34 頭中将と惟任
千鶴は、いつものごとく、門番をしている下男に挨拶をして、藤原中納言邸の外門をくぐった。
先日、門の前で唐錦に拐かされたせいで尋ねることができなかった、その埋め合わせとして訪れていた。
急遽行けなくなった理由は、「物忌み」ということになっていたらしい。道中、不吉なことに出くわしたので、引き返し、1日家に籠るので、くれぐれも訪ねてこぬよう、手を回して伝えていたのだ。
たぶん、伊予の命婦の手筈だろう。
変に探させ、騒ぎが起きないようにするためだが、貴族らしく、信心深い中納言にとっては、効果てき面であった。
おかげで、非礼を詫びた千鶴に、「何を言う!物忌みならば、当たり前のことである。」と、気分を害することなくもなく受け入れられた。
千鶴が、すでに日の暮れた暗い道を一人、南に向けて歩いていると、中納言邸のほうに向かって、ゆっくりと歩く一台の牛車とすれ違った。
(こんな時間に珍しいな)
暗がりの道を、端に寄って、牛車を避けながら、懐のナンテンに、声をかける。
「今日も、斑の姫のところに寄っていくよ。」
ナンテンが、「了解」代わりに、「チュウ」と鳴いた。
月詠の鏡の手がかりは、未だない。
願わくば、斑の姫にもう少し、詳しく教えてもらおうと思っている。せめて、もう少し、手がかりがほしい。
(でも、必ず会えるとは、限らないんだよなぁ。)
牛車が通り過ぎてしまうと、千鶴は、半ば期待し、半ば駄目元で、再び社に向けて歩を進めた。
そのとき、ふいに、目の前の屋敷の屋根から飛び出る黒い影を見た。
(あっ!)
影は、屋根から、塀を飛び越え、隣の屋敷の屋根へと飛び移る。気づいた時には、千鶴は、走り出していた。
あれはーーー
「黒拍子!!」
「あっ、おい!千鶴っ!」
懐の中のナンテンが、ゴロゴロ転がりながら、呼びかける。
追いかけようと思ったのは、千鶴の生来持つ正義感とほんの少しの己の都合。阿漕に唆されたせいだ。
阿漕は、黒拍子を捕まえて、月詠の鏡のことを聞いてみたらどうか、と言っていた。
その時は、鶯とともに、一笑に付したが、今、目の前にいるならば。
捕まえて、何かが分かるかのかは、わからない。
でも、ひょっとしたら分かることがあるかもしれない。
こちらを警戒していないのか、黒拍子の動きは、さほど早くはない。
千鶴も、足なら自信がある。
(これなら、追いつける。)
消えた先を追い、角を曲がったところで、人と鉢合わせになった。
「うわっ!」
相手の胸板に、思いっきり顔面をぶつけた。
夜の都で、こういうときに出会う人は、なぜだか、いつも決まっている。千鶴は、鼻をさすりながら、面をあげる。
「惟任さま・・・」
曽我惟任。
剣の腕の立つ、謎の男。
人の良さそうな丸顔が、鼻を擦る千鶴を、心配そうに覗き込んでいる。
「千鶴どの。どうかされましたか?」
「今っ!そこに黒拍子が!」
説明するのも、もどかしく、鼻を抑えていない方の手で、かの泥棒が消えた方を指さして答えると、惟任の顔つきがサッと変わった。すぐに、千鶴の示したほうを振り仰ぎ、走り出す。
千鶴も、その後を追った。
「間違いなく黒拍子でしたか?」
「たぶん・・・。黒い人影が、屋根から、屋根へ飛び移って行ったので。こんな時間に、あのような動きをするものなど、他に考えられません。」
「あっちに行ったのですね?」
「はい。」
走りながら受け答えしていると、モゾモゾと、懐のナンテンが首元まで這い上がってきた。
「おい、千鶴っ!」
「テン!今は・・・!」
走っているので、危ない。
しかも、惟任がいる。惟任は、ナンテンの存在を知らない。
「隠れて。」
千鶴が、押し戻そうとした手のひらの指を、ナンテンが、かきわけ、抵抗する。
「やめろ!それどころじゃねぇ。」
ナンテンが、鼻をヒクヒクさせた。
「止まれ、千鶴。この先に、アイツが・・・」
そのとき、目の前の惟任が、突然、足を止めた。
千鶴も、急停止したせいで、ナンテンが、懐の中に転がり落ちた。
「惟任さま?」
何事かと、惟任の背の後ろからのぞき見た瞬間、その男と目があった。
男は、夜に煌煌と燃え盛る松明に囲まれ、堂々たる出で立ちで牛車から、降り立った。
千鶴は、端正に整った、その男の顔に、見覚えがあった。
「下がれ。無礼者が。」
その男、頭中将が、不遜に言う。
鶯を蛇に食わせようとした、あの青竹色の着物の男は、今日も上等な直衣を着ている。
惟任が、千鶴をスッと背に庇うように立ち、軽く頭を下げた。
と、同時に、千鶴にむけて小声で、「下がって、私のかげに。」と、素早く告げる。
「ん?」
頭中将は、目があったはずの千鶴の顔を素通りして、惟任の顔の上で視線を止めた。
「お前は、確か・・・」
「お久しゅうございます。頭中将、九条殿。」
今度は、深く頭を下げた。
千鶴の袖を引き、共に、面を伏せさせる。
「こんなところで、何をしている?」
「ちょっと、我が主から、言いつかった野暮用を。」
惟任が、少し面を上げて、答える。
頭中将が、「ふん。」と、冷たい鼻息を吐いた。
「右の飼い犬が。」
短く、投げつけるような言葉。
惟任は、聞こえぬふりをしているのか、頭を下げたまま、じっとやり過ごす。
頭中将は、すぐに視線を前にもどした。それきり、こちらを一瞥することもなく、目の前の屋敷の中に消えていった。
どうやら、千鶴の顔は覚えていないらしい。たぶん、庶民など、眼中にないのだ。
「ふぅ。行きました。」
身体を起こした惟任が、冷や汗でも拭うように、手の甲で額を擦った。
「惟任さま、今の方・・・?」
「頭中将ですよ。蔵人頭にして、左近衛中将。」
「左近衛・・・中将?」
官職の多くは、対になる「右」と「左」がある。例えば、左大臣と右大臣、左大将と右大将。
そして、近衛中将にも、左近衛中将と右近衛中将の二人がいた。
つまり、頭中将は、正確には、蔵人頭であり、「左近衛中将」なのである。
「名を。九条慶政。九条兼実殿の孫にあたる方です。」
九条兼実は、藤原家嫡流の五摂家の一つ、九条家の始祖たる人であった。太政大臣まで勤め上げており、ある一時代においては、間違いなく、最も影響力のある公卿の一人だった。
しかし、なぜ惟任がそんなことを、知っているのか。
「頭中将殿とお知り合い・・・なのですか?」
「知り合いと言うのとは、ちょっと違うのですが・・・まぁ。」
濁すように言ってから、
「あの方は、得体のしれない危険な男です。」
真剣な目で言った。
惟任が何者なのか、その正体を千鶴は、知らない。貴族ではないと思うが、千鶴のことさえ覚えていなかった頭中将に、顔を覚えられている。
しかも、惟任は、頭中将のもつ胡散臭さに気づいている。
「あの方の目には、底しれぬ野望が、宿っている。しかも、仄暗い。あまり、関わりに合いにならぬほうが、良いお人。」
惟任は、頭中将と千鶴の因縁を知っていたわけではない。しかし、あのとき、すぐに背に庇った。おかげで頭中将の興味が惟任に注がれ、まじまじと千鶴の顔を見られることはなかった。
惟任は、それほどに、頭中将を危険視している。
一体、この人は、何者なのだろう。
千鶴は、思い切って、先程、頭中将が残した捨て台詞について、尋ねてみた。
「あの・・・右の飼い犬、というのは、なんでしょうか?」
惟任は、少し答えに迷うように、顎の下をカリカリと掻いてから、
「実は、私の主が、右近衛中将に仕えているのです。」
「右近衛中将?」
はて、今、右中将には、誰がいただろうか。大将は左右1名だが、中将は、時期によって、2〜3人配備される。
入れ替わりも多く、千鶴程度では、付き合いの無い者は分からない。
「それより、」
惟任が、話題を変える。
「もう黒拍子を追うのは、難しそうですね。」
惟任が、黒拍子を追っていた方向の夜空に視線を向ける。
頭中将の牛車がいなくなり、人通りの途絶えた夜は、静かだった。
「えぇ。残念です。」
「まぁ、あれを捕らえるのは、検非違使の仕事。あとは、彼らに任せましょう。」
その言葉に、ふと思いついて聞いてみた。
「黒拍子を捕らえることは、できませんか?」
阿漕に言われたことが、頭にあった。
月詠の鏡を見つけたいのなら、いろんな屋敷に忍び込んでいる黒拍子を捕まえて聞けばいい。
そんな無茶な、と思ったが、どうせ駄目元。正体の知れぬ惟任なら、逆に何か知っているかもしれない。尋ねてみても損はない。
惟任は、面食らったような顔をして、
「黒拍子を捕らえる?なんで、また・・・」
「いえ。ちょっと、」
かい摘んで、月詠の鏡を探していることを打ち明ける。
惟任は、「うーん」と、渋面を作って、
「難しいと思いますが・・・。検非違使や近衛府でも苦労している。加えて、仮に、捕らえたとしても、黒拍子が、話してくれるとは、思えません。捕まえたら、速やかに検非違使に、引き渡す必要がありますが、その間に、拘束して、さらに必要な情報を吐かせるのは、私が協力したとしても、至難の技でしょう。」
「あ・・・いえ、惟任さまにお手伝いいただくつもりは・・・」
「でしたら、なおさら駄目、です。」
惟任は即答した。
「千鶴どのが、そのような、危ないことをされるのは、看過できません。」
いつもの優しい顔ではなく、眉間にしわを寄せた、険しい顔つき。口調も強い。
「えぇっと・・・」
「絶対に、危ないことはしないでください。いいですね?」
「あ、はい。」
迫力に、押され頷く。と、そのとき。
「オイ、千鶴。やばいぜ。」
突然、ナンテンが、懐から顔を出した。
「ナ・・・ナンテン!」
「なんですか?それは。」
慌てて、両手で覆いを作り、ぎょっと目を見開いた惟任から、ナンテンを隠そうとした。しかし、ナンテンは、その手を鼻で押しのけ、
「ヤバい、ヤバい!ヤバいやつが、来る!!」
喚声をあげると同時に、惟任が呟く。
「霧?」
短い単語に込められた、鋭い警戒心。
いつの間にか、辺りに濃い霧が立ち込め、二人と一匹の周りが、真っ白に囲まれていた。真っ白な空間のなか、自分たちだけが宙に浮いているようだ。
「いつの間に?」
戸惑う千鶴を、突然、惟任が押しのけた。
「危ない!」
「うぁっ!」
千鶴の悲鳴に、びゅぅっと風を切る音が重なる。
惟任が、剣を抜き、横一線に振り抜いていた。




