13 安倍公賢1
家に着くと、旧鼠が、南天のような赤い瞳を、三角に吊り上げて待っていた。
「どこ行っていたんだよう!オイラが、眠っている間に。」
語気が荒い。どうやら、怒っているらしい。
「急な依頼があって、出掛けていたの。」
「さっきから、千鶴に置いてけぼりにされたって、おかんむりなのさ。」
菊鶴が、髪を繕いながら言った。
「何だって、その獣は、あんたにそんなに執着してるんだろうね。」
菊鶴の言葉には、千鶴も同感だった。
助けてやった恩義を返すと、律儀に奮起しているのは分かったが、勝手に住み着いて、妙になつかれてしまった感がある。
「だいたい、千鶴が昨晩、帰ってきてから、今の今まで、あんたが勝手に寝てたくせに。」
そうなのだ。
旧鼠は、夜行性といいつつ、昨晩から、ずっと眠りこけていたのだ。
「うるさい!うるさい!!あれは・・・何か変だったんだ!」
「変だった?」
「あぁ。千鶴と話をした少し後までは、確かに記憶にあるんだ。夜風の音もちゃんと覚えているし。だけど、そのあと、何だか甘い匂いがしたと思ったら、急に瞼が重くなって。」
「甘い匂い?」
千鶴は、はて昨晩そんな匂いがしただろうかと、首を傾げた。少なくとも、自分が感じとれるような甘い匂いは、しなかった。
「それで?結局、あの後、どうなったんだよ?」
旧鼠は、家で目を覚ますまでの間、何が起こったのか、事の顛末を全く知らぬらしい。
千鶴が話してやろうとすると、誰かが玄関で訪う声がした。
「今日は、なんだか客が多いねぇ。」
鏡に向かう菊鶴の代わって、千鶴が出ると、七条家の使いの翁が、なぜだか戸惑い顔で立っていた。
「七条の三の姫様には、結構なものをいただきまして。」
千鶴は、中に迎え入れると、真っ先に、鶯に頂戴した白拍子の衣装の礼を述べる。すると翁は首を横に振った。
「いえ。それは、いいのです。それより、実は、急ぎ、七条家にお越しいただきたく。」
「今からですか?」
もちろん、鶯には昨晩の首尾を報告しなければならない。
千鶴も、できれば今日中に伺うつもりであったが、思いのほか、謎の女君のお呼びが時間を食ってしまった。じきに日が暮れそうなうえ、先ほど、女君の屋敷を発つころから、夕霧が出始めていた。こういう視界の悪い日は、出歩かぬのが吉なのだ。
「明日の朝一番に、伺うつもりでおりましたが。」
「それでは遅いのです。」
翁は申し訳なさそうに、頭を掻いた。
「本来なら、千鶴どのが目覚めたら、すぐにお連れするつもりだったのです。それで、着物をお届けしてから、そのまま、あそこで休んで待っていたのですが・・・。」
翁は、家から見える位置にある。苔むした岩を指した。
「それが、お待ちしているうちに、眠り込んでしまったようで。」
千鶴は、ちらりと岩を見やる。
なるほど、そこには、人一人座るのにちょうどよい大きさの岩があった。
確かにあそこなら、通りから目に入りにくく、道行くものに、不審を抱かせることもないだろう。一方で、玄関からも死角になっていたので、女君の家に出かけていく千鶴も、翁がいたことに、ちっとも気がつかなかった。
「鶯の君から、必ず本日中に、お連れしてほしいとの申し出でしたので・・・。」
翁は、自らの失態を恥じ、身を震わせながら、深く頭を下げた。
その様子が、気の毒で、千鶴は、「わかりました。」とうなずく。
「それなら、早くした方が良さそうです。」
霧が濃くなっており、夜には雨になりそうだ。
翁を外に待たせ、千鶴は、小袖に着替えた。その懐に、旧鼠が、ぴょんともぐりこんできた。
「今度こそ、オイラも連れて行ってもらうからな!」
千鶴は、念のため、女君からもらった櫛も懐に入れ、翁とともに七条邸に向かった。
鶯は、前回同様、御簾も記帳もたてずに千鶴を待っていた。
「到着が遅くなりまして、申し訳ありません。」
翁の話によると、鶯は、今朝からずっと千鶴を待っていた。着物を届けたにもかかわらず、音沙汰なく待たせたとあれば、義理を欠いた振る舞いと思われただろう。
そう考え、開口一番、千鶴は頭を下げた。
「先刻は結構な着物を頂戴したにも拘わらず、このように参上が遅くなり・・・」
「なぜ、千鶴が頭を下げる?」
クリクリ目できょとんと見ていた鶯は、千鶴の言葉を遮ると、心底「わからぬ」と、首をかしげた。
「じぃが寝てしまったのであろう?本人がそう申していた。」
「いえ・・・あの・・・。」
「なれば、千鶴が謝るのは筋違い。」
どうやら鶯は、千鶴が遅れた事情をまるっとを承知しているらしい。
「元より人に頼んだこと。自分の思い通りにいかないからと言って、叱ったりはせぬ。」
そう言うと、鶯は、少し寂しそうに、格子戸の向こうの暮れかけた空を見あげた。
どこか物悲しさの滲むどんぐり眼に、西の空が反射した。霧は晴れてきていたが、湿度は高く、黄昏時の空は、水彩色の橙であった。
「貴族の娘というのは不便なものだ。自分が会いたい人にも、気軽に会いに行けぬ。」
それから、千鶴に向きなおり、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとう。」
「あ・・・あの?」
「じぃを庇ってくれたのであろう?」
面を上げた鶯は、先ほどの哀しげな顔ではなく、愛嬌たっぷりに笑っていた。こちらの意図はお通しだったか。
なるほど、この姫になら、正直に謝った方が得策だと、翁も分かっているはず。ちょっと変わっているけど、やはり、いい姫さまだ。
仕切り直した鶯は、改めて、わざわざ千鶴を呼んだわけを話した。
それは、昨晩の夢の話であった。
「いつもならば、全身を絞められ、苦しみの中で前覚ますのだが、昨夜の夢は、いつもと様子が違たのじゃ。」
鶯は、夢の中で、必死でもがいていた時に、目の端に映ったヒラヒラと、はためく紐を掴んだ。そして、その紐は、目を覚ました鶯の手の中に、しっかりと握られていた。
「これが、その紐じゃ。」
鶯は、傍らから、細長い紐を手に取って、すいっと千鶴のほうにさし出した。
「手に取って、拝見しても?」
鶯がうなずいたので、千鶴は、それに手を伸ばした。
「これは・・・」
細長い紐は、白色を基調とし、その中に混じる、あわい黄と紫。少し持ち上げて、光に当てると、白糸には、幾筋かの銀糸が編み込まれていることが分かる。
「組紐、ですね?」
鶯が頷いた。
「私に呪をかけていたものの痕跡だ。」
「女性の扇の端につける飾り・・・でしょうか?」
長さや色合いから、そう推理した。
その紐を手の中で弄んでいるうちに、ふいに、千鶴は強烈な既視感に襲われた。
(この紐を、どこかで見たことがある?)
いや、違う。紐そのもの、ではない。この配色をどこかで、それも、幾度となく目にしている気がする。
千鶴は、しばらく記憶をまさぐったが、どうにも思い出せそうにない。
諦めて、紐を鶯に返した。
「それで、私にどのようにせよ、と?」
まさか持ち主を探せというわけでも、あるまい。組紐ひとつでは、あまりにも手懸かりが少ない。
「私は、これから、この紐をある方のところに持っていこうと思っておる。その方ならば、この紐をどうするべきか、ご示唆いただけよう。」
「ある方、とは?」
鶯は、噛みしめるように一呼吸おいてから、その名を口にした。
「安倍公賢さまじゃ。」
「安倍・・・公賢さま?陰陽師の?」
「うむ。」
確か、安倍晴明の血をひくといわれている陰陽師だ。千鶴も名だけは聞いたことがあった。
近頃、力をもつ陰陽師が減ってきたと言われているが、その中にあって、公賢の霊力というのは桁外れに強いらしい。晴明の先祖返りと専らの噂であった。
しかし同時に、人嫌いで表舞台には出てこない、とも言われている。
「これから、この紐を持って、安部公賢どののところまで参ろうと思う。しかれば、千鶴には・・・」
「待ってください。」
千鶴は、鶯の言葉を遮った。
「私を呼んだわけが、読めました。まさか、ついてこい、ということでは・・・?」、
「あたりだ。」
鶯のにっこりとした笑顔に、千鶴は、頭を抱えた。
「直に日が暮れますよ。明日ではいけないのですか?」
「ダメだ。」
鶯は、きっぱりと首を横にふった。
「これは、昨晩の夢の中で捉えたもの。次の夢を見るまで、すなわち今日中に、公賢さまに、相談申し上げたい。」
鶯は、朝から千鶴を待っていた。到着が遅れたのは千鶴のせいではないが、責任を感じないわけではない。
「わかりました。」
千鶴は、仕方無しに、頷いた。もはや、全ては乗りかかった船なのだ。
「それで、牛車のご用意はいつできますか?」
「牛車ではない。」
「は?」
「牛車は、じぃがいないと動かせぬのだ。」
じぃ、すなわち下男の翁は、千鶴と鶯が出会ったあの晩、鶯のわがままに押されて、牛車で連れ出し、野盗に襲われるという凶事があってから、自らの責任を感じ、夜どころか、昼も一歩も外に出さぬ構えなのだそうだ。
「牛車じゃなければ、どうやって?」
「無論、徒歩で行く。」
鶯が、ふふんと、鼻息荒く答える。ピッと指を二本立て、
「私と千鶴の二人だけで参る。」
「危険では」、と言いかけたが、どちらにしろ二人だけで行くつもりなら、徒歩の方がいざというときに逃げやすい。
「ちなみに、私が断ったら、どうされますか?」
すると、鶯は、想定通りの答えを即答した。
「一人でいく。」
千鶴は、大きくため息をついて、項垂れた。やはり、答えはこれしかないのだ。
「・・・分かりました。お供しますよ。」
◇ ◇ ◇
二人はすぐに支度を整えると、乳母子の阿漕の手はずで、翁に見つからないように家を出た。
ちなみに、この阿漕、鶯付きで、信頼のおける女房なのだそうだ。
じぃこと翁がお目付け役兼お守りであるなら、阿漕は、姉のような存在で、どんなに苦言を呈しても、最後は絶対に味方になってくれる。鶯が悪夢をみるようになってからは、毎晩、側に控えてくれているらしく、今回のことを誰よりも親身になって心配している。
「すでに辺りは大分、暗いです。鶯の君さま、何卒、ご無事で。」
阿漕が、質素な壺装束に身を包んだ鶯に、市女笠を被せてやる。
「千鶴どのには、こちらを。」
阿漕が千鶴に差し出したのは、なんと、短めの刀であった。確かに、今日の千鶴は、刀を携行してこなかった。阿漕が、悪戯っぽく、片目をパチリとつぶる。
「じぃの予備ですわ。ちょっと拝借しましたの。」
さすが、鶯の女房だけあって、なかなか大胆な女だ。
「小型ですので、千鶴どのにも扱いやすいかと思います。どうぞ、護身用にお持ちください。」
「お借りします。」
千鶴は、礼を述べて、その刀を手に取った。なるほど、年老いた翁に合うように、小型に作られた刀は、軽く、確かに女の千鶴にも扱いやすそうだ。
「さ、急ごう。」
鶯に促されて、二人は、夕刻の都を、公賢の屋敷に向けて歩きだした。
公賢邸への道を、鶯は熟知しているらしい。少しの迷いもなく、歩いていく。
「普段、牛車に乗っているわりに、道にお詳しいのですね?」
嫌味ではなく、純粋な驚きから口にした。
「貴族の娘のくせに、と思うたか?」
「いえ、そのようなつもりでは・・・」
「昔、じぃに地図を、書いてもらった。その地図を眺めては、阿漕や翁にあれこれ尋ねるのだ。そう出歩くことが多いわけではないが、それでも、どこかに行くときには、牛車の物見から、実際の街を見て、地図を見比べるのだ。」
鶯は、行く手にまっすぐ視線を向けたまま、言った。
「本物を見ると、発見がいろいろとあって面白い。線の上では、大きく立派なお屋敷であったものが、実物は、朽ちて寂れていたり、逆に小さな邸宅かと思った家の庭や入り口が、思いの外、綺麗に整えられており、その家の主人の細やかな心遣いを感じることがある。」
「そうでしたか。」
千鶴は、そんなふうに街を見たことはなかった。最初から、ただ、見たとおりに、そこにあり、道に沿って歩くだけのものだった。
「本当は、自分の足で歩きたいのだが、父が赦してくれぬ。腐っても殿上人の誇りを失わぬ父上にとっては、貴族の娘らしからぬ振る舞いだからな。」
それは、この好奇心旺盛な姫にとってはひどくつまらないだろうな、と思った。
「さ、ここじゃ。」
鶯が、突然、足を止めた。
「え?ここ・・・でございますか?」
安倍晴明の血をひく陰陽師という触れ込みであったので、てっきり都の一番北端、一条まで行くのだと思っていたが、意外にも、ここは三条の東の外れであった。
ただし、場所こそ都の中心から、やや外れているが、その屋敷は、外から見ても相当に広い。
「して、どのように中に入れてもらうのでしょう?」
事前に訪いの先触れはしていない。人嫌いで有名な陰陽師は、先触れそのものを受け付けぬという噂であった。
二人の目前の門は、来客などお断りとばかりに、固くしっかりと閉じられている。
「声をかけて、中の者に聞こえるでしょうか?」
これだけのお屋敷だ。本来、門番をする下男がいるはずだが、全く人の気配を感じない。
鶯が、至極単純すぎる方法を口にした。
「よし、とりあえず、大声を出してみよう。」
「大声ですか?声が届くとは思えないのですが・・・。下手をしたら、人が集まって、不審なものと思われかねませんよ。」
「しかし、ここまで来たのじゃ。あきらめる訳にはいかぬ。」
鶯の決意はゆるぎない。千鶴は、諦めて肩をすくめた。
「仕方がありません。それならば、私が・・・」
仮にも貴族の娘に、そんなことをさせる訳にはいかない。変な噂にでもなれば、翁と阿漕も悲しむだろう。
千鶴が、大きく息をすいこみ、声を張り上げようとした、そのとき。
内側から、カタンと、鍵の外れる音がした。
千鶴は、大口を開けたまま、中から出てきた女房と目があった。
「どうぞ。中へ。」
女房が、流れるように美しい所作で、二人を中に誘う。千鶴は慌てて口を閉じて、鶯と視線を交わした。鶯が、力強く頷いたので、二人は中に入った。
続きは明日。
ようやく、あの人が出てきてくれます。