12 女君と瀬をはやみ
本日、2回目の投稿です。
蛙に連れられて訪れたのは、よく知った道であった。
千鶴は、習慣のように、そこで足を止めた。
「ここは・・・」
藤原中納言邸から帰るときに必ず通る道。小さな社があり、そこに参拝して帰るのが、習慣だ。
「お屋敷は、この裏です。」
今にも「げこ、げこ」と鳴き出しそうなほどに、嗄れた声で、蛙が言った。
(裏にお屋敷なんてあったっけ?)
このあたりは、朱雀大路より奥に足を踏み入れたことがない。
「こちらでございます。」
千鶴は、蛙が足を止めたお屋敷を見て、驚愕した。
まるで、左右大臣や大納言邸と言っても通りそうなほど、大きくて立派な屋敷だ。
「神社の裏に、こんな立派な屋敷があったなんて・・・」
蛙は、「女君」と言っていた。すると、有力者の娘か、縁者か。その方がこの屋敷の実質的な主人というなら、政治的な権力はあるまい。いくら立派な屋敷でも、内裏から離れているというのも、頷ける。
蛙が、門前で、千鶴を連れたことを告げると、左右の門が、寸分の音もたてず、滑らかに開いた。
「よう、お越しいただきました。」
玄関で女房が、深々と頭をさげて、出迎えてくれた。
よく教育された女房であるらしく、優雅な仕草で顔を上げる。その顔を目にした瞬間、千鶴は、ハタと足を止めた。
なぜなら、その顔は、今しがた案内してくれた男とそっくりであったから。
しかし、その疑念は、次の女房の一言でそうそうに、解けた。
「兄さまもご苦労様でございました。」
女房が、千鶴の隣に立っている蛙に、軽く会釈をする。蛙がそれに頷いた。
「うむ。あとは頼むぞ。」
「かしこまりまして。」
それにしても、そっくりな兄弟がいたものだ。
千鶴は、自分と血の繋がった肉親というものを見たことがない。視線一つで通じあっているかのような二人を見ていると、兄妹とは、このようなものなのかと、到底自分には理解できないような、不思議な心地になった。
「さ、どうぞこちらへ。」
千鶴は、女房の先導に従い、屋内に足を踏み入れた。
屋敷は、まだ比較的新しい。
庭に面した廊下を通って、女君の住まう部屋まで案内される。
廊下から見渡せる庭には、大きな池があった。その池の真ん中には小島があり、そこに朱塗りの橋が架かっている。
庭には初夏らしい、青々とした木と赤や黄の草花がゆったりと植えられており、中でも目を惹くのは、池のすぐそばの橘の木。濃い緑色の葉のなかで輝くような白い花が、ちょど旬を迎えて咲き誇っている。
手入れの行き届いた素晴らしい庭だった。
申し分無いほど、美しい屋敷と庭。
にも拘らず、千鶴はの心に何かが引っ掛かった。
この屋敷は、こんなに立派なのに、どこかちぐはぐな、落ち着かない印象を与える。この不安感は、どこからくるのだろう。
もしここに、旧鼠を連れてきていたら、この違和感の正体は、すぐに知れただろう。
しかし、かの鼠は、またもや、ぐうすかと眠り込んでいたので、置いてけぼりを食らっていた。
夜行性だと言いつつ、肝心な時には眠り込み、昼間は昼間で寝てばかり。とんだ怠惰な鼠である。
「どうぞ、こちらに。」
主室に通された千鶴は、女房に指示されるがままに、腰を下ろした。
目の前には、立派な御簾が、床すれすれまで垂れており、その向こうに、女人が一人、鎮座していた。
「白拍子の千鶴と申します。この度は、お呼びいただきまして、有り難く存じます。」
千鶴は、両手をついて、頭を下げた。
「面を上げよ。」
御簾のむこうの女主人が言った。ゆったりとした話し方。
「よう、いらしっしゃった。そちに会うのを楽しみにしておった。」
「ありがとうございます。」
御簾の向こうの顔は分からぬが、しゃんと伸ばした背から、凛とした雰囲気が漂っている。
千鶴は、床に指をついたまま、道中考えていた疑問を口にした。
「なぜ、私のようの名も知られておらぬ者にお声がけをいただいたのでしょう?」
「藤原中納言から聞き、是非一度、見たいと思っておったのじゃ。」
「左様でございましたか。」
藤原某中納言。
千鶴を妾に囲いたがるような、あの男が、他人に紹介するとは、意外であった。どちらかと言えば、気に入ったものを、奥に閉じ込めて、一人で愛でる質かと思っていたが、相手が女性であれば別、ということか。
(いや、私をダシにして、この方とお近づきになりたい、という線もありうるかな。)
千鶴は、御簾の向こうにいる、美しい声の主を、じっと見つめた。
中納言から紹介を受けたとなれば、かなり高位の貴族なのだろう。
昨今にしては、過ぎるほどに、華やかな、この屋敷は、いかにも中納言好みに思えた。まるで貴族政治が栄華を極めた、在りし日を彷彿とさせる。
(相手の正体を考えても仕方あるまい。)
「何か好みの演題はございますか?」
千鶴の問いかけに、女君は束の間、沈黙した。
しんとした主室の中で、ポツリ、と女君が言った。
「崇徳院は、ご存じか?」
「もちろん存じております。」
崇徳院は、およそ50年前の帝である。幼くして即位したが、宮中の政権争いに敗れ、讃岐に配流された。そして、その地で不遇の生涯を終えた。
歌への造詣が深く、取り分け有名な和歌がある。
「『瀬をはやみ』で、ございますね。」
御簾の向こうの、影が動く。女君が無言でうなずくのが、わかった。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
われても末に 逢はむとぞ思ふ
川を流れる水が、岩に当たって別れようとも、再び出会うように、今は離ればなれとなった愛しい貴女にも、必ずまた再開したいと願う。
激しい恋の歌である。
白拍子は、歌や今様すなわち流行歌などに節をつけ、吟唱しながら舞を行う。時には、そこに、即興で歌詞をのせることもあった。
千鶴は、頂いた題目の崇徳院の和歌に即して、詩を加え、節をつけ、吟じながら、広い部屋を存分に生かして、舞った。
舞を終えて、すでに一刻ほどたったころ、千鶴は、失礼を承知で、御簾の向こうに声をかけた。
「いかがでございましょうか?」
千鶴が踊っている時からずっと、御簾の奥から、すすり泣く声が聞こえていた。
千鶴は、正座をしたまま辛抱強く待った。さらに一刻が過ぎた頃、ようやく、女君の泣き声が止んだ。
「見事な舞・・・であった。」
「ありがとうございます。」
気丈な声の中に、少しの震えがある。
きっと、この女君は、愛おしい人と引き裂かれるような、悲しい恋をしているのだろう。
その慰みのために、千鶴を呼んだに違いない。
崇徳院のこの歌は、千鶴も好きだった。
まだ恋をしたことのない千鶴に、激しい恋情は分かない。しかし、別れてしまった人に、会いたいと願う気持ちは理解できた。千鶴にとっては、それは家族。もちろん、会うことは叶わないけれど、誰かを請い、慕うその気持ちは、同じであった。
「これを、そなたに。」
御簾が少しだけ上がり、その下から、さっと手が差し出された。
真雪のように白い手に、細長い指。その指の先に、柘植の櫛があった。
「褒美じゃ。取られよ。」
千鶴は、膝行して、近寄ったが、女君の手が目に入り、ふと歩みを止めた。
女君の手首の袖口から、その奥にかけて、大きな痣が広がっていた。雪に、真新しい血がポタリと垂れ、滲みながら広がったような淡い朱色の痣であった。
「はよう。」
千鶴が手を止めた千鶴を、蛙の女房が、急かした。
「頂戴いたします。」
慌てて、受けとった千鶴は、元の場所に後進すると、改めて櫛を見た。櫛には、三輪の菊が彫られていた。
「その櫛には、特別な護を祈念しておる。懐に抱いておれば、必ずやそなたをお守りするでしょう。」
「ありがとうございます。」
千鶴は、櫛を懐にしまい、再度、頭を下げた。
「蛙。」
御簾の向こうの女主人が呼ぶと、横の女房が「はい。」と返答した。
「千鶴を、玄関までお送りなさい。」
「かしこまりました。」
どうやら、この兄妹は、二人とも「蛙」と呼ばれているらしい。
確かにそっくりな顔ではあるが、ややこしくはないのだろうか、などと考えているうちに、千鶴は玄関に着いた。
入り口の前には、もう1人の蛙が控えていた。
「お送りします。」
「いえ。道は分かりますので。」
千鶴は、辞去したが、
「このあたりは、思いの外、物騒ですので。霧も出て参りましたし。」
確かに、いつの間にか、霧が出始めたようで、あたりは、まだ夕刻前だというのに、薄暗い。
「いつの間に。」
「雨の季節が近くなって参りましたたから、霧が出やすいのでしょう。朱雀大路まで送ります。主人にもよくよく、言い付けられておりますゆえ。」
千鶴は、蛙男に連れられ、朱雀大路に向かって歩き出した。
続きは明日。