37 月詠の鏡
「もう一つの本題とは、なんでしょうか?」
思い当たることがなく、ぽかんと首をひねった。
その様子を見て、公賢が珍しく、可笑しそうに口の端を上げた。
「貴女の探し物ですよ。」
「探し物?まさか!黒拍子ですか?」
「いえ。そちらではなく、もともと、貴女が唐錦のために探そうとしていたものです。」
千鶴は惟任と顔を見合わせた。
「月詠の鏡・・・ですか?」
公賢が、頷く。
なぜ、千鶴がそれを探していたことを知っているのか、と聞くのは愚問なのだろう。
この陰陽師は、都中に、大きな目と長い耳を張り巡らせている。
「公賢さまは、月詠の鏡をご存知なのですか?」
「えぇ。代々、我々、安倍の陰陽師が管理している物です。」
「安倍の陰陽師?」
「我が祖、安倍晴明もしかり。」
「では、その月詠の鏡の在り処も、ご存知というわけですか?」
「えぇ。知っていますよ。」
あっさりと答えた公賢だったが、だからといって、その場所を、そう簡単に教えてくれるとは、思えない。
「私と唐錦の君を、そこに連れていっていただくことは可能ですか?」
「お断りします。」
即答してから、「本来であれば。」と付け足した。
「月詠の鏡は、帝の所有。また、我が一族の秘法を用います。」
「秘法?」
「左様。使えるのは、呪術に長けた陰陽師のみ。現生では、私以外にいないでしょう。」
「公賢さまのみ・・・。」
「それを、何とか使わせていただくことは、出来ないのですか?」
惟任が、横から口を挟む。公賢は、扇の先を物の怪が封印された壺にむけた。
「今回、この働きへの報奨として、帝より、一度限りの使用許可をいただきました。」
「一度限り・・・。」
「左様。」
月詠の鏡の話を聞いたとき、考えたことがある。唐錦の真実を映せるのなら、自分のことも分かるのではないか、ということだ。
公賢は、黙ったまま、こちらを見ている。その目が答えを待っていた。
「さぁ、唐錦の君を連れていきますか?それとも、貴女だけで、行きますか?」と。
千鶴は苦笑した。
「公賢さまは、意地悪ですね。」
だから、さっきわざわざ聞いたのだ。菊鶴に拾われたことを、後悔しているか、と。
知ろうと思えば、知ることができるぞ、と。
「唐錦の君を連れていきます。案内してください。」
迷いはなかった。
ここで真実を知ったとしても、私の人生は、きっと何も変わらない。
父母はとうに死んでおり、今さら公卿には、戻れないし、白拍子としての自分は、貧乏だが結構、気楽で気に入っている。
父と母の菩提を弔うことが、できればいいなと、思っていたが、それでも、唐錦のような、思い悩む苦しみはない。
公賢は、「わかりました。」と、いつもの涼しげな目元を、少しだけ、柔らかく細めて、頷いた。
◇ ◇ ◇
「それでは、おやすみなさいませ。」
「えぇ、おやすみ。」
伊予の命婦は、紙燭の灯り消した後、唐錦の部屋から下がった。
灯りの消えた暗い部屋で、唐錦は、一人、ごろんと横になる。
あれ以来、千鶴からの連絡はない。首尾良くないのだろうか。
このところの唐錦は、横になると、先行きの不安ばかりが頭に浮かんで、寝つけない日が続いていた。
唐錦は、千鶴のことを思い浮かべた。
初めのうちは、たかが遊女と、見下していた唐錦だったが、話しているうちに、印象が変わった。
千鶴は、遊女のような淫靡な艶や仄暗さとは対極で、むしろ春の野をかける小鹿のように、清々しい。
手足は長く、しなやかで、顔は少年のように凛々しい。その目は真っすぐだ。
「いいなぁ。」
唐錦は、ふと、呟いた。
羨ましい。
まるで、千鶴は、自由の象徴のように、伸びやかだった。身分こそ唐錦のほうが格段に高いが、彼女には届かない魅力で溢れていた。
そのとき、カタン、と何かが外れる音がした。
唐錦は、ハッとして、起き上がる。
(格子が上がっている?)
几帳の向こうから、細く、月明かりが差し込んだ。かと思うと、人が押し入ってくる気配。
「だ・・・誰?」
唐錦は、震える声で聞いた。
「ひ・・・人を呼びます。」
唐錦は、未だ、男に寝所に入られたことはない。仮にも権大納言家の姫。さすがに、家に押し入るような不届き者はいなかった。
小柄な男の影が、俊敏に近づく。手足が震えた。
(怖い・・・!)
唐錦が、恐怖のあまり、叫び声をあげようとした、その瞬間。
「しっ!」
見覚えのある顔が、目の前で、人差し指を口元に、当てていた。その顔と姿に、驚き、凝視した。
「ち・・・ちづる・・・?その格好!?」
千鶴は、白拍子の装束ではなく、完全に男の格好をしていた。
千鶴は凛々しい目で、唐錦に、しっかりと頷いてみせた。
「行きましょう。公賢さまが待っています。」
「き・・・公賢さまが?」
突然の事態に、唐錦は狼狽えた。
「一緒に来てください。お見せしたいものがあるのです。」
「行く?どこに?」
「大丈夫。少し長旅になりますが、お父上の許可はもらっています。」
「し・・・しかし、伊予の命婦に・・・」
「いけません。」
千鶴が、手近な几帳にかかってきた袿を取って、唐錦にふわりと被せた。そして、そのまま、両足をかかえて、抱き上げられる。
「きゃあっ!」
驚いて、思わず、千鶴にしがみついた。
「あなたは、あの女房に影響を受けすぎる。あなただけで、行くのです。」
まるで、青年のように、唐錦を軽々と抱いている。
「表向きには、物忌みとなっております。飲食を断ち、潔斎しており、部屋から出ないことになっていますので、いなくなったとて、騒ぎになることはありません。」
唐錦が、千鶴を中納言邸の前で攫った時と同じ手だ。
こうして、半ば攫われるようにつれて来られた唐錦は、そのまま、牛車に乗せられた。
唐錦は、のんびりと進む牛車に揺られながら、物見から外を、眺めた。
今夜は天気がいい。夜空には、星が瞬き、一際明るい満月が、浮かんでいた。
唐錦は、その視線を、目立たぬように、ちらりと動かし、牛車に同席している男の様子を盗み見る。
唐錦の斜め向かいに胡座を組んで座っている安倍公賢は、目をつぶったまま腕を組んで、ピクリとも動かない。
てっきり、千鶴が上手く公賢に話をつけてくれたのかと思っていたが、一向に公賢から話を切り出す素振りはない。
「千鶴?千鶴??」
千鶴は、従者の格好で、牛車の横を歩いている。
唐錦が、物見から、外に呼び掛けると、すぐに「はい。」と返事が返ってきた。
「まだ、かかるのか?」
「はい。まだ、しばらくかかりますので、どうぞ、お寛ぎください。」
「どこまで行くのだ?」
「今は、お答えはできません。何卒、ご辛抱ください。」
唐錦は仕方なく、物見から目を離して座り直した。牛車の中は、斜めに向かい合う公賢と二人で、気詰まりだった。
そこに、千鶴の気遣うような声が、聞こえてきた。
「私は牛車の横に付いておりますので、何かあったら、呼んでください。」
「うむ。わかった。」
それから、どれくらい時間が経ったのだろうか。
牛車の中で、日が登り、その日が空高くを通って、今は西に傾きつつある。
途中、何度か休憩があり、食事もとった。
千鶴以外に3人の従者がいたが、唐錦が言葉を交わしたのは、千鶴だけだった。
同乗している公賢は、相変わらず、目を閉じ黙っているばかりで、何を考えているのか分からない。
せめて、千鶴が話し相手にでもなってくれればと思うのだが、外を歩いている彼女を、そんなことで呼ぶのは憚られる。
こうして、何もしない1日が、牛車の中で揺られながら終わろうとする頃、
「退屈ですか?」
唐錦は、突然、公賢から、声をかけられた。
壁にもたれて、うつらうつらとしていた唐錦は、ハッと背筋を正した。
「私と二人で、緊張したのでしょう?」
「いえ。そのようなことは。」
いつの間に目を開けたのか、公賢は、扇で口許を隠して、つり上がった細い目でこちらを見ていた。
(本当に、お噂通り、狐みたい。)
そういえば、自分はこの人と夫婦になろうとしていたのだった。なんだか、妙な気分だ。こうして改めて対座すると、とても現実的な考えではないように思えてきた。
すると公賢は、まるでその考えを読んだかように、
「どうぞ楽にしてください。私たちは、夫婦になるのですから。」
身体ごと、ずいっと、唐錦のほうへ近寄ってくる。
「え・・・えぇ、そのとおりですわね。」
いつの間に、その話が決まったのか。ついこの前まで、けんもほろろに断っていたくせに。
唐錦は、ごくりと唾を呑み込み、平静を装って答えた。
公賢の顔が、扇一つを隔てて、すぐ近くにある。
「あ・・・あの?」
「どうしましたか?」
公賢の手が伸びてきて、唐錦の頬にかかる髪をふわりとかきあげた。
切れ長の流し目が、ぞくりとするほどの色気を発している。
美しい。が、怖い。
震えだしそうになる身体を、ぎゅっと手で掴んで、抑える。
「私と夫婦になるのでしょう?目を反らさないで下さい。」
公賢の口許の扇がすっと、外された。
顕になった唇は、薄く、長い。いつか父と訪れた伏見稲荷で見た狐の像を思い出した。
「いいですね?」
公賢の口から漏れた吐息が、唐錦の唇にかかる。
公賢の唇が近づく。
夫婦になるのだ。これは当たり前のこと。
当たり前のことなんだ・・・けれど。
唇が触れるその瞬間、
「千鶴!千鶴!!」
気づいたら、顔を反らし、叫んでいた。
「千鶴!助けて!!」
牛車の後ろがカタンと空いた。
「公賢さま。」
呆れたような、少し怒っているような声。
「年若い者をからかうのは止してください。可哀想ですよ。」
「千鶴!!」
唐錦は千鶴に向かって這うように駆けた。それを千鶴が、両手で受け止め、背に腕を回して抱き止めた。
「なに。ちょっと、お灸を据えていたのですよ。」
公賢は、面倒くさそうに答えた。先程迫ってきたことなどなかったかのように、今は、気だるそうに壁にもたれて座っている。
少し着崩れた着物の袂から、白い肌が覗き、艶っぽい。しかし、だからといって、触れたいとは思わなかった。
「どうせ、千鶴が止めに来ると思っていましたから。」
千鶴が、わざとらしく大きなため息をついた。
「着きましたよ。」
唐錦と公賢に言う。
からかわれていたのだ。
あれほど、嫁ぎたいと喚いて迷惑をかけた自分の心の底を、見破られていた。
恥ずかしさと情けなさで、身体がカッと熱くなった。
◇ ◇ ◇
千鶴は、唐錦に手をかし、牛車から下ろしたやった。
ちょうど、日がくれる頃で、西の山あいには赤く大きな太陽。東はすでに群青から濃い青へと姿を変え始めていた。
「ここ・・・は?」
目の前に広がる鬱蒼とした森を目の当たりにした唐錦が聞いた。
「ここから先は、公賢さまについて、歩いてください。」
公賢について行けと言われた唐錦が、反射的に掴んでいた千鶴の着物を、キュッと強く握った。
先程、公賢にからかわれたのが、相当に効いているらしい。
「大丈夫です。私たちも着いていきますから。」
千鶴が言うと、公賢が楽しそうに笑う。
「ずいぶん嫌われたようです。」
公賢は、お灸を据えたつもりなのだろうが、唐錦が少し気の毒に感じた。
一行は、公賢を先頭に、森のなかを歩いた。公賢の後ろを歩く唐錦を手助けするために、そのすぐ後ろを千鶴が歩く。
日は完全に沈み、夜になったが、満月のおかげで、十分な月明かりに、恵まれた。
一刻ほど歩いたところで、先頭の公賢が、足を止めた。
「着きましたよ。」
木々が途切れ、開けた場所にでた。
「ここは、池・・・ですか?」
「信太の森の鏡池です。」
きょとんとする唐錦に、公賢が、今いる場所を告げた。
「そして、間もなく、今は空を覆っている雲が切れ、再び月が顔を出します。」
言うが早いか、まるで公賢の命を受けたかのように、頭上の雲がさーっと風で流れた。その後には、一際大きく、丸い月。
「今宵は望月。」
公賢が、後方に向け、軽く右手をあげた。
「そして、これが月詠の鏡です。」
その指の先には、満月の光を余すことなく水面に受け、宝玉のように青く輝く池があった。
満月の晩の信太の森の鏡池。
それが月詠の鏡の正体であった。