32 斑の姫の助言
斑の姫については、第一章の「登場人物一覧」をご覧ください。
夜中に目覚めた千鶴は、しばらく天井をぼぅっと見つめていた。夏の盛りは夜も暑い。一度、目が覚めてしまうと、再度、寝付くことはできそうにない。
隣を見れば、ナンテンが、身体を丸めて、ぐぅぐぅ鼾をかいている。夜行性だから、昼は眠くなるのだと言っていたくせに、最近は夜もよく眠る。
菊鶴は、数日前にでかけたまま、まだ帰ってこない。
千鶴は、ナンテンを起こさぬように、床を抜け出すと、一人、斑の姫の社まで出かけた。
夜中の社は、しんと静まり返っている。
社の階段に腰を降ろすと、心なし、ひやりと感じられた。
手近な草を毟って、口に当てる。ぷぅと息を吹きかけると、高く細い音色が、夜の闇に響いた。
千鶴は、草笛を吹きながら、あれこれと思考を巡らせた。
頭に浮かぶのは、もちろん、唐錦のことだ。
公賢からは、詮索無用と言われたが、あの気の強い姫のことが、気にかかっていた。
(自分自身と重ねている・・・のかな。)
千鶴は、菊鶴のことを思い浮かべた。
草笛を教えてくれたのも、菊鶴だ。
彼女とあちこち、放浪しているときに、幼い千鶴をあやすために吹いてくれた。
血が繋がっていなくとも、幼い千鶴を育ててくれた菊鶴は、親同然。
唐錦の君にとって、権大納言や母君はどのような存在なのだろう。
「きれいな音色ですね。」
思案にふけっていると、ふいに隣から声をかけられた。
驚いて振り向くと、いつの間に来たのか、単衣姿の斑の姫が、千鶴と並んで石段に座っていた。
「お久しぶりですね。」
斑の姫との再会は、あの火事の日以来だった。
ここには、何度も足を運んだが、会えたことがなかったのだ。
「青嵐の中将は、いかがですか?」
記憶の戻らぬ、姫の恋人について尋ねた。
斑の姫は、ゆっくりと首を左右に振った。
「変わりませぬ。」
悲壮感はない。
「悲しくないのですか?」
「私の生は、既に人のものとは違います。時は永く、ゆっくりと流れているのです。その最期までに、思い出してくれれば、それで良いのです。」
姫は、姫の時間で、待ち続けている。愛おしい人の記憶が戻るのを。
「それより、千鶴も何か悩み事があるようですね。」
千鶴は、話して良いものか、悩んだ。それを察した斑の姫が、優しく言う。
「案じることはない。私はヒトでは、ありません。俗世とは無縁。千鶴が、話をするのに、何の不都合がありましょうか。」
聡い人だ。
千鶴が、話しやすいように、水を向けてくれる。斑の姫の好意に甘え、千鶴は、権大納言の姫君、唐錦とその両親のことを話した。
「姫様、獣が人に化ける、ということは、よくあるのでしょうか。」
千鶴の問いかけに、斑の姫は、おどろくほど、すんなりと、「えぇ。ありますね。」と、頷いた。
「私自身も、今は人の姿をしてきるけれど、本来の姿は蛇なのですから。」
「でも、斑の姫さまは・・・」
怨霊の化身ですよね、と言おうとして、口をつぐんだ。本人相手に言うのは憚られる。
しかし、姫は、千鶴の言いたいことをすぐに察して、
「その狐が何者か分かりませんが、それだけ長く人の姿を保っていられるのですから、ただの獣とは思えません。モノノケの類いでしょう。」
私とおなじようにね、と、片目をつぶって微笑んだ。
「そもそも、狐は、稲荷神の使いとされ、もともと神とは非常に近い存在だと言われています。稲荷神を奉った社や祠というのは、多い。霊力を持った個体であれば、人に化けるのも、容易いでしょう。」
そういえば、確かに伏見稲荷にも、狐が祀ってあると聞いたことがある。
「そういう者たちは、何の目的で人のふりをするのでしょうか?」
斑の姫が「さぁ。」と首をかしげた。
「普通、そのようなことをするのは、恩返しか復讐ですが・・・」
「復讐、というのは、なんだかピンと来ません。」
千鶴は、唐錦の君と父の権大納言との会話を思い浮かべた。二人は、ごくごく普通の親子に見えた。
「私のように、元は人であった者が強い未練により獣として転生している可能性もあります。」
「強い未練・・・?」
「えぇ、例えば・・・唐錦の君の本当の親はどこにいるのでしょう?」
「唐錦の本当の・・・両親?」
千鶴は、今まで、そのことについて、全く考えていなかった自分に気がつき、驚愕する。
「確かに・・・唐錦の君と権大納言の血が繋がっていないのだとしたら、本物の親がどこかにいるはずですよね?」
千鶴が、「なんで、そのことを考えなかったんだろう?」と、ぽつりと言と、
「千鶴」
斑の姫は、優しく、千鶴の頭に手を置いて、
「あなた自身が、そのことを考えるのを避けていたのではないですか?」
斑の姫に指摘され、ハッとした。
千鶴を育ててくれた菊鶴も、本当の親ではない。
千鶴は、孤児だった。
それが、先日、ふいに、公賢から、家族のことを示唆された。
本当の自分は何者なのか、知りたい。でも、知るのが怖い。
その度に、菊鶴の顔が浮かんだ。
私を育ててくれた人。
彼女を悲しませることは、したくないし、できれば、喜ばせてやりたい、と思う。藤原中納言から妾の話を受けたときも、菊鶴のことを一番に考えた。彼女のためになるかどうか。
でも、それと同時に、別の欲求が沸き上がってきている。
自分がどこの何者なのか知りたい。
そう思うことは、菊鶴を傷つけるだろうか。彼女への裏切りになるだろうか。
「私は、唐錦の君の気持ち、少し分かるような気がします。」
斑の姫は、黙って続きを促した。
「本当のことを知るのは怖い。今、育ててくれた人のことを、とても、愛しているから。」
千鶴は、心のうちに浮かんだことを、形にとって、掬い上げるように言葉にする。
「唐錦の君の心は、こうであって欲しいと願う方に向かって、走っております。それしか、見えないし、見たくない。それが、例え現実とは違っていても。」
唐錦は、権大納言と、本物の親子でありたかった。だから、全ての行動は、そうであると決めつけて、辻褄を合わせようとしている。
「公賢さまは、唐錦に何をするのでしょう?私は・・・できたら、唐錦の君が傷付かないといいなと思います。」
「千鶴は、真っすぐで、優しいですね。」
斑の姫の言葉が、心に優しく染み込む。
「世の人は、真実とは、皆、残酷なものだの言います。本当のことは大抵、知らない方がいいことなのだ、と。」
斑の姫の身体には、生まれつきひどい痣がある。そのことで、沢山傷ついてきた。残酷な仕打ちもあった。世の辛いところも、苦しいところも、たくさん味わった人。
「でもね、私は、思うのです。真実は、必ずしも、皆が言うほど残酷ではない、と。」
しなやかな強さを感じさせる笑顔だった。
「どんなに辛いことでも、必ずどこかに救いがあります。」
今が、私にとっての救いであるようにね、と小さな声で付け足した。
「姫様・・・。」
もう、誰も姫のことを憐れむ人はいない。誰からも見向きもされず、けれども、心のうちに正直に、愛する人に愛を与えることができる生。
千鶴は、斑の姫の透き通るほど白い横顔をじっと眺めた。顔には、アザどころか、シミ一つない。
斑の姫は、おもむろに立ち上がった。
「さて、直に夜が明けてきます。もういかなくては。」
「もう、そんな時間ですか?」
驚き、東の空に目を向けた。山の端を覆う夜の闇が、深い黒から、徐々に紺青色になりつつあった。
「夜の短い季節ですからね。間もなく明けの一番鶏が鳴き始めるでしょう。昼間にこの姿を保つのは、とても力がいるのです。日の登る前に、元の姿に戻らなくては。」
「また・・・来ていいですか?」
斑の姫は、「えぇ。もちろん。」と首を縦にふってから、「そういえば・・・」と、何かを考えるように傾げた。
「昔、真実を写す鏡がある、と聞いたことがあります。」
「真実を写す鏡?」
「えぇ。神が天からこの地に下るとき、実は、八咫鏡と共に地上に持ち込まれた、鏡がもう一つある、と。」
八咫鏡は、天上の神が地上に降りるときに、持ってきたもので、歴代の帝が継承する三種の神器の一つだ。
「八咫鏡とともに持ち込まれた、もう一つの鏡。その鏡の名は、確か・・・」
斑の姫のは、頭の中から、その何かを探そうと、額に手を添え、一生懸命、考える。
その間にも、空は東から徐々に、黒から紺へ、紺から青へと色を変えている。闇の中で光っていた痩せた月が、空の白さに取り込まれていく。
闇が消えるのと比例して、徐々に斑の姫の白い身体が、透き通り始めた。
「姫様!姿が・・・」
姫の身体から、何かが蒸発するように煙が立ち始めた。大丈夫なのだろうか。
「日が登ります。月が消えそうです。」
「月が・・・そうでした!」
斑の姫が、ぽんと、一つ手を叩き、
「その鏡の名は、月詠の鏡。」
告げると同時に、斑の姫の姿が消えた。
代わりに、ざざざざーという、何かが、草むらを這う音が聞こえた。
斑の姫が元の蛇に戻って、通っていったのだ。
「び・・・びっくりした。」
千鶴はぺたんと社の石段に腰をおろした。服の左胸の辺りを掴み、
「なんて心臓に悪い。」
斑の姫の全身からは、蒸気のようなものが立ち上っていた。そのまま、消えてしまうのではないかと、動揺した。
ふぅ、と汗を拭い、落ち着きを取り戻した千鶴は、斑の姫が教えてくれたものを、改めて口にした。
「月詠の・・・鏡」
続きは明日。