25 鶯邸での噂話
「相変わらず、公賢さまに呼び出されておるのか?」
七条邸、いつもの簡素な部屋で、鶯が、楽しそうにコロコロと、笑った。
「使いっぱしりにされているのです。」
千鶴は、苦笑した。
公賢から頼まれたお使いを済ませ、約束通り、やってきてみれば、先に来ていたナンテンは、すでに鶯の膝の上で、ぐうぐう鼾をかいて寝ている。
千鶴と生活するようになって、昼間に起きている時間も増えたが、やはり元は夜行性。どうしたって、昼寝は必要らしい。
「あら、いいじゃないですか。望んでもめったにお会い出来ない方なんですよ。」
側に仕えている鶯の女房、阿漕が、「うらやましい」と感嘆した。
「めったに会えない・・・と言われましてもねぇ。」
頻繁に呼び出されている千鶴には、阿漕の羨望の眼差しにも、何のありがたみも感じない。
「私は羨ましいがのう。」
鶯がポツリと言った。
「自由にあちこち行ける千鶴が、心底羨ましい。」
「鶯の君さま・・・」
姉代わりのような阿漕が、痛ましげに名を呼んだ。
鶯の家は、裕福ではないが、貴族は貴族。
加えて、鶯の父は、鶯が庶民の娘のように気軽に出歩くのをよしとしない。
「本当に、今時、貴族なんて、なんの足しにもならんな。うちなんて、貧乏なばかりじゃ。」
鶯は、跳ねあげられた格子戸に、四角く切り取られた空を見上げた。ふぅーと、ため息をつく。
「鶯の君さま、そういうことは・・・。」
阿漕が嗜めたのを、ふんと鼻で嗤う。
「間違ってること、言っておらぬ。」
実際、鶯の言っていることは一理ある。
ここ数年、京は続く災害に、苦しめられている。二度の大火に、飢饉、竜巻。さらに、平清盛による遷都で、貴族たちは半年の間に、福原と京を往復した。
京の貴族たちの懐事情は、正直、厳しい。
飢饉のときなど、みんなこぞって着物を売り、食べ物を求めた。それでも、腹を満たすことができずに、行きだおれたものもいる。
今は、食料事情は落ち着いているが、それでもかつての華やかな宮廷文化など、過ぎ去った過去だった。
加えて、平清盛の出来以降、旧来、力を持っていた公家たちに取って代わり、武力を持ったものたち、すなわち武士が、政治に干渉し始めていた。
源頼朝が、征夷大将軍の役を得て、鎌倉に居を構えてから、その傾向は、より顕著になってきている。彼らは、何代も祖を辿れば、貴族や帝の血筋に当たるが、少なくとも、何年もの間、政治的には日陰者であった。
古くから権力を持ってきた公家や貴族たちの中には、それを良しとしない者たちも数多おり、宮廷では今も、影に日向に、日夜、権力闘争や駆け引きが繰り広げられている。
その波の中で、泳ぎ切る体力のない貴族たちは、確実に疲弊の色が見え始めていた。
現に、鶯の家も、経済的な余裕はあまりない。それは、家の傷みや、着物を見れば分かる。
針子の才のある鶯が、内職のように、幾分かの仕立ての頼まれ仕事をして、家計を下支えしているらしい。
彼女の針子の腕前は、なかなかで、以前、千鶴も白拍子の衣装を作ってもらった。
「我が家の惨状では、昨今、流行りの黒拍子も、うちには来るまい。」
「黒拍子?」
聞きなれぬ単語に、思わず聞き返すと、阿漕が目を爛々と輝かせ、
「おや、ご存じありませんか?」
千鶴は、首を横にふる。
「聞いたことないですね。白拍子のような名ですけれど・・・」
「今、都で噂の泥棒ですわ。貴族の、それも金持ちの家しか狙わない、とか。なんでも、庶民たちの間では、義賊とも言われていたのですが・・・」
「こそ泥じゃ。」
鶯が阿漕の言葉を強く遮った。
「あら!そんなことは、ありませんよ!大規模な荘園を持つような家しか被害にあっていないのですから!まぁ、あの件はありましたけど・・・」
「家に侵入して、物を盗んだら、どれだけ綺麗事並べても泥棒じゃ。」
「あの件?」
阿漕が言いかけ、鶯が遮ったことを、千鶴が尋ねると、鶯は阿漕と顔を見合わせた。
鶯が、千鶴に、近くに来るよう手招きする。そろそろと近寄ると、耳元に口をつけ、周囲を憚るように、声を落とした。
「黒拍子とやらは、内裏の宝物庫に忍び込んだのだ。」
「内裏のっ?!」
「しぃっ!声が大きい。」
阿漕も声を潜め、
「この情報は極秘扱いですわ。まさか帝のいらっしゃる内裏に忍び込まれたとあっては、いくら大事なくとも、近衛省の面目丸潰れですからね。」
「まぁ、人の口に戸は立てられぬ。所詮は、私らの耳に入る程度の極秘情報だが。」
しかし、だからといって、やはり話すのは憚られる内容だ。
「何か盗まれたのですか?」
「いや。父が事後処理に駆り出されておったが、何も盗まれてはいないようだと。」
盗まれなかったから良いというわけではあるまい。忍び込まれたこと自体が大問題なのだ。
内裏の宝物庫ならば、管理は蔵人頭だろうか。警備は近衛府。
その二つの役職を兼任する者がいる。
頭中将。
先日、鶯の縁談騒動のときに見た、端正な顔立ちの青竹色の着物の男。蔵人頭であり、近衛中将。整った顔に恐ろしいほどよく似合う、怜悧な瞳をしていた。
(そんなドジを踏むような男には見えなかったけど・・・。)
鶯が、いつも通りの声に戻って苦笑いする。
「まぁ、そういうわけで、いずれにしても、さすがの黒拍子もうちには来ぬ、と言ったのじゃ。うちの牛車をみれば、財などないのは、一目瞭然だからの。」
鶯の家の牛車は、あの家出の晩に見た一台だけだ。
あの晩は、闇にまぎれるために、壁面に黒炭を塗っていたが、その炭をきれいに洗い流して尚、お世辞にも、きらびやかな牛車とは言い難い。
黒拍子の標的になりそうなほど豪華な牛車、と聞くと、自然、昼間に公賢の屋敷の前で見た、あの車が思い出された。
「そういえば、鶯の君は、権大納言家の姫君をご存知ですか?」
ふと、尋ねてみると、鶯より先に、阿漕が興奮して、黄色い声を上げた。
「まぁ!権大納言家の姫君ですって?千鶴さま、お知り合いなのですか?」
その食って掛からんばかりの勢いに面食らった千鶴が、おずおずと尋ねた。
「あの・・・有名なのですか?」
「それは、もう!たいそう美しいかただと!」
鶯に横目で睨まれ、「申し訳ありません。」と謝る。
「すまぬ。阿漕は、噂好きな、浮ついたところがあるのじゃ。」
女房としては、やや軽薄にうつるので、鶯は快く思っていないらしい。まぁ、千鶴など、女房というのは、概して噂好きだと思っている。
「確かに、権代納言の姫君は、見目華やかで美しい方だ、と言われておる。唐物の錦のごとく美しい、と言われており、唐錦の姫君と呼ばれている。」
「あら、それだけではないのですよ。」
堪えきれなくなった阿漕が、口を挟んだ。
「詩歌や琴の才気があり、控えめな心根をお持ち。万事に優れた女人の鏡。なんでも、今生の紫の上、とも言われているんですのよ。」
「それは凄い。紫の上とは、また、大きく出ましたね。」
千鶴は、思わず、のけぞった。
芸事で生きる白拍子は、小説や語り物に詳しい。
当然、千鶴も紫の上を良く知っていた。何年も前に書かれた物語だが、今でも女たちの間では人気がある。
「まぁ、あくまで噂。」
鶯が、阿漕の過熱ぶりに、水をさし、平静を促す。
「めったに人前には、出ていらっしゃらない方だから、噂が噂を呼んでいるのかもしれぬ。私もお会いしたことはないしな。」
「深窓の令嬢、というわけですね。」
阿漕が、うずうずと、好奇心を堪えきれない様子で聞いた。
「それで、その唐錦の姫君がどうかされたのですか?」
「これ、阿漕。あまりそのようなことを聞くものでは・・・」
千鶴は、少し迷ったが、あれほど派手に屋敷の前に止めていたのだ。どうせすぐに人々の口の端に登るだろうと思い、教えてやる。
「実は今朝ほど、公賢さまの屋敷の前で、見かけたのです。」
「公賢さまの?」
千鶴は、公賢の屋敷の前で見かけた牛車とそこから覗く、大きな目の話を二人にしてやった。
「まぁ、公賢さまといえば、高位の貴族の方々と繋がりもあるのじゃろうが・・・」
鶯は、うーんと、首を捻って、
「それにしても意外だのう。」
鶯の話では、唐錦の姫君は、めったに表に出てこない方だ。
その唐錦が、公賢どのところで、まるで待ち伏せのようにしているとは。
「それも、わざわざ、人目を惹くような牛車で、というのが気になる。」
権大納言であれば、いくらでも身をやつすような車を用意できるはずだ。
それを、自家の豪勢な牛車で、待ち伏せのように張っていたのでは、まるで権大納言家の訪いを喧伝しているようなものだ。
「わかりました!!」
突如、阿漕が、「ご明察!」と言わんばかりに、人差し指を立てて、ズバリと言った。
「きっと、唐錦の君は、公賢どのと恋仲なのです。」
千鶴と鶯は、肩から、ずるりと崩れ落ちる。
「こ・・・恋仲ですか?」
「絵物語の読みすぎじゃ。」
呆れる二人をよそに、阿漕は、口を尖らせ、反論した。
「いいえ!あれほど、表に出ない姫様がお一人で尋ねてくるなんて、よほど、強い思いがあったに違いありません。きっと、公賢さまに恋をして、その思いを抑えきれなくなり、ついに会いに行ったのです。」
阿漕は、完全に自分の妄想の世界に入り込み、頬に手を当て、うっとりとした目をしている。
「あぁ、なんて強いお心でしょう。芯の強い姫ぎみなんですね。二人はきっと、結ばれますわね!」
「落ち着くのじゃ、阿漕。千鶴の前じゃ。」
よほど、日ごろから物語の世界にでも毒されているのだろう。鶯は、苦笑いこそしていたが、慣れているらしい。
「あの・・・水を差すようで申し訳ありませんが、公賢さまは、お申し出の内容を断ったとおっしゃっていましたよ。」
「ほらみよ。結婚の申し込みなら、破談ぞ。」
「もう!なんですか!!」
阿漕が、つんと口を尖らせた。
「年頃の娘が二人揃って、恋の楽しみを理解しないだなんて。」
その熱のこもった物言いに、千鶴は、鶯と顔を見合わせて、思わず笑った。