35 霧中の襲来
「千鶴どの。」
惟任の警戒を促すような、呼び声に、千鶴も、さっと、手を刀の柄にかけた。
ぞわり、と背筋が粟田つ。
「来る。」
叫んだ。と、同時に二人、バラバラに地面を蹴って、飛び上がった。
パンっと、乾いた音。つい今しがた、いた辺りに、黒くうねる影。千鶴の腕二本よりも太い。
「千鶴どの!」
白くけぶる霧の向こう、少し離れたところに、薄く惟任が見えた。
しかし、その姿は、すぐに霧に包みこまれた。
千鶴は、足を蹴って、再度、高く、後方に向けて飛びあがった。
(あれは、何―――?)
どこかに着地した。地面ではない。横にあった屋敷の板塀か何か。
黒い軟体のそれは、たちまちに、霧に隠れて見えなる。
(まさか黒拍子?)
いや、違う。
千鶴は、すぐに、頭をふった。
(あれは、ヒトではない。あれは・・・)
ーーーモノノケの類。
「千鶴どの。無事ですか?」
霧の中から、惟任の声が、聞こえた。
「はい。ここに!」
千鶴が、叫んだ。
音が不自然に反響している。方向が分からない。おそらく惟任も同じだろう。
ひゅん
風を切る音ともに、ふたたび、黒い触手のような何かが、千鶴目掛けてとんできた。
千鶴は、今度は、刀で受けた。
一太刀、二太刀。ぱんっと押し返す。
触手は、速いが、重くはない。
もう一太刀。
今度は前方に飛んでかわす。
空中で、真下を見ると、地面に黒く大きなナメクジのような固まりが動いているのが見えた。
触手の先が、その固まりに繋がっている。
(これが本体?)
前に惟任が、都に黒色の大きな正体不明のモノノケが出る、と話していたのを思い出した。
(逃げられるだろうか?)
大きいが、飛び越せないほどではない。
このまま、化け物の頭上を越して、反対に着地する。
その瞬間、突然、目の前に触手が現れた。
(さっきの触手とは、別のやつ。触手は、何本もある?)
身体をひねって、交わしたが、体勢が空中で大きく崩れた。そこに、間髪いれずに、もう一本。
千鶴の胸目掛けてきた触手。刺される。
「グゥッ」
胸のあたりに、ずくん、という重みと熱がじわりと広がった。
見ると、触手が千鶴から離れ、くねくねと縮こまっている。
千鶴は、くるりと一回転し、地面に降りた。
胸の辺りに、手をやる。
刺されていない。しかし、じわりと温かい。
首元から、ナンテンが、「ヒィヒィ」と喘ぎながら、冷や汗びっしょりに姿を現す。
懐に手をいれ、温もりの正体を探った。
「櫛・・・」
千鶴のお守りの櫛だった。公賢から肌身離さず持ち歩くようにいわれていたもの。
櫛は、ぼんやりと柔らかに発光している。その光に照らされたところから、霧が薄くなっていく。
「千鶴どの!!」
惟任が、千鶴を見つけ、黒い化け物から、背にかばうように立った。
「これは、黒拍子ではありません。おそらく、我々が追っていた例のモノノケ 。」
霧が薄くなり、全体が露になった。
巨大なナメクジのような、それは、ゆうに惟任の倍程の背丈があり、身体からは、六本の触手が生えていた。
前方から、後ろに向けて、なだらかに曲線を描き、尾の先は見えない。
モノノケは、その触手を、狙いをつけ、舌なめずりするかのように、くにゃりくにゃりと、揺らしている。
「なぜここに現れたのかは分からぬが、出会った以上は成敗させていただく!」
惟任の刃の切っ先が、鈍く光った。
「千鶴どのは、私の後ろへ」
ぐらぐらと揺れていと触手のうち一本が、惟任向かって飛んできた。
いや、違う。
惟任の頭越しに、千鶴目掛けて飛んできた。
それを、飛び上がった惟任が、凪ぎ払い、さらにモノノケに向かって、突っ込んで、大きく振りかぶる。渾身の一太刀を、触手の根本に、浴びさせた。
触手がどすんと、音を立てて地面に落ちた。転がりながら、炎天下で苦しむのミミズのように、グニャリグニャリとのたうち回る。
しかし、本体は、触手の一本など、全く意に介していないようで、間髪いれず、もう一本が、千鶴に向けて伸びてきた。
「テンっ、しっかり掴まってて!」
千鶴の力では、刀で払うのが精一杯。
しかも、二本、三本と、矢継ぎ早に来る。
惟任が、また、そのうちの一本を根本から切り落としたが、代わりの一本がさらに来る。
触手の狙いが、千鶴なのは、もはや明白であった。
「惟任さま。これは、私が狙いです。逃げて!」
「逃げるわけが・・・ないでしょう!!」
惟任が、四本のうち二本を、あっという間に切り落とした。
惟任が、再び、千鶴の前に背を向けて仁王立ちする。断固として近づかせまいとするかのように。
「腐っても武士。あなたを置いて、一人で逃げるくらいなら、死する方がマシ。」
眉は吊り上がり、睨みつける目は血走っている。仁王のように、全身から闘気が立ち上る。
ふぅ、ふぅと、肩が激しく上下している。かなり体力を消耗しているのだ。
「しかし・・・」
惟任は確かに強い。
が、それでも、倒せるかは分からない。先ほどより薄くなったとはいえ、相変わらずの霧で、まるで切り離されたような別空間にいるようで、外からの援護は期待出来そうにない。
「それに、この霧の中。逃げたとて、逃げ切れるかは、わかりません。ならば、倒して霧を晴らす方が得策。」
いつもニコニコしている惟任が、まるで別人のようだ。
「千鶴どの、残り二本の触手を、何とか防げますか?その間に、私が、本体を狙います。」
確かに、逃げたとて、この霧の外に出られるかは分からない。それなら、惟任の作戦に乗る方が正しいかもしれない。
「分かりました。」
千鶴の力では打ち倒せない。千鶴が囮となり、惟任に本体を任せる。倒すためには、そうするより他ない。
千鶴の返事を聞くと、すぐに、惟任は、向かってくる触手を左右に交わしながら、モノノケの本体に突っ込んだ。
千鶴を狙う触手は二本。
前後左右から、不規則に撃たれる触手を時に、交わし、時に、打ち返す。
そのうち一本が、ずしんと落ちた。惟任が切ったのだ。
これなら、何とか防げる!
地面を蹴って交わそうとした瞬間、破れた水干の隙間から、櫛とナンテンが転がり落ちた。
「あぁっ!」
咄嗟に、手を伸ばし、ナンテンを掴んだ。櫛を拾おうと、姿勢を低くした瞬間、見た。
ものすごい勢いで生えた、新たな触手が、千鶴目掛けて真っ直ぐに飛んで来るのを。
交わせない!!
今度こそ、やられる。
強い閃光。バケモノの姿が霞む。
反射的に目を閉じた。
ずしゃり、と身体が地面に投げ出される。全身を強く打った。
「うぐ・・・」
痛みと眩しさが収まった頃、身体を起こすと、そこには、
「よかった。無事のようですね。」
闇夜を背にした安倍公賢が、いつも通り、扇で口許を隠して立っていた。
「なかなか手こずりましたが、あなたのお陰で、捉えることが出来ました。」
そう言って振られた、その手には、片手に収まるくらいの小さな壺が握られていた。壺には、蓋があり、しっかりと閉じられている。
「公賢・・・さま?」