴を迎え入れた。


「公賢さまから、用事を言いつかることが、めっきり減ったものですから。」


ここは、以前、公賢に頼まれて、方々の貴族の屋敷に顔を出していた頃に、よく訪れた家の一つだ。


囮作戦でモノノケを捕獲して以来、餌を撒く必要がなくなったのか、公賢からのお使いは、以前の半分以下になった。


藤袴の宮のところへも、あれ以来、頼まれることがなかったので、久しぶりの訪問であった。


「公賢どのに頼まれなくとも、遊びに来て良い、と言ったではないか。」

「それは・・・。」


そうは言っても、藤袴の宮は、皇女。

さすがの千鶴も、社交辞令だろうと受け止めていた。


「私は、そのような身分ではございませんので。」


藤袴の宮は、やや悲哀混じりのため息をついて、


「そのようなことを気にする必要はありません。単に、私は、あなたの舞を見るのが楽しみなのですから。」


それから、遠くを見るように目を細め、


「聞き及んでいるかもしれませんが、私の母も、白拍子だったのです。」


藤袴の宮が、先々代の帝が、気に入りの白拍子に産ませた子であるのは、宮中にいる者なら、誰もが知る、周知の事実であった。


藤袴の宮は、帝の御子ではあるが、「親王宣下」を受けていない。数多いる帝の子たちは、「親王宣下」を受けて、初めて「親王」を名乗ることを許される。

従って、親王宣下を受けていない藤袴の宮の身分は、ただの皇女。さらに、だいぶ前に、臣籍降嫁、つまり、臣下に嫁ぎ、皇族の身分を離れている。


とはいえ、やはり「皇女」であることに代わりはなく、気軽に遊びにくるような場ではない、という点においては、鶯の比ではない。


「貴女のその衣服、とても懐かしいですわ。」


千鶴の身に付けている、白い水干に緋の袴、そして頭の上の立帽子を見つめて、言った。これらはすべて、白拍子の衣装である。


ただし、一般的に着用される長袴とは、違い、千鶴のは、動きやすさを重視し、足首で絞ってある。


千鶴も、久しぶりに、この服に袖を通した。

近衛の舎人は、下級役人なので、勤務日数が多く、白拍子の仕事どころではなかった。ここ最近は、ご贔屓の藤原中納言邸からのお呼びでさえ、断っていた。


「一曲、舞ってはくれませぬか?」

「はい。」


宮に請われ、千鶴は、一礼して立ち上がった。


(藤袴の宮さまにふさわしいのはーーー)


春の詩・・・いや。

秋の詩。


明るくて、可愛らしい。

愛嬌があり、誰にでも、別け隔てなく優しい。

一見したら、温かい春のような人なのに、なぜだか、この人に似合うのは、静けさ漂う秋のような気がするのだ。


千鶴よりもずっと年上の大人だからだろうか?それとも、「藤袴」という名のせいだろうか。藤袴は、代表的な秋の花で、乾燥させると良い香りがする。

まさにこの人に誂えたような、あだ名。


千鶴は、呼吸を整えると肩から指の先の扇まで、全神経を集中させた。

一呼吸、一呼吸、深く。声は、身体の中から響かせるように。五月蝿くなく、まっすぐと通る音を。

着物から剥き出しの足の、指先まで美しく見えるように。


千鶴は、藤袴のために、心を込めて、舞った。


「ほう。」


藤袴は、うっとりと破顔してから、無邪気にパチパチと、手を叩いた。


「私は千鶴の舞がとても好きです。凛として、純粋で。」

「ありがとうございます。」


色気がないと揶揄されることもある舞。

男女の色事はおろか、恋愛感情さえ抱いたことのないのだから、その指摘は間違っていない。


でも、藤袴のように、喜んでくれる、評価してくれる人がいるというのは、やっぱり嬉しい。


「久しぶりに、あなたの舞が観られて、とても嬉しいわ。」


千鶴は、その笑顔に、本当に愛らしい方だ、と改めて思う。


藤袴の顔は、眉も、目も、口元も、輪郭も、すべてが、柔らかく、優しい曲線で、できている。

当時の帝が、戯れで妾の白拍子に産ませた子。親王ではない、藤袴の宮さま。でも、その持ち前の人柄の良さで、多くの人から好かれている。


「そのようなお言葉、かたじけなく存じます。長らく、ご無沙汰しておりまして、申し訳ありません。」


千鶴が、満ち足りた気持ちで、心から頭を下げた、そのとき、


「やぁ、お客だったのか。」


口周りに黒々とした髭を蓄えた大柄な男が、廊下と隔てた几帳の向こうから、のそっと現れた。


「これは、失礼。」


男が、低く、のんびりとした声で言った。肩幅が広く、熊のように大きい。

千鶴は、その姿を認め、慌てて平伏した。


「あら、あなた。お帰りでしたのね。」


藤袴の宮が夫、平業兼(たいらなりかね)。治部省の長官の治部卿である。


「あぁ。今、帰ったところだ。珍しい絵巻物が手にはいってね。貴女にお見せしたいと思って、真っ先にこちらに来たのだ。」

「あらまぁ。嬉しいこと。」


藤袴が、跳ねるような声で、コロコロと笑った。千鶴より十は年上だと思うのに、恋する少女のように華やいだ声。


(本当に嬉しいんだ。)


治部卿が「うーん。」と唸って、


「でも、お客さんなら出直しましょう。貴女は人気者だから、いつも訪れる人が絶えないね。」

「あの・・・私はすぐに、お暇しますので。」


千鶴は、頭を伏せたまま、慌てて辞去を申し出る。


治部卿は、「おや?」と呟き、


「今日のお客様は随分とお若いのだねぇ。」

「あや、やだ。(わたくし)にだって、若いお友達くらい、いるわ。」


藤袴は、笑って、

「特別にいいわ。ご紹介いたします。千鶴、(おもて)をあげなさい。」


治部卿とは、治部省の長。当然、内裏や大内裏に出入りしている。


本当は、近衛の舎人として出会う可能もないことはないので、顔を見せたくはないのだけど。

ちょっと躊躇ったのち、


(断るのも不自然か・・・。)


千鶴は、ゆっくりと顔を上げた。


「はじめまして。千鶴、と申します。」


視線の先には、治部卿の雄々しく武骨な顔があった。と、その瞼が、ほんの一瞬、ハッとしたように、持ち上がった気がした。


(気づかれた?いや・・・。)


治部省は離れているし、宮中では、まだ、会ったことは、ないはず。

でも・・・


(どこかで姿を見られていても、おかしくはない。)


千鶴の心臓が、ドクン、ドクンと跳ね上がる。


何せ、大内裏に男と称して入り込んでいるのだ。例え、末端の近衛の舎人でも、帝を謀る行為に違いはない。


(いや。でも、仮に姿を見られていても、女である私と結び付けられることは、さすがにないだろう。)


普通に考えたら、ありえないことなのだから。


千鶴が、動揺を悟られぬよう、鼻で、深呼吸を繰り返していると、


「あなた?」


返事をしないまま、黙りこくっている治部卿に、藤袴が、様子をうかがうように、声をかけた。


「どうか、なさいましたか?」


治部卿は、「いや。」と首をふって、


「まさか、あなたの友人がこんなに可愛らしい白拍子とは、思わなくてね。あなたの交遊関係の広さに驚いたのさ。」

「あら?私のお母様は白拍子でしたのよ。」

「そういえば、そうだったね。」


先程と態度が変わったようには、見えない。

大丈夫。やはり、気づかれることなど、あるはずないのだ。


「千鶴、と言ったね?」


治部卿は、低く落ち着いた声音で、千鶴の名を確認した。


「はい。」


千鶴も、いつもどおり、白拍子の千鶴として、答える。


「藤袴は、貴女を見ると、亡き母君を思い出すのでしょう。面倒とは思うが、思出話に付き合ってやってください。」

「まぁ、ひどい。」


藤袴は、すかさず言うと、演技がかって、取り澄ましたように、つんとそっぽを向いて、


「それでは、まるで私が年寄りのようではありませんか。」

「はは。すまん、すまん。」


治部卿が、頭を、ボリボリとかきながら謝った。

おしどり夫婦、という噂は本当らしい。


「年寄りはむしろ私のほうだったな。」


藤袴とは、一回り以上離れているという噂の治部卿は、モジャモジャ眉を優しく下げ、愛おしそうに目を細めた。


「それでは、私は一旦退散しよう。あとは若い者同士でお楽しみあれ。」


治部卿は、そう声をかけると、部屋を出ていった。


その背に向かって、藤袴が、


「もう!すぐにからかうんだから!」


と、投げ掛ける。几帳の向こうに、ひらひらと振る大きな手が見えた。


「本当に、仲がよろしいのですね。」


藤袴は、やや赤みの差した頬を、パタパタと手で顔を仰いで、「恥ずかしいわ。」と、幸せそうに笑った。



◇   ◇   ◇



藤袴の宮の家を出る頃には、あたりが薄紫色に染まっていた。

暑さが峠を越えると共に、少しずつ、日が落ちるのが早くなっている。


「暗くなる前に帰ろう。」

「うん。」


懐のナンテンが返事をした。


「菊鶴が待ってるからな。」


昨日、千鶴の師匠、菊鶴が久しぶりに帰ってきた。菊鶴は、時々ふらっと出掛けて、一週間から、長いときは3ヶ月ほど帰ってこない。


今回は、3週間程。ほとんど変わりない彼女の様子に、ホッと安堵する。


菊鶴は、白拍子としては、かなり、とうのたった年齢だが、未だに現役で舞を踏んでいる。

むしろ、円熟した色気が舞に艶を出しており、熱心に贔屓にしているものも多い。


菊鶴が長期でいなくなるとき、そうした贔屓のどこかに顔を出しているらしい。

以前は、千鶴も一緒に各地を旅していたが、京に腰を据えてからは、菊鶴一人で出かけるようになった。


昔はよく、菊鶴が、客に呼ばれて出掛けているときには、一人で舞の練習をしていた。うだるような夏の暑さの中でも、粉雪舞う冬の寒さの中でも。

一人、己と向き合う時間は、何も考えなくていい。全神経を身体に行き渡らせる、その感覚は、ある一定の域を超えると、純粋で透明になる。その瞬間が、千鶴は好きだった。


「でもさぁ、大丈夫・・・なのか?」


ナンテンが、心配そうに聞く。


「だって、菊鶴、知らないんだろう?」


一月ぶりに帰ってくる菊鶴は、まだ、千鶴が近衛の舎人になりすましていることを知らない。もし知ったら怒るだろうか。

いや、面と向かって、怒りはしないだろう。変なことに巻き込まれたと呆れ、そして、さほど関心がないようなふりをしながら、実は結構心配するのだ。


千鶴は、菊鶴のそういう優しさを知っている。


「言うのか?」

「ん。」


千鶴は、小さく首を横に振った。

やっぱり、無用な心配はかけたくない。


「早く帰ろう。」


千鶴は、暮れなずむ街を、南に向かって小走りに駆ける。

家までは、あと、通り一つ。


夕日に長く伸びた自分の影。

その、やや薄灰色がかった影を、ふと目にした瞬間、突如、ぞくり、と背筋が凍った。


「千鶴っ!」


ナンテンが反応するのと、ほぼ同時だった。

首筋から背中にかけて、氷のように冷たい何かが触れた。


(なに?)


背から内に入り込んだ冷気が、みるみるうちに、千鶴の身体に染み込んでいく。


(絡み・・・とられる!)


千鶴は、後ろから糸を引くように入りこんでくる何かを、引きちぎろうと、もがきながら、背後を振り返る。

しかし、そこには何者の姿もない。


「うぐっ!」


突如、首に強い圧がかかる。


(苦・・・しい。締められている。)


首を締められている?

何・・・に?


よく見ろ。よく見ろ。


彷徨いそうになる意識を保ち、目を凝らした先には、うっすらと、白く細長い指。

そして、その先・・・女の手?


その手を通して、冷たく重い空気が、首から千鶴の体内へと流入している。凍てつくような冷たい指が、血液に乗って、身体中を這っていくようだ。肺が凍るように冷たい。


やがて、その冷気をまとった見えざる手は、千鶴の心臓へと伝う。


「ひっ・・・」


女の手が、心臓をくるくると撫で回し、きゅっと掴んだ感覚が、伝わってきて、千鶴は、声なき叫び声を上げた。


「千鶴!千鶴!!」


懐から飛び出してきたナンテンが、千鶴の耳元で、必死に名を呼ぶ。


心臓は、徐々に、小さな箱に押し込められるように、少しずつ、少しずつ、締め上げられている。


「・・・あ゛・・・」


ふっと意識が飛んだ。身体が脱力し、グニャリと折れ曲がったまま、地面へと倒れこむ。


その時、懐から、何かがぽろりと落ちた。いや、勢いよく飛び出していった。

千鶴を捉えた白い手の先に向かって、渾身の力飛びかかる。


ナンテンだった。


カンッと何かに当たって、ナンテンの身体ごと、跳ね返えされた。と、同時に、千鶴を捉えていた力が、一瞬で消失した。


千鶴は、そのまま、地面に崩れ落ちた。


「千鶴!!千鶴!!しっかりしろ!!」


「・・・ッツ!ゴホッ!ゴホッ!!」


肺に、新鮮な空気が、一気に流れ込む。

ヒューヒューと浅い呼吸を繰り返す。


「テン・・・」

「千鶴ぅ。」

「大丈夫、生きて・・・る。でも・・・少し休ませて。」


ゴロンと仰向けになった。

しばらく寝そべったまま、深呼吸を繰り返す。肺に夏の夕べの蒸れた空気がゆっくりと充満し、熱を取り戻す。


呼吸が戻ったところで、ゆっくりと起き上がった。


「千鶴、これ。」


ナンテンが、口に何かを咥えて近寄ってきた。


「櫛・・・」


千鶴は、手を伸ばして、それを受け取る。


「これ持って、アイツに向かって飛んだんだ。」


千鶴が幼い頃から持っている菊の意匠をあしらった柘植の櫛。元の持ち主の魂が宿っているという。公賢から、お守りになると言われ、いつも懐にいれて、持ち歩いていた。


「また・・・これに助けられた。」


千鶴を守りたいと思ってくれるその魂に、助けられたのは、もう何度目か。


千鶴は、両手で胸に抱いて、「ありがとう。」と、お礼を呟いた。


続きは来週。

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