38 月詠む真実1
鏡池の前で、唐錦は、「月詠の鏡」なるものの話と、千鶴がそれを探していたことを、初めて知らされた。
月詠の鏡とは、信太の森の鏡池。満月の晩にのみ、その光を集めて輝き、真実を映す鏡となる。
ただし、優れた術者がいなければ、扱うことは出来ず、安倍家の陰陽師の中で、稀に、術を行うに値する資質を持ったものが産まれる。
安倍晴明はもちろん、清明の父である保名も術者であり、月詠の鏡を発現させることができたそうだ。そして、保名は、晴明の母である狐 葛の葉と、この森で出会った。
その能力は、現世において、公賢に受け継がれていた。
「少し下がって。」
公賢に促され、皆が池から距離をとる。
公賢が、一度、大きな深呼吸をして、九字を切った。唐錦は、公賢が術を行使するのを、初めて目の当たりにした。そういえば、公賢は、晴明の子孫だが、五芒星ではなく、九字を切るらしい。
改めて、この人のことは、何も知らないのだと気がつく。
公賢の唇が、何事か呟くように動くと、それまで、ただ月の光を反射していただけの鏡池が、内側から、青白く発光した。
まるで別世界への入り口のように、幻想的な光。
「さぁ、これで、月詠の鏡は現れました。」
公賢が、ふぅと、一息ついて、振り返る。
それから、唐錦のほうに視線を向けると、
「こちらに来て、覗いてみなさい。貴女の真実を。」
千鶴と、他の三人の従者たちの目が一斉に唐錦に注がれる。
みんなが、唐錦の動き出すの待っている。
しかし、唐錦は、その場に立ちすくんだまま、動こうとはしなかった。
「あの・・・唐錦の姫君?」
千鶴が、遠慮がちに声をかけた。
「嫌です。」
唐錦が、きっぱりと首を横にふる。
「あの・・・」
「千鶴はやはり、嘲笑っていたのですね」
唐錦の口から、やるせない思いが、言葉となって溢れ落ちる。
「私の話を。下らぬこと、と。だから、この頭のおかしな女の目を覚ましてやろうとして、ここに連れてきたのでしょう?」
「そ・・・それは違います!」
千鶴が、慌てて否定した。
「違わぬではないか。」
自分が意図したよりも、言葉は強く飛んだ。
「思っているのだろう?私が阿呆なこと抜かしておると。だから、真実を映す鏡を見せようとしているのだろう?」
真実を映す鏡、と聞いたときから、嫌な予感があった。多分、自分に何かを見せるつもりなのだろう、と。
唐錦の言っていることを戯言だと思って、内心、馬鹿にしていたに違いない。
悔しい。悲しい。
彼女なら、信頼できると思い、打ち明けたのに。
「私は・・・」
言葉を重ねるほどに、千鶴への腹立たしさが増してきた。
「私の正体は狐。それで良いのだ。真実など、知りたくもない。」
「唐錦の君・・・!」
「私の父も母も狐。だから、私も狐。私は、人間の世界を手に入れんとする父と母の野望のために育てられた、狐姫。それが、全てだ。」
今まで、ずっと心に引っかかっていたこと。怖かったこと。それが、初めて、言葉となって、唐錦の中から溢れ出した。
そうだ。
父と母は、そのために私を育てた。
それでいい。
そのとき、
「いい加減に、しなさい。」
ピシャリ、と短く鋭い言葉が飛んできた。
「千鶴どのは、貴女を苦しめるためにやっているのではない。それが、本当に分からないのか?」
従者の一人、若い男だった。
「な・・・従者になぜ、そのような無礼を言われなくてはならないのだ?」
何か言い返そうとする男を、
「待ってください、惟任さま。」
と、千鶴が制した。
千鶴は、唐錦の真正面に立つ。背の高い彼女が、唐錦を上から見下ろす。と、次の瞬間、パンっと頬を叩かれていた。
「これで、目は覚めましたか?」
「なっ・・・」
唐錦は、自分の頬に手を当てた。腫れてはいない。そんなに強くはなかった。なのに、頬はジンと熱い。
「お父さまとお母さんの愛情を、そのように曲解なさらないでください。」
なぜか酷く哀しそうな目をしていた。
「唐錦の君、私は貴女の真実を暴いてやろうなどと考えたわけでは、ありません。それは確かに、心の底から信じたか、と問われれば、そんなことはありませんけど・・・それでも、馬鹿にしたり、嘲ったりするような気持ちは、微塵もありませんでした。」
嘘のない、真っ直ぐな視線。
「でも、私は、このまま、唐錦の君が公賢さまに嫁ぐことが幸せとは、思えませんでした。それを、心から望んでいる、とも。」
唐錦は、グッと言葉に詰まる。
「自分の選びたい真実のために、辻褄を合わせるのは、不幸でしか、ありませんよ。」
そうだ。千鶴は、とうに気づいていた。唐錦の中に、公賢を想う気持ちなどないこと。
そうであってほしいと願う道に、必死で添わせようようとしていたことを。
「あ・・・あの。」
先程とは違う、年嵩のいった従者が口を開いた。それを、公賢が、片手を上げて制し、
「もういいでしょう?唐錦の君。」
と、呼び掛けた。
「私は貴女を妻にするつもりはありませんし、いい加減、貴女は真実を知らなければなりません。」
愛情の欠片もない、淡々とした物言いだった。
「そのために、月詠の鏡は、この上ないものです。これは、千鶴が貴女のために得たもの。何の縁も恩義もない、貴女のために、ただ一度の権利を差し出したのです。逃したら、二度と機会は巡ってこない。」
唐錦の心の中で激しく渦巻いていた抵抗の炎が、徐々に弱くなっていった。
縋るように、千鶴を見る。
千鶴は、何も答えない。何も答えず、ただ待っていた。唐錦が自分で決断するのを。
そうか。これは、伊予の命婦でも、千鶴でもない。私が決めなければならないこと。
自分で、踏み出さなければ、ならないこと。
目をつぶると、瞼の裏に、父と母の顔が浮かんだ。
私を愛し、慈しんでくれた。
私は今、そのことを、少しだけ・・・・本当に少しだけだけど、疑っている。
その答えを、私は、ちゃんと見つけないといけない。他ならぬ、私自身で。
心がしずまっていく。
覚悟が決まった。
ゆっくりと目を開けた。
千鶴が、優しく頷いた。
「ある姫君が言っていました。起こった出来事がどんなに残酷でも、その根底にある人の心が、全て、残酷であるとは限らない、と。」
唐錦の背にそっと千鶴の手が、添えられる。暖かい。
真っ直ぐな言葉は、唐錦の心にスッと入っきた。
「公賢さま。私に、月詠の鏡を使わせてください。」
「いいでしょう。」
公賢が薄い唇をすっと持ち上げ、微笑した。
唐錦は、公賢に指示された通り、鏡池の側に腰掛け、ゆっくりと青白く発光する水面を覗きこんだ。
顔が映った途端、狐の耳が現れるかと思ったが、そんなことはなかった。久しぶりに見る自分の顔が、水面を渡る風に合わせてゆらゆらと揺れている。
「もっと、鏡に顔を近づけて。」
言われた通りにすると、いつもの自分の顔が近く、大きくなった。
(これで、何か見えるのかしら?)
そう思った瞬間、目の前の自分の顔が、かき混ぜられたようにグニャリと歪んだ。
がくん、と身体ごと、何かに引き込まれる。
落ちていくような感覚。深く、深く。
しかし、次の瞬間、唐錦は深い森の中に、一人で立っていた。
「もとの森?」
いや、違う。
池はない。先程まで空で輝いていた満月も見えない。今は高く茂る木々の合間から、ちろちろと月の光が漏れている。
どこか別の場所の別の時。
突如、ザッザッザッザンッと、森のなかを大きな何かが、近づいてくる音がした。
音に続いて、焦げ茶色の塊が飛び出してくる。。
「狐っ!」
それも、特大の。
狐は、唐錦のことが見えていないようで、一瞥をくれることもなく、よろよろと横を通り抜ける。
(足を怪我しているんだわ。)
狐の後ろ足の一本が真っ赤に染まり、そこから、赤黒い血が、ポタリポタリと地面に落ちていく。
(かなりひどい怪我!)
狐は、右に左に揺れながら数歩歩いたところで、ドサッという大きな音とともに崩れ落ちた。
唐錦は、側にかけより、狐に触れようとしたが、背に当てた手は、空しく宙を切った。
(これは鏡が見せているだけの幻だから、触れないのね。)
仕方なく成り行きを見守っていると、先程よりも重い、ザンッザンッザンッと地を踏み草をかけ分ける音とともに、一人の若い男が現れた。
唐錦は、その男が誰なのか、一目でわかった。
(お父様!)
今より若いく痩せているが、唐錦の父、花山院忠経その人であった。
「こんなところで力尽きたか。」
忠経は狐に駆け寄り、傍らに座った。
狐は、大儀そうに頭を持ち上げ、忠経を見上げ、そして、そのまま目をつぶって、頭を下ろした。
忠経は、苦笑し、
「そのように諦めた目を向けるでない。助けてやると言っておるのに。」
自らの着物を破いて、腰につけた瓢箪から水をだし、狐の傷を拭った。
唐錦は、忠経が、狐の手当てをしているのを、じっと眺めていた。やはり忠経にも、唐錦の姿は見えないらしく、こちらを気にする様子は全くない。
よくよく観察すると、忠経の脇腹にも大きな傷がある。
その傷をじっと狐が見ていると、忠経も、その視線に気がついたらしく、「大したことない。」と、笑った。
「お前が崖から落ちなくて良かった。」
どうやら、この狐を庇って、怪我をしたらしい。
「さぁ、手当ては終わった。」
狐の足に布を巻きおえると忠経が、言った。
「直に歩けるようになる。そしたら、案内してくれるか?」
狐は、ペロペロと自分の足に巻かれた布を舐めていたが、やがて、身体を起こした。
着いてこい、とでも言いたげな目で、こちらを仰ぎ見てから、先程よりもしっかりとした足取りで、ゆっくりと歩き出した。
忠経も、その後について、歩き出した。
歩いていった先には、二匹の狐が、いた。
一匹は小さく丸まって、もう一匹はそれを守るように抱いている。母と子なのだろう。二匹とも怪我をしているようだが、子の方が怪我がひどそうに見える。
「これは!」
駆け寄った忠経は、先程と同じように、自らの着物を裂き、傷の手当てしてやった。
唐錦は、すぐそばで、その様子をじっと見ていた。すると、周りの景色の輪郭が徐々にぐにゃりと歪んでいく。
景色が消える。
と思ったら、次の瞬間、別の場所に立っていた。今度は町だ。
「そんなもの、持ってきても、私は食べられないのだよ。」
先程と同じ声。貴族の邸宅らしき屋敷の門の前で、忠経が、苦笑いしている。
「せめて、ウサギにしておくれ。」
声の先には、二匹の大きな狐。
さっき手当てをされていた狐だということは、すぐにわかった。
怪我は、もうすっかり治っている。先程の場面から、それなりの時間が経過しているのだろう。
忠経は、「困ったなぁ。」と頭を掻いて、
「私は、恩返しをしてもらうために狐を助けた訳じゃあないんだ。本当言うと、親切心からでもない。」
狐は、黙って小首を傾げている。
「子が産まれる前に、僧から言われたのさ。」
忠経が、狐と目の高さが合うように、腰を落とし、語り出した。
忠経が言うには、さる高僧に、安産を願う加持祈祷を依頼したところ、産まれる子は、無事に育つまい。
それを避けるならば、今すぐ森に行き、困っている動物を助けるように。さすれば、子は大きくなり、良き生涯を送れるであろう、とお告げがあったのだ。
「だから、お前たちを手当てしたのは、私の子の為なんだ。お陰で、私の子は安産であった。しかし、手当てのかいなく、お前たちの子は助けてあげることが出来なかった。」
忠経は、「すまない。」と、鼻の下を指でぐしゅんとかいた。
「だから、お前たちが、これ以上、私に恩を感じる必要はないんだよ。森に帰りなさい。」
子を亡くした二匹の狐は、しばらくの間、じっと忠経の目を見ていたが、やがて、踵を返して離れていった。
それと、同時に、また、場面が飛んだ。
今度も、都だが、場所が少し違う。
そして、もっと違うのは、今が火事のまっ最中だということだ。
あちらこちらから、火の手が上がり、白い煙がもうもうと立ち込めている。
都は、昔から火事が多い。木造の建物が、地区によっては密集しているので、火の手があがると、すぐに燃え広がってしまう。
人々は、火の手のない方へと、逃げていく。すでにあらかた避難は終わっているようで、走って逃げる人は少ない。道に突っ伏している人は、煙を吸ってしまったのか、元より逃げる体力がないのか、いずれにしても、もう助からないだろう。
これは実態のない、幻。唐錦には、煙の息苦しさは感じられなかったが、なんとなく嫌な感じがして、袖口で口を押さえた。
そこを、反対側から一人、煙の方に向かって走ってくる男がいた。忠経だ。
煙幕で、交差路の一つ先はもう見えぬ。
忠経は、涙を流しながら、もつれるように足を動かしている。
この煙の中を走ってきたのだ。すでに、肺は限界だろう。
「あや・・・子・・・きょう・・・子・・・」
何かに躓き、転んだ。しかし、立ち上がれない。
「経子・・・」
唐錦は、激しく咳き込みながら、己の名を呼ぶ男の側に駆け寄った。
「お父様。私です。経子は、ここにいます。」
しかし、当然ながら、その言葉は父に届かない。
「私の・・・ちぃひめ。助けな・・・ければ・・・」
「父様のちぃひめは、ここにいますよ!」
触れられないのを承知で、父の手に、自らの手を重ねる。
すると、父の手に力が入り、ピクリと動いた。
力を振り絞って、頭をもたげたかと思うと、何かを言おうと口を開けた。
しかし、言葉は出てこず、「ゴホッゴホッ」と激しく咳こんだ。
忠経は、むせ返りながら、一点を、じっと見つめた。
その視線の先には、一匹の狐がいた。
一人と一匹は、無言のまま、見つめあっている。
さほど長い時間ではない。
狐がわずかに頷いた。唐錦の目には、そう見えた。
と、思うと、忠経の身体から、力が抜けるのがわかった。どしゃっと崩れる。
「お父様!」
狐は、すでに駆け出していた。
父の側にいたい。けれど・・・。その心を抑えて、唐錦は、狐の跡を追った。
たぶん、これが真実だから。確かめなくてはいけないこと、だから。
ものすごく中途半端なところですが、来週月曜に続きます。
第二章は、あと2回で、一旦、区切りです。