2 闇夜の邂逅
2話目です。
千鶴が、中納言邸の門を出ると、すでにあたりは暗闇で覆われていた。昼間の長い季節とはいえ、やはり暮れてしまうと肌寒い。
千鶴は三条にある中納言邸から、南西に向けて歩を進めた。少し歩けば、すぐに高位の貴族たちの邸宅が集積している区域を抜ける。
ここより先は、闇が濃い。
帰り道の途中には、小さな社があった。四条を過ぎたあたり。都の真ん中を南北に貫く朱雀大路からは、やや外れたところにあたる。
いつも中納言邸から帰るときの習慣で、千鶴は、その社に立ち寄り、手を合わせて詣でた。
「ちょっとばかり、場所をお借りします。」
何を奉っているかも分からぬ小さな社だけれど、これも一応の礼儀。一声かけると、社の面前に据えられた石に衣装が汚れぬように、気を付けながら、腰掛けた。
その先の闇に目がなれるまでの間、ここで休息をとらせてもらおう。
千鶴は、ぼんやりと、闇夜を見つめながら、先程、言われた言葉を、頭の中で反芻した。
―――所詮、白拍子など、遊女が類。
その言葉を否定するつもりはない。
実際に、権力者の妾になっている者も数多いるし、それ目的で白拍子になる者も多い。
しかし、中納言 藤原某は、明らかな侮蔑を持って、この言葉を吐いた。
「藤原某」。某の名を、千鶴は知らない。
貴族の中には、呪詛に使われる、と言って、下の名を知られるのを嫌う者も多い。
それは、武力をもった者が出現し、かつてに比べ「呪い的なもの」に対する畏怖の念が薄くなっている、このご時世でさえ、一部の貴族たちが、頑として曲げない習性だ。
源頼朝公が、鎌倉に拠点を構えて、はや幾年。
政治の実権は少しずつ、だが、確実に京から離れつつある。それは、一庶民にしか過ぎない千鶴でさえも、肌で感じるほどに、露になりつつあった。
しかし、多くの公家たちは、その事実をすんなりと受け入れてはいない。
彼らにとって、帝と高位の貴族たちに支えられた何百年という治世は、絶対であり、その栄華を捨てることはできない。川の水が上から下へと流れるがごとく、抗うことの出来ない変化を、彼らの多くは、受け入れられずにいた。
それでも、今日、舞の褒美に賜った狩衣(着物の一種)は、中納言邸の厳しい台所事情を如実に物語っていた。布地の質も縫い目も、最初の頃に受け取っていたものに比べると、明らかに拙劣なものになっている。
現実は苦しくとも、貴族としての矜持だけは、異常なほどに、高い。
だから、口が裂けても言わぬだろう。
師匠の菊鶴ごと生活の面倒をみる、と言った中納言家に、実際にそれができるほどの財力がない、などとは。
おそらく千鶴一人を囲うのがぎりぎりか、それすら危うい。
千鶴が頷きさえすれば、あとは適当なところで、約束を反故にして、菊鶴など、放り出してしまうつもりだろう。
遊女同然の白拍子風情には、それをしても何ら問題はない。
中納言 藤原某からは、そういう、歴とした蔑みの色を感じた。
「はぁ。」
千鶴は大きく一つ、ため息をついた。
考えを巡らせていると、こらえ様ない苛立ちが沸き上がってくる。
そろそろ行こうかと、立ち上がりかけた千鶴の頭の上に、ドサッと何かが落ちてきた。
「いたっ!!」
烏帽子がぐしゃりと潰れ、重みで、頭がガクンと垂れ下がった。
「なっ・・・何?」
頭に手を当てて、それを確かめようとすると、子供のような声が頭の上から降ってきた。
「助けてくれ。助けてくれ。」
「うわっ!しゃべった?!」
驚いた拍子に、頭の上のものが、ずり落ちそうになった。慌てて、捕まえると、ふわふわとした温かい触感がした。千鶴は、その何かを両手で捕まえると、包むこむようにして、抱き上げた。
(なんだろう?猫にしては小さい。)
落とさぬように慎重に、頭から下ろし、目の前に抱え上げる。
「追われているんだ。オイラ、捕まったら食べられちゃうんだよ。」
千鶴の両手に掴まれたそれは、目の前で、全身をジタバタさせている。暗くて全体はよく見えないが、南天の実のような赤い目が二つ、闇の中で光っていた。少し大きめのネズミ・・・だろうか?
「追われているって、誰に?」
「それは・・・、あっ!!」
小さな何かは、突然、悲鳴を上げると、千鶴の手を振りほどき、ちょろちょろと腕を伝って、懐に飛び込んできた。
「ひあっ!!」
懐の中で、震えながら、声を上げある。
「助けてくれ。オイラはいないって言ってくれ。」
「いないって・・・誰に?」
尋ねた千鶴の言葉を攫うように、ひぅっと、一陣の風が、闇夜を駆け抜けた。
空気が重く、冷たくなる。
「そこの白拍子。」
突如、話しかけられた千鶴は、ハッとして顔を上げた。
視線の先には、上等な着物に身を包んだ、背の高い、糸目の男が立っていた。口許は扇で隠している。
(いつ・・・現れた?)
今の今まで、周囲に人がいた気配など、微塵もなかった。
(それよりもこの人は・・・この世のヒト・・・なの?)
男の周りだけ、浮かび上がるように、ぽわりと仄白く光っている。にも拘わらず、その姿は闇夜に溶けてしまいそうなほどに儚く、まるで風に揺れる柳の葉のように、つかみどころのない存在に思えた。
「ここらに、何か、逃げ込んできませんでしたか?」
幻想的な男は、千鶴に向けて、妖しく微笑んだ。見ようによっては、この上もなく雅。
「何かって・・・」
「何か、です。」
男が、ちらりと、視線を下げた。千鶴の懐を気にするように。
千鶴の懐の中では、先ほどの獣が、ガクガクと震えている。
(この子に、害のあるようには思えないけど・・・。)
千鶴は、落ちつかせるように、そっと、懐を押さえ、トントンと優しく叩いた。
それから、決意をもって、面を向ける。
「さぁ。私は特に、何もみていませんが。」
念のため、刀の柄に手を伸ばした。その仕草には気づいたはずだが、男に動じる様子はなかった。極めて淡々と言葉を発する。
「何も?」
「はい。何も。」
強さの読めない、得体のしれない男だ。もし、いきなり襲いかかってきたら、勝てるだろうか。
しかし、男はそんな蛮行には及ばなかった。
「そうですか。」
涼やかな目元を、スッと細めて言った。
「それならいいでしょう。」
(納得した・・・のか?)
男は、ちらりと空を見上げた。
「じきに夜が更ける。」
一瞬、そのまま闇に溶けて消えてしまうのではないかと思ったが、実際には、そんなことはなかった。
「今宵は新月。闇夜は魔が差す。丑三つ時になる前に帰りなさい。」
それだけ言うと、男はくるりと踵をかえし、千鶴に背を向けた。
どうやら、見逃してくれるつもりらしい。千鶴の身体を縛っていた緊張が解け、刀の柄に込めた力を抜こうとした、その矢先、男の声が飛んできた。
「そうそう。懐のそれ。拾った以上は、責任もって飼いなさい。」
驚いて、男を見る。
しかし男の姿は、どこにも見当たらず、ただ暗闇だけが続いていた。
明日も2話投稿予定。