30 唐錦4
唐錦は、左京三条にある安倍公賢の屋敷を尋ねた。
通常なら、まず、文や歌を送るの定石だ。
しかし、唐錦は、そのどちらもしなかった。
事前に文を出したりすれば、会ってもらえないかもしれない。返事を返してくれるかも疑わしい。だから、誰かに取り次いでもらうこともなく、単身、屋敷に乗り込んだのだ。
公賢は、一度は面会に応じてくれた。
それも、御簾や几帳ごしではない。
唐錦がそう頼んだのだ。顔を見てもらわないと意味がないから。
公賢は、高名な陰陽師。加えて、自身も狐の血をひいている。
噂通りの資質の持ち主ならば、顔をみれば、唐錦の正体に気づいてくれるに違いない。
しかし、予想に反して、公賢は、何の反応も示さなかった。
「先日、お父上からお伺いがあったことでしたら、」
こちらの用件をいうより先に、口火を切られた。
「すでにお断りを申し上げたはずですがね。」
「それは、存じ上げております。」
唐錦は、両手を膝の前に揃えて、「ですが、」と縋る。
「なんとか、お考え直しをお願い致したく。」
叩きこまれた優美な所作で、精いっぱいの心を込めて、頭を下げる。
まさか、結婚をしてくれと、懇願して頭を下げる日がくるなんて。あまりにも情けない話だが、私を安心して預けられるのはこの人しかいない。
公賢は、細い目をじっとこちらに向けていた。扇で口許を隠しているので、表情から思考を読み取るとは困難だ。
(反応なし。)
これはもう、自分で正体を明かすしかない。そう考え、
「実は、私の本当の姿は・・・」
語りかけた言葉は、公賢の「お顔をあげなさい」という台詞で遮られた。
「仮にも権大納言家の姫君が、私のような者に、そのような振る舞いをなさるな。お父上の名に傷がつきます。」
「ですが、私にはもう、これしか・・・」
「それに、そのようにされても、私の気持ちは変わりません。」
唐錦の思いを封じるがごとく、公賢が続ける。
「貴女にとっての幸せは、ここにはありません。今一度、お父上ともよく話し合って、考え直しなさい。」
唐錦は一切の反論も許されないまま、屋敷を出された。
それ以降、会いに行っても、一向に取り合ってもらえない。
せめて、自らの正体を明かし、その上で考え直してもらいたいと思っても、それを告げる機会さえ訪れないのだ。
公賢は言った。父と話し合え、と。
「話し合えるわけないじゃない。」
本音を伝えようとすれば、あのことに触れざるを得ない。
必然的に、父と母の正体を聞かされることになる。
唐錦は、それを聞くのが怖かった。
しばらくの間は、打つ手がなく、公賢の屋敷の前で牛車を停めて、何か妙案がないかと、じっと待っていた。
屋敷の前に停留していると、人の出入りがわかってくる。
公賢邸は、全くといっていいほど、貴族らしい者の出入りがない。それどころか、下働きの者もほとんどいない。
よく見かけるのは、唐錦が尋ねたときも案内してくれた、つり目の女房。それ以外に、時々、食物を運んでいるらしい下男がいるが、それくらいだ。
公賢自身も、ごくたまに宮中に殿上する以外は、外出していないように見える。
だからこそ、真っ白な水干に緋の袴を身につけた千鶴の姿は目を引いた。
千鶴、という名は、うちで使えているもの調べさせたら、すぐに判明した。白拍子だという。
千鶴は、公賢の屋敷の前に止まる唐錦の牛車を見つけたとき、遠慮するように踵を返しかけた。すると、中から、あのつり目の女房が出て来て、わざわざ案内して、迎え入れたのだ。
ということは、公賢から直に招かれている、と考えるのが妥当だろう。
どういう関係なのか。
そもそも、唐錦は、「白拍子」というのが、どういった存在なのか、よく知らなかった。
伊予の命婦に聞いたら、男装束を纏い、雅楽や拍子に合わせて唄や舞を踊る芸者だと教えられた。貴族の男たちの中には、白拍子を芸事として好むだけでなく、妾として囲うものもいるのだとか。
「唐錦の君とは格が違う。はしたなき女です。」
では、あの白拍子も、公賢どのの愛人なのか。
公賢に特定の女性がいるとは思わなかった。変わり者で、女性とは縁がないものだとばっかり、決めてかかっていた。
公賢と千鶴。二人が肩を並べる姿を、瞼の裏に思い浮かべた。
湧き上がる感情は、嫉妬---ではない。
(馬鹿にしてくれるな。)
私のことは、一見しただけで追い払い、以降、門を固く閉ざしている。にも拘わらず、あの賤の女には、お付きの女房自らで迎えに来る。
牛車の横を通る、あの女の顔を見た。眉が太く吊り上がり、その辺で、駆け回る男童みたいで、女らしさの欠片もない。とても、男の好きそうな顔とは思えなかった。
しかし、そんな女が、公賢に選ばれたのだ。きっと屋敷の中では、二人で嘲笑っているに違いない。
公賢どのに相手にされぬ、気位ばかり高い、滑稽な姫よ、と。
(気位が高いのは、私のせいではない。権大納言家の姫として振舞わなくてはならぬのだ。あの女のように、好きに生きられる身分ではないのだ。)
すぐに、伊予の命婦に、千鶴を連れてくるように命じた。
まさか誘拐してくるとは思わなかった。
いや、たぶん、自分の心の内に、それくらいのことをしても構わない、という気持ちがあったのだろう。
伊予の命婦は、それを察知して、やったのだ。
実際に、相対し、話してみると、千鶴は思っていたような人間とは少し違った。
あの時は、粗野な男のような女だと思ったが、正面から見ると、むしろ、少年のように整った凛々しい顔立ちといってよかった。唐錦を見つめる目はまっすぐで、正直だ。
頼ってみたい。
気づいたら、伊予の命婦の忠告を無視して、正体を明かしていた。
この人は、私の心の苦しみを分かってくれるのではないか。
私の、この苦しい気持ちを救ってくれるのではないか。
どうにもならぬ状況の中で、一瞬、一点の光のように感じた。
最初、難色を示していた千鶴は、やがて、折れた。私の正体を、公賢に明かしてくれる。
賭けだ。
私の出せる最後の手札。切り札にして、私について回る呪いの札。
私は公賢を自分のために利用しようとしている。
それでも、やはり、花山院家の娘として、家と自分を守るには、これが最良の一手だと思えた。
そう信じるからこそ、突き進むことができた。
唐錦は、見えぬ先行きを思い、空を眺めた。
上空には雨の季節特有の灰色の雲が、厚く垂れ込めていた。