45 フクリョウ
庭からは、盛りを迎えた蝉の声が忙しなく、降り注いでいる。釣殿の池には、強い日差しが照り返して、キラキラ光っていた。
千鶴は、目の前に座る男の、糸のように細くつり上がった目を、おそるおそるのぞきこんだ。
「念のため、式を忍ばせておいて正解でした。」
当代きっての陰陽師、安倍公賢は、一見、いつもと変わらぬ様子で、淡々と言った。しかし、その実、滲み出る冷たさに、怒っていることが分かる。
式、とは、式札を使って行う陰陽師の呪術。そして、先日、大内裏で頭中将の話を盗み聞きしていた千鶴を、助けてくれた猫の正体。
「ありがとうございました。」
千鶴が、殊勝に頭を下げた。
横で、雰囲気に気圧されたらしいナンテンも、珍しく黙って、頭を下げた。
「ま、貴女に何事もなくて、ようごさいました。」
公賢が、脇息にもたれかかって、ゆらゆらと扇で仰いだ。
「だから、オイラは、やめようって止めたんだ・・・」
ナンテンが、恨みがましく鼻を突き出して、「なのに、千鶴が走っていっちゃうから」と、小言を言う。
「それに、あの黒拍子ってやつは、おかしいよ。ずっと気配はなかったのに、突然、現れた。」
「突然・・・?」
公賢が仰いでいた扇を、ピタリと止めた。
「あぁ、そうさ。」
「詳しく話してもらえますか?」
ナンテンは、許可を得るように、ちらりと千鶴を見て、千鶴が頷くのを確認してから、話しはじめた。
「確かに、あの時、あの場に頭中将以外の匂いはしなかったんだ。いたら、絶対に、先においらが見つけて千鶴に気をつけるよう、伝えている。」
ナンテンは、旧鼠。鼠の妖怪で、鼻には、絶対の自信を、持っている。
「テンが匂いを嗅ぎ分けられない人間って、いないの?匂いがない、とか。」
ナンテンは、ふるふると首を横に振った。
「分からない。ひょっとしたら、いるのかも。でも、黒拍子は、匂いがないわけじゃないと思う。近づけば薄っすらと感じた。なんていうか・・・うまくいえないけど、変な匂いだった。」
「変な匂い?」
「例えば、公賢さまは、いつも香のいい匂いがする。公賢さまに限らず、貴族の人間は、だいたいみんなそうだ。まぁ、いい匂いだったり、鼻がひん曲がるような臭い匂いだったり、いろいろだけど、焚いた香の匂いで、すぐわかる。」
ナンテンは、「藤原某中納言は、キツイし、臭いし、おぇってなる。」と言い足した。
「庶民の男は、土の匂いとか、川の匂いとか、暮らしている場所の生活の匂いがする。自然な匂いで、オイラは、結構好きだ。」
「でも、黒拍子は、そのどちらでもない、ということ?」
ナンテンは、少し迷ってから、頷いた。
「香の匂いは、しない。どちらかというと、庶民の男たちの匂いが近いけど・・・もっと獣臭いんだ。」
「猟師とか・・・そういう?」
「いや、似てるけど違う。例えば、狼や猪の群れのの中に混じっているみたいな濃い匂いだ。」
千鶴は、公賢と視線を合わせた。
公賢は、考え込むように、扇を閉じて、しばし瞼をおろしたが、すぐに、再び目を開けた。
「まぁ、黒拍子の正体について、この場で論じても、仕方がありません。それより、問題は、頭中将の話していた内容について、です。」
話の内容は、式を通して、公賢も聞いていたらしい。
しかし公賢は、それを、その場にいた千鶴に改めて確認した。
「やはり『フクリョウ』、と言ったのは間違いないのですね?」
「はい、そのように聞こえました。」
公賢は、返事をしない。しかし、その表情で、公賢が、『フクリョウ』が何か、知っているのが分かる。
「フクリョウ・・・とは、何なんでしょう?」
公賢は、ふいと庭の方を向いた。答えるつもりはない、ということか。
しかし、予想に反して、公賢は口を開いた。
「フクリョウとは・・・伏せる龍、と書きます。」
「伏せる龍・・・?」
「その名の通り、大地に伏せる龍。」
「龍、ですか?頭中将が探しているのは?」
龍。それは海の向こう、宋の国に、宋ができるよりずっと昔からいる伝説の生き物。
細長く大きな身体は鱗で覆われ、羽もないのに、駆けるように空を飛ぶ。
そんな生き物が、この国にもいるというのか。
「いえ、頭中将が探しているのは、龍そのものではない。『伏龍の碧』、『伏龍の眼』、『伏龍の涙』、言い方はいろいろありますが、全て同じものです。」
「それは、なんですか?」
公賢は、たっぷり一呼吸置いてから、
「宝玉、と言われています。」
「宝玉?」
「宝玉と言っても、装飾用の石ではありません。むしろ、呪具と言った方が、より的確でしょう。」
「呪具・・・」
つまり、呪いをかけるときに使用する道具のことだ。
「龍をかたどった青銅の像の片眼に嵌め込まれた紺碧色の宝玉で、伝説では、龍の瞳からこぼれ落ちた涙が結晶となった石、だと言われています。それを持ってすれば、天下を手中に納めることができる、と。平清盛公が、亡くなる直前、源頼朝を呪い殺すために、宋から取り寄せたという噂を聞いたことがあります。」
「平清盛公・・・」
そうだ。確かに、あのとき、黒拍子の口から、その名を聞いた。
平清盛は、その死の直前まで、源頼朝を打ち倒すことに執着し続け、かの人を恨みながら死んでいったという。
「最終的に、清盛公の手には渡らなかった、と聞きますが、そもそも、見たことがある人もおらず、本当にそのような呪具があるのかでさえ、定かではありません。」
むしろ、「それほどまでに源頼朝許すまじと恨んで死んでいった」という、他愛もない創作話の一つだと思われているのだと語った。
「それを頭中将が探しているとなると・・・本当にある、ということですか?」
公賢は、「どうでしょう?」と首を捻った。
半信半疑といったところに見える。
「所詮は伝説に近いような代物です。」
「では、頭中将は、何のために、探しているのでしょうか?」
天下を手中にいれる呪具。それを、黒拍子を使い、内裏に潜入させてまで、欲していた。ただの伝説のために、そこまでするだろうか。
公賢は、何も答えず、閉じた扇を口許にスッと当てた。軽はずみに論ずるべきではない、と暗に示しているようにみえた。
「では、若い娘が消えている、というのも、やはり頭中将の仕業でしょうか。」
千鶴は、話題を切り替えた。
近衛府で番長から聞いた噂話。都で、若い貴族の娘が行方不明になっている。
しかし、公賢は、僅かに首を傾げた。
「今、それを頭中将に結びつけるのは、やや危険な先入観となるかもしれません。」
「危険な、先入観・・・?」
「消えた、と言われている娘は、皆、それなりの身分の家の者たちだ。頭中将にしては、やることが派手すぎます。」
やはり、公賢は、そのことも、すでに知っているらしい。
「頭中将がやっている証拠はありませんし、また、何のためにそんなことをしているのか、疑問です。」
「呪いにつかうのでは?」
現に、鶯のときがそうだった。彼女を物の怪と化した蛇、斑の姫の恋人、青嵐の中将に食べさせるつもりであった。
「それについては、もう少し、時間をかけて考えましょう。」
異論を挟ませぬ、断固とした言い方。
公賢は、単に長い耳を持っているだけではないのだ。当代きっての陰陽師であり、宮中での地位こそ高くはないが、そのつながりは計り知れない。何せ、月詠の鏡を巡って、帝にさえ、直接話を通すことができるのだ。
千鶴の知り及ばぬ何かを知っているのだろう。
「・・・わかりました。」
この議論は、これで終いということだ。
公賢が、菓子の乗った盆を「どうぞ。」と、千鶴の方に差し出す。
さっきまで、横で、話の成り行きを見守って大人しくしていたナンテンが、「待ってました。」とばかりに、盆の上に飛び乗る。
「ほら、千鶴も食べようぜ。」
ナンテンに促され、千鶴も、菓子を一つ摘まんで、持ち上げた。
「そういえば、」
公賢が、ふと思い出したように言った。
「藤袴の宮が、最近、貴女が来ないから退屈だとおっしゃっていました。」
「藤袴の宮さまが?」
意外な名に、思わず、菓子を口に入れようとする手を止めた。
藤袴の宮は、以前、公賢の使いと称した囮にされたとき、顔を出していた屋敷の一つだ。
3代前の帝の子で、今の帝の叔母にあたる。元々、母の身分があまり高くないらしいのだが、臣籍降嫁(臣下に嫁ぐこと)し、今は三条に屋敷を構えている。
「いいじゃん。オイラ、あのお屋敷は花の良い香りがするから、好きだ。」
ナンテンは、基本的にどこに行っても、千鶴の懐で姿を隠しているが、それでも居心地の良し悪しというのは、あるらしい。
「用もないのに、伺ってもよろしいのですか?」
人好きのする社交的なお人柄とはいえ、皇女。公賢が、僅かに口の端を持ち上げ、柔らかく、頷いた。
「えぇ。貴女なら、お喜びになるでしょう。たまには、遊びに行って差し上げなさい。」
今回は、定期的に挟まれる会話回でした。
フクリョウで、すぐに「伏龍」を思いついた方もいるかなぁと思いつつ。
続きは、今週中です。