菊鶴
2章「26 拐かし」冒頭の場面の菊鶴です。
もともとは本編の一部として執筆したのですが、2章全体の展開がもたつくので、切り離しました。が、先々の菊鶴の行動原理でもあるので、章外として別立てしました。
玄関を出る直前、菊鶴は、振り替えって、千鶴を見た。一心に何か考え事をしている、その横顔を、じっと、見つめる。
菊鶴は、これこら、昔なじみの贔屓の客のところへ行くために、旅にでる。10日か15日、ひょっとしたら、一月くらいは、戻れないかもしれない。
千鶴が幼い頃は、一緒に連れて旅していた。けれど、京に腰を据えてからは、彼女を都に残し、一人で出かけるようになった。
千鶴は、もう子供じゃない。
彼女にも、贔屓の客がいて、ここでの生活がある。いざとなれば、一人で生きていけるだろう。
まぁ、藤原中納言の妾、というのは勧めやしないけど。
あの男は、そう大きくもない器に、悪い意味での貴族の矜持と気位を、破裂しそうな程に、パンパンに詰め込んでいる。
霞の奥からこだまするような声で話すくせに、ねっとりとした下心を隠しきれない。
千鶴への愛情なんて、ありゃしない。あるのは、愛玩へ所有欲。そんな男に、千鶴はやれない。
普通、芸を売る白拍子は、権力者や有力な貴族に気に入られれば、身体を重ねることも、珍しくない。当たり前のこと。しかし、千鶴には、未だ、男の気配がなかった。
男の気配があれば、芸は色を帯びる。それは、どれだけ隠しても、菊鶴には、絶対にわかる。
千鶴には、そうした艶っぽさはなかった。
それどころか、心も、まだ子供。
たぶん、まともな恋すらしたことがないんじゃないか。だから、千鶴の芸では、恋の懊悩や嫉妬、狂うほどの愛が表現しきれない。
でも、それは仕方がないことなのかもしれない。
ずっと、二人だけの暮らしだったんだ。他の人間と深く関わることも、交わることもなかった。
それでも、最近、あの子は、少し明るくなった。
どうやら友人が出来たらしい。
従5位 七条家の三の姫、鶯の君。一応貴族のお姫様で、以前、家に年老いた従者が訪ねてきたことがある。「友」と言葉にするには、身分違いだが、菊鶴が心のなかで思うくらいは許されるだろう。
ずっと二人であちこち転々と旅していたせいで、千鶴には、友人らしい友人もいない。だから、初めて、同じ年頃の心許せる人が出来て、菊鶴は、素直に嬉しかった。
千鶴の話を聞くに、鶯の君というのは、何でも、少し変わり者の姫様らしい。
七条家は従5位で、一応、昇殿できるが、良家の坊っちゃんならば、元服直後に授かることもある程度の位だ。それが、あの年で、となると、決して有力な家ではないだろう。
それでも、庶民の千鶴が、気軽に友達と言うには憚られる身分だ。それを、鶯のほうが積極的に交流を持ちたがっているというので、やはり変わっているのだろう。
菊鶴は、初めて千鶴と出会った日のことを、思い出した。
ある飢饉の年だった。
一度、飢饉に襲われると、都には食べ物を手に入れられず、道端に行き倒れている者が多く現れる。
千鶴は、そういう者たちに混じって、倒れていた。痩せ細り、地べたに突っ伏していたのを菊鶴が見つけ、声をかけたのだ。
まだ年の頃、一つか二つ。
息はあったが、酷く弱っていて、起き上がることすらできなかった。
菊鶴は、その日、たまたま運良く手に入た、名も知らぬ木の実を一つ、懐から出し、かち割って半分与えた。口元に差し出すと、幼子は、倒れたまま、母の乳を吸うように口をちゅっちゅっと動かして、実の汁を吸った。
その様を見守りながら、尋ねた。
「あんた、生きたいの?まだ、生きる気ある?」
会話が成り立つ年頃ではなかったのだろう。
返事はしなかったが、その代わりに、ゆっくりと黒目を動かし、菊鶴の方を見た。その瞳には、枯れた身体に似つかわしくない生気が宿っていた。
菊鶴は、悟った。
この子は、生きようとしているんだ。まだ諦めてはいない。
菊鶴の心中は、刹那、葛藤をした。
菊鶴は、母親代わりにはなれない。愛情も注げられるか分からない。捨てられ子の菊鶴にも、手本となる人がいなかったから。
(何を良い人ぶって・・・あたしくもない。)
この子を連れて行っても、育てることなんか、できるわけない。
菊鶴は、残った木の実の半分を千鶴の口元に置くと、
「誰か、親切な人に拾われるんだよ。それまで、頑張んな。」
立ち上がりかけた菊鶴の着物の裾が、ぎゅっと引かれた。見れば、幼子は、弱々しい力を振り絞って、掴んでいる。
その子は、生きることに、必死だった。
何かを訴えかけるように、じっと菊鶴を見ている。
「良しとくれよ。そんな目をされたって、あたししゃ、お母さんには、なれないよ。」
そう。お母さんには、なれない。でも・・
ーーーでも、師匠として・・・なら?
自分は、白拍子だ。母としては無理でも、師匠としてなら、この子を育てられるかもしれない。
菊鶴もずっと一人だった。
縁があり、白拍子になったが、心許せる相手などいなかった。
この子と同じ、たった一人。
菊鶴は、気づくと、起き上がることすらできず、寝転んだままの幼子の身体を抱え、背に負っていた。
「よいっしょ・・・」
一人で生きてきた菊鶴にとって、人を背負ったのは、初めてだった。
まだ、小さいのに・・・こんなに痩せているのに・・・
「人間ってのは重いもんだねぇ。」
ポツリと呟くと、空腹でふらつく足がもつれぬように気を付けながら、一歩、また一歩と歩きだした。
結局、あれが、私の母性だったんだろうねぇ。
菊鶴は、下腹に手を当ててさすった。
かつて、そこには、大きな傷があった。今は目を凝らして見ないと見つからないほど、薄い傷跡。もう、痛むこともない。
一度だけ徳の高い僧とやらにみてもらったが、子を生むことは、出来ぬらしい。
例え師匠と弟子の関係であったとしても、千鶴は、私にとって唯一の子。
あの子は、たぶん貴族の娘だ。
目の前の家から、出てきたように倒れていた。誰の家だかは分からないが、ただ、大きな家だった。あれだけの家にも関わらず、食うに困るほど困窮していたのだから、親は没落した良家の子女だろう。
千鶴は、鶯と話して、何を感じるだろう。
貴族の娘を羨ましいと思うだろうか。
拾ったのが、菊鶴である以上、どれだけ望んでも、もうそこには戻れない。菊鶴が、拾わなければ、命さえ、なかったかもしれないのだ。
飢饉の最中、誰が身内でもない幼子を助けようか。
今更、貴族に戻してやることはできないが、どういう形でもいいから、幸せになってほしいと思う。
私は母ではないのだから、この気持ちは親心とは違うのかもしれないけれど、名もなき想いは、千鶴への愛情。
千鶴は、大きくなった。
どうやら、鶯以外にも、人と付き合い、交わることが増えているらしい。
彼女は、彼女の人生を生き始めていた。
もうすぐ、菊鶴の役目は終わる。
だから、あと少し。
親代わりが必要なのは、あと少しだけ。
菊鶴は、物思いに耽る千鶴に、「じゃあ、行ってくるよ」と、軽やかに声をかけた。
「三月経っても帰ってこなかったら、どっかでくたばっちまったと思いな。」
菊鶴は、千鶴に背を向けると、小さな声で呟いた。
「さぁて、ちゃんと帰ってこないとねぇ。」
ありがとうございました。
3章のタイトルは「近衛の舎人」です。
2章の登場人物一覧を来週公開します。
3章についての詳細も、その時に。