14 安倍公賢2
夕刻が終焉を告げ、薄い闇に覆われた公賢邸は、まるで、この世ではない場所のように蠱惑的な色彩を纏っていた。
広い庭は、何とも知れぬ明かりにぼんやりと照らされ、淡い黄色や群青、浅黄色の花が咲き乱れている。
庭の奥には屋敷の明かりが灯っており、そちらのほうから、背の高い男が一人が現れた。
「さて、鶯というのは、夜目が効かぬと思っていたが、こんな日暮れに迷い混んでくるとは、どうしたものか。」
低く落ち着いた、よく通る声。
「よう、いらした。」
口許を扇で隠し、優雅に振る舞うそのさまは、まるで天から舞い降りてきたかのような不思議な佇まいであった。
「鶯でも、必要とあらば、決死の覚悟で飛ぶのです。」
千鶴の横で、鶯の答える声がした。いつの間にか、千鶴の手を握っている。その手が少し震えていて、緊張しているのが分かった。
そのとき、ふと千鶴の鼻孔を、季節外れの花の香がくすぐった。
(これは・・・梅?)
いや、梅の時期はとっくに過ぎたはず。気のせいかと、くんくんと鼻を動かす。
「鶯には、梅がなくては。珍しい姫が、もっと珍しい客を連れて来たから吃驚して、梅が花開いたようですね。」
「まさか?!」
考えていることを見抜かれたことと、答えた内容の両方に驚いて、ぱっと視線を向けた瞬間、それまで薄暗くて判別のつかなかった公賢の顔を月明かりが照らした。
「あっ・・・」
まるで、一筆で描きあげたかのような、すっと吊り上がった切れ長の瞳。色白の細面の口許を扇で隠している。
千鶴は、その顔に見覚えがあった。
「あなたは、あの晩の・・・」
―――今宵は新月。闇夜は魔が差す。丑三つ時になる前に帰りなさい。
旧鼠が、千鶴の懐に逃げ込んできた、あの晩、出会った男の声と、目の前の男の声音がぴたりと重なった。
「また、会いましたな。」
千鶴は、とっさに懐に手を当てる。この小鼠は、ひどく、この男に怯えていたのだ。
鶯が、「公賢どのとお知り合いか?」と、怪訝な顔をしている。
警戒する千鶴に、公賢は、上品にふふふと笑いかけた。
「どうぞ、中へ。」
鶯と千鶴は顔を見合わせ、互いに頷いた。
左手を鶯、右手を懐に添えたまま、千鶴は、公賢の後に従った。
千鶴と鶯は、庭の池に張り出した簡素な部屋、釣殿に通された。
御簾も几帳も、なにもない。唯一間を隔てているのは、公賢が、口許を隠している扇だけだ。
公賢は、脇息(肘置き)に肘をおいて、この館の主らしく、楽に崩した姿勢で座っていた。
巷では、安部公賢は、晴明の血を引いているといわれている。そして、晴明の母は、狐というのも、これまた専らの噂であった。
改めて公賢の、特徴的なつり目の顔をまじまじと見ると、確かに、ヒトではない何かが、身体の内に巣くっているような、不気味さを感じさせた。
「さて、鶯の君。随分と面白いご友人ができましたな。」
公賢は、細い目を、さらにスッと細めて、千鶴と鶯を交互に眺めた。
「面白い・・・とは、どういう意味でしょう?」
千鶴が、おそるおそる尋ねた。公賢の視線は、まるで、観察されているようで、居心地の悪い。
公賢は、「ふむ。」と、一つ小さく頷いた。
「お二人は、陰陽道が、どんなものかご存じかな?」
千鶴と鶯が顔を見合せた。
「陰陽道とは、」公賢が、二人の答えを待つことなく、話を続ける。
「陰陽道とは、万事が相反する陰と陽から成るもの、と考えます。例えば、太陽が陽であるならば、月は陰。また、植物が陰であるなら、動物は陽といった具合に。そして、人は、男が陽でるならば、女は陰となる。しかし、」
公賢は、一旦、言葉を切って、「千鶴」と呼び掛けた。
「私の名・・・どうして?」
公賢は、その問いには答えず、
「白拍子であるあなたは、陰でありながら、男装という陽の仮面を被る。それが、まこと、面白い、と申したのです。」
「さすが、公賢どの。都中に、長い耳を張り巡らせているという噂は、伊達ではありませぬな。」
公賢は、鶯の言葉を、フッと目元を緩めた。肯定も否定もしない。
「当代一の実力と名高い陰陽師じゃ。」
「物騒なことをおっしゃいますな。」
今度は、ゆるゆると扇いでいた扇をぴたりと止めた。
「当代一は、陰陽頭である、わが従兄弟どのでしょう。私はただの傍流。役もなき、一介の陰陽師ですよ。」
陰陽頭とは、内務省 陰陽寮の長官にあたる役職だ。安倍晴明以降、その血筋のものが、代々その任に当たっていると聞く。しかし、今の発言からすると、公賢は、安部家の本流の血筋ではないらしい。
「ちまたでは、公賢どのは、安倍晴明の生まれ変わり。実力は、陰陽頭を凌ぐと言われておりますか?」
「あるいは、私が安倍晴明本人かもしれぬ、という話も。」
「まさか!ご冗談を!安倍晴明さまは、200年近くも前の人間ですよ?」
「冗談ですよ。」
思わず、声をあげた千鶴に、公賢は、飄々と答えた。
「つまり、人の噂など、当てにならない、ということです。」
薄い唇の左右の口角が僅かに上がる。
「しかし、公賢どのは、現に千鶴のことを知っていたではないですか。しかも、今日の格好では、千鶴が白拍子であることは、分からないはずです。」
「あ、それは・・・」
「その答えは簡単。前に、お会いしたことがあるのです。」
「前に?」
鶯が千鶴のほうに「本当か?」と視線で問いかけたので、千鶴は頷いた。
「数日前の晩に、朱雀大路でお会いしたのです。その時は、白拍子の格好でしたので。」
その通りだ。だが、名は告げていない。
「あの晩、あなたの元に逃げ込んだ鼠は、息災のようですね。」
公賢の目が、千鶴の着物の懐、ちょうど旧鼠が隠れているあたりを見て聞いた。
千鶴は、その視線から隠すように、ずっと胸元に手を当てていた。
旧鼠は、着物の中で、何度か姿勢を変えたようだが、あの晩のように震えてはいなかった。
それどころか、「出てきなさい。」という公賢の呼び掛けに、着物の袷の襟元から、ちょんと、頭を覗かせた。
「名はなんと、つけましたか?」
「名・・・ですか?」
千鶴は戸惑った。なぜ、公賢は、千鶴が、妖怪の鼠に名をつけているだなどと思ったのだろう。
それを察した公賢が、くいっと片方の眉をあげた。
「おや、名をつけていない?」
「ええっと・・・はい。」
「それは、いけませんな。責任もって飼うように、と言い置いたはずですが。」
千鶴は、あの晩のことを思い出す。確かに、公賢は、姿を消す直前、そのようなことを告げた。
公賢は、開いた扇の端で、旧鼠の鼻をちょんちょんとくすぐった。
「お前もいけないね。欲しいものは、ちゃんと欲しいと、ねだらないと。」
「べ・・・別にオイラ、名が欲しいだなんて・・・」
旧鼠が、ぷいっとそっぽを向いた。その様子を見て、千鶴は気づいた。
「あぁ。お前、名が欲しかったの?」
「だ・・・だから、オイラ、そんなこと、一言も・・・!」
旧鼠は、ぷるぷるの首をふって、着物の中に引っ込んだ。
「この鼠は、野良なのですよ。」
公賢が、当たり前のことを言う。
「鼠は、普通、野良でございましょう?」
鶯が、横から口を挟んだ。
「えぇ。普通は、ね。鼠も、物の怪たちも、ヒトに飼われたりは、しないものです。しかし、時として、稀に・・・でありますが、彼ら自身が主を求めることがある。千鶴、この旧鼠は、あの晩、あなたを主として求めたのですよ。」
「主?」
「そう。そしてそういう者たちは、一度、そう決めたら、あなたの側で、あなたとともにいたいのです。」
千鶴は、懐に手を突っ込んで、両手で、旧鼠を優しくくるんだ。
そういえば、「千鶴が、いなくなったと」やたら大騒ぎをしていた、と菊鶴が言っていた。なぜこんなに執着しているのかと不思議がったものだった。
「お前、私と一緒にいたかったの?」
旧鼠が南天の実のような真っ赤な目を、しゅんと、萎ませた。
「そうか。お前は、寂しかったんだね。」
この子は、ずっと一人だったのだろうか。
千鶴にも、師匠の菊鶴以外に家族と呼べる存在はいない。だから、誰かを求める気持ちは、少しだけ理解できる。
「ナンテン。」
ごく自然に、心のうちから沸き上がってきた名を口にした。
「お前の名は、その南天の実のように赤い瞳にちなんで、ナンテンにしよう。」
「良い名ですな。」
公賢が、満足げに頷いた。
ナンテンが、掴んでいた手を逃れ、腕から肩へとかけ上がって、千鶴の首の回りに、ちょろちょろと戯れた。
「くすぐったいよ。」
ナンテンが、千鶴の懐に収まり、場が落ち着くと、公賢が改めて、口火を切った。
「さて、夜も更けて来ました。あまり遅くなると困るでしょうから、そろそろ、本題に入りましょうか。」
扇を目一杯ひろげて、鶯に差し出した。
「拝見しましょう。」
短い一言だが、それだけで、公賢が、今日の訪問の意図を既に知っている、ということが分かる。
鶯は、帯の内側にしまってあった例の白と黄色の組紐を取り出し、公賢の扇の上に乗せた。扇の上に、ハラリと落ちた紐を見て、また、既視感が襲ってきた。
(今の・・・やはりどこかで見たような。)
千鶴は、記憶の底を掬い上げてまさぐったが、どうしても思い出せない。思い出せない、というのは、なんとも気持ちが悪いことだった。
公賢は、扇ごと自分のほうに引き寄せると、丁寧にその紐を持ち上げ、明かりに翳す。
「呪の痕跡がありますでしょう?」
鶯が、以前から見ていた夢の話と、その夢の中でこの紐を掴んだことをかいつまんで、説明した。
「どうか、わたくしを助けていただけませんか?」
鶯は、両手を床について、丁寧に頭を下げた。
「わたくしが、どうするべきか、ご示唆くださいませ。」
公賢は、また、ゆるゆると扇であおぐ。
釣殿には、壁となる格子がない。外からの涼風が、三人の間を渡っていく。宵の闇に、紙燭の灯りが揺れ、公賢の白い肌が浮かび上がっている。
そうして、しばらく、時が流れた。
突如、公賢が、ぱちん、と扇を閉じた。
「1つ、条件があります。」
「条件・・・ですか?」
鶯が、そろそろと頭を上げた。
「あなたたち二人は、互いに、本来持つべきものとは、別のものを持っていますね。」
「互いに・・・?」
「持つべきものとは、別のもの・・・で、ございますか?」
千鶴と鶯が顔を見合わせ、二人して頭をひねった。
公賢が、にこりと微笑んで、とん、とんと、自分の胸の辺りをついた。
「懐?」
「ナンテンのことではありませんよ、念のため。」
自らの懐に触れていた鶯が、尋ねた。
「櫛・・・でございますか?」
鶯の懐には、千鶴が貸した櫛があるはずだ。
そして、千鶴の懐にも、今日の昼に受け取った柘植の櫛がある。確かに、これは本来、千鶴のものではなかった。
公賢は、扇の先を千鶴から鶯に向けた。
「あなたのものが、鶯の君に。そして、」
再び、扇を千鶴のほうに戻す。
「千鶴、あなたの懐にあるものも、また、あなたのものではありませんね。」
「はい。先ほど、さる屋敷の女君から、褒美に賜ったものです。」
「それらは、いずれ、あるべきところに戻るでしょう。そして、あなたのものもまた、あなたの元へと戻ります。」
千鶴は、この縁談が破談となり決着がついたあかつきには、櫛を返すという約束を鶯と交わしている。ということは、公賢の言に従えば、この騒動は決着する、ということになる。それは、明るい兆しに思えた。
「そのときに、千鶴、あなたのものを、見せていただきたいのです。」
「私の櫛を・・・ですか?」
公賢が、優雅な仕草で頷いた。
「それは、構いませんが・・・。今、でなくてよろしいのですか?」
鶯にいえば、彼女は出してくれるだろう。
しかし、それを公賢は、「いえ。」と制した。
「今はやめておきましょう。それらには、それぞれ、役割があるようですから。」
続きは明日。
公賢が出てきたので、第1章はあと一週間で片が付きます。