40 結び・釣殿にて
千鶴は、よく晴れた空を眺めた。
「雨の季節も終わりですね。」
空高くには、すでにニョキニョキと力強い夏雲がかかっている。
「一つどうですか?」
公賢が、盆に載せた干し柿を千鶴に勧めた。
ナンテンが、千鶴の肩から降りてきて、盆の横に立ち、手を伸ばす。
千鶴は、今日も公賢の屋敷に来ていた。
用事を言い使うためではない。ただの話し相手として、だ。
公賢邸の釣殿は、眼下の池と広い庭に囲まれ、相変わらず、長閑だった。
「酒がよければ、そちらもありますがね。」
「結構です。」
千鶴は、即答すると、サッと干し柿に手を伸ばして、一つつかみ、口に放り込んだ。
「酒はあまり好きではないのです。」
先日の夜、惟任と共に来たときに相伴させてもらった酒は、確かに美味しかった。あのおかげで身体が暖まった。しかし、千鶴は、やはり、酒を飲む楽しみというのは、理解できなかった。
「酒は、よくわかりません。干し柿の方が美味しいです。」
「酒は、飲み方次第で、毒にも薬にもなるものです。」
と言った公賢は、
「まぁ、好みは人それぞれですからね。」
千鶴は、一噛みするごとにねっとりとした甘味が増す干し柿を、口のなかで堪能した。
「そういえば、惟任さまが、あの黒いのは何なのかと、しつこく聞いておりましたが。」
惟任は、あの晩の物の怪の正体を知りたがった。しかし、公賢は、はぐらかし、何も教えてくれない。
「公賢さまが、お教えしないから、信太の森までついてきたじゃないですか。」
「それは違うと思いますけどね。」
公賢が、笑みを浮かべる。
「曽我惟任がついてきたのは、貴女が男装して従者になると言い出したからでしょう?」
私のせいではありませんよ、と公賢。
「男装して従者になると言ったのではありません。従者としてついていく、と言ったら、公賢さまが、女では目立つから、男装しろとおっしゃったのではないですか。」
それが、なぜ惟任がついてくる話になるのか。さっぱり分からないと言うと、公賢は、「ほほほ。」と意地悪く笑って、
「それじゃあ、いつまでたっても酒の味はわかりますまい。」
「はぁ?なぜ、ここで酒の話が出てくるんです?」
千鶴は、問い返すが、公賢は、相変わらず、気味悪いほど愉しげに笑っているだけだ。
「まぁ、いずれにしても、アレの正体を教えるつもりはありません。千鶴も、忘れるように。」
千鶴は、この物の怪を捉えるために、知らない間に勝手に囮にされていたのだ。
それなのに、正体も教えられないとか、ひどく理不尽なきもするが、公賢が、教えないと言えば、その意志は、梃子でも動かせまい。
「惟任さまのことを、ご存知だったんですね。」
「お会いしたのは、初めてですよ。」
持って回ったような言い方。
「どういう方か、ご存知だったんですね。」
千鶴が、丁寧に言い直すと、公賢は、肯定も否定もしない。
千鶴は、あの晩、公賢が惟任に言ったことを忘れていない。
あなたなら、ご存知でしょう、と肩をすくめて出した名前。
右近衛中将、源実朝。
その名は、巷では、近衛中将としてよりも、むしろ、征夷大将軍として、よく知られている。
源頼朝から数えて三代目。今も、宮中に近衛中将という官位を持ちながらも、鎌倉に居を構え、武士と呼ばれる者たちを統括している。確か年は、千鶴とそう変わらなかったはずだ。
惟任は、自分の主が、右中将に仕えている、と言っていた。つまり、彼は、鎌倉側の勢力図の中にある。
公賢が、惟任に教えないのは、そのことと関係があるのだろう、と千鶴は考えていた。
彼はずっと、あの物の怪を追っていた。
あの物の怪は、政争に絡んでいるのではないか。
そして、あの晩、出くわした頭中将。彼もまた、惟任を知っていた。
そこまで考えたところで、やめた。
いくら考えても、全て、千鶴には、関係のないことだ。
千鶴は、公賢に勧められるがままに、干し柿をもう一つ口に放り込む。
甘い。
「美味しいでしょう?作り方にコツがあるようです。」
公賢も、摘まんで口に入れた。
「なにせ、忠経殿の秘伝の作り方だそうですから。」
千鶴は、柿を持った手を止めた。
「この干し柿は、権大納言から頂いたものだったのですか?」
「おや、先日、言っていませんでしたか?」
公賢は、脇息にもたれ掛かったまま、涼しい顔をして、もしゃとしゃと口を動かす。
「初めて聞きました。」
最初っから、権大納言と公賢は、水面下で、しっかり繋がっていたんじゃないか。それなら、あんなふうに唐錦を追い詰めずとも、いくらでもやりようは、あっただろうに。
なんだか、理不尽なことに付き合わされていた気がして、もっしゃもっしゃと口の中の柿を噛みしだいた。
「そういえば、今日、でしたね。」
公賢が、何気ない世間話のように話題をふった。
「唐錦の君の昇殿は。」
「えぇ。そう聞いています。」
結局、唐錦は宮中に出仕することを決めた。
自分で、父と母に申し出たらしい。今日が、その日だった。
「あれ以降、唐錦の君とはお会いになりましたか?」
千鶴は、首を横に振った。
「元より、身分違いです。用事がなければ、もう会うことはないでしょう。」
ただ、出仕を知らせる便りが届いただけだ。
「そうですか。」
公賢が、ふと言う。
「権大納言が、この柿を持ってきたときに、言っていました。本当は唐錦の君は、あなたに嫁ぎたかっただろう、と。」
「ブッ」
千鶴とナンテンが、口の中の柿を同時に吹き出した。
「な・・・何を仰るのですか?私は女ですよ。」
「えぇ。幸いにして。」
公賢は、うっすら笑みを浮かべていた。冗談を言っている顔ではない。
「おかげで、権大納言家の姫は、身分違いの恋に走ることなく、栄えある出仕を選ぶことができました。」
「オイラは、やっぱり、あの女、キライだ。」
ナンテンが、イーッと歯を剥いた。
「公賢さまの口から、栄えある出仕などと言わても、嘘くさく聞こえますよ。」
「それは、確かに。」
公賢が、素直に頷いた。
「でも唐錦は、貴女のことが、とても好きでしたよ。男とか、女とか、関係なく。」
千鶴は、気位の高い仮面の下に、純朴な素顔を隠した、幼い姫の姿を思い浮かべる。悪い子ではなかった。
公賢の言葉は、千鶴の心に心地よく染み込んだ。
ふいに、公賢が庭の方に視線を向けたので、千鶴も、つられてそちらを見る。
庭の向こうには連なる濃緑色の山々。
木々は、雨の季節に、その恵みをたっぷりと受けたお陰で、次の季節に向け、青々とした葉を力強く繁らせている。
「本来、唐錦とは、中国の絹織物のことでしたね。」
公賢が、「えぇ」と頷いた。
「転じて、紅葉に染まり、錦のごとく美しい山々のことを指します。」
「山は、唐錦というには、まだ、早いですね・・・あっ。」
千鶴は、すっと、釣殿の外に手を出した。
「雨です。」
掌に、ポツリと雫。
頭を外に出して、空を仰ぐ。ゆらゆらと動く雲間に、力強い太陽の光。
「こんなに晴れてるのに。」
おめでたい日に雨だなんて、と残念そうに呟くと、
「狐の嫁入り、ですね。」
「狐の嫁入り?」
「お天気雨のことですよ。」
公賢も、空を眺めている。
「晴れているのに雨が降る日は、どこかで、狐の嫁入り行列が通っている、という言い伝えがあります。」
「唐錦の君は、出仕するだけで、入内するわけではありませんよ。」
「そうでしたね。」
公賢が、脇息に寄りかかったまま、気だるそうに、手を伸ばして、盆の上の最後の干し柿を取った。
めくれあがった着物の袖口から、白い肌が覗いた。
「幸せになれますかね?」
唐錦の君は。
公賢が、口に放り込もうとしていた手を止めた。
「さぁ。」
穏やかに微笑む。
そして、洗練された雅な所作で、干し柿にかじりついた。
千鶴は、小さな小さな雨粒を降らす、明るい空を見上げた。
「なれるといい、と思います。」
どうか、この雨が、彼女の幸せを願う、喜びの涙でありますように。
この数年後、唐錦の君こと花山院経子が、後鳥羽天皇の皇子である親王の妃となったのは、このときの千鶴には、知る由もないことであった。
これにて2章は一旦、完結です。
唐錦こと花山院家の姫については、詳細不明ですが、この物語の名では、フィクションとして、ハッピーエンドでいてほしいな、と。
今週、来週で、本編から弾いてしまった菊鶴視点の部分を補足として、それと二章登場人物一覧を投稿予定です。
お読みいただいた皆様のおかげで、二章完結いたしました。お付き合いいただき、ありがとうございました!