二人の遭難
風がまるでカミソリのように冷たく頬を撫でる。その痛みで瞼を閉じそうになるのを必死でこらえ、急速に近くなる地面へと視線を向けた。
その先で見つけたのは砕かれた氷の破片、その最中で真っ逆さまに落ちているトウカの姿。
「見つけたッ」
両の手の平から火炎を放出し、推進力を得て落下を加速させる。
急激に上昇する体温が、風の冷たさを緩和してくれたのは好都合。お陰ではっきりとトウカの姿を捉えられ、到達し、抱き抱えることに成功する。
「トウカッ」
名前を叫ぶも反応なし、気絶しているみたいだ。
まぁ、いい。今はそれよりも優先すべきことがある。
「こんなところで死んでたまるかよッ!」
片手でトウカを抱き締め、もう片方の手で火炎を吐く。自身の真下に向けて放出することで、今度は落下速度を落としにかかる。
事前に加速した分と人二人分の重量、これらからなる勢いを相殺することは不可能だが、削れるだけ削って生存率を高めなければ。
「く、そっ」
ここに来て体温上昇のデメリットが限界を向かえる。目眩や吐き気がし、呼吸も浅く、気分も悪い。頭がくらくらする。それでも魔法を止めるわけにはいかない。
デメリットを抱き抱えたトウカにすこしだけ押しつけ、更に火炎を吐き続ける。
そして来たる、激突のとき。
ギリギリのところで魔法を解除し、トウカを包み込むように抱き締めるとそのまま背中から焦土と化した地面に叩き付けられた。
「ぐっ――あぁッ」
背中から発生して体中へと駆け巡る衝撃が、肺の空気を弾き出す。数秒か、十数秒か、数分か、とにかく息が出来ず、咳き込むようにしてようやく肺に空気が満ちた。
「かはっ――はぁ……はぁ……天国じゃ、ないよな」
視線の先にはくすんだ青の空が広がっている。
視界の端には先ほどまで登っていた雪山も見えていた。
「あそこから落ちたって、マジか? よく、生きてたな」
体の節々が鈍い痛みを主張しているが、骨が折れている様子はない。
この気温のお陰で上がった体温も下がり始めている。呼吸も正常に戻ってきた。
「ぐっ……いててっ」
トウカを隣に寝かせて上半身を持ち上げる。
やはり落下のダメージは大きいようで、どこかしらを動かすたびに体の内側が悲鳴を上げていた。重く、低く、響いてくるような痛みに耐えつつ立ち上がり、首を押さえながら周囲を見渡した。
「森の中、か」
周りには太い木の幹が何本も聳えていた。
この過酷な環境でも根を生やし、葉を広げる生命力の高さは驚嘆に値する。
「下が地面だったのが幸いしたな」
火炎の放射で焼けた地面に目を落とし、もしここが岩だったらと思うとぞっとする。
背骨は確実に折れていただろうし、トウカも助かっていたかどうか。
「しかし、どうすっかな……」
遠征隊とははぐれるし、体は痛いし、合流できそうもないし、体が痛いし、トウカを安全なところに運びたいし、体も痛い。
もしこの状況で魔物にでも襲われたら。
「ウォオオオオォオォォオオォオオッ!」
悪い予感ほど的中するもので、森の奥から雄叫びが聞こえてくる。
遠吠えならよかったが、声音の主はすぐに姿を現した。
「魔狼の変異種か……」
雪色の毛並みを持つ四足獣の魔物の群れ。環境に適応してか、レイクイーンの周辺にいる魔狼よりも一回り体格が大きい。
奴らは俺たちを包囲すると、様子を窺うように旋回し始める。魔狼の狙いは気絶しているトウカのほうだ。どうにかして俺を引き剥がしたいと考えている。あるいは俺のほうを先に仕留めようとしてくるか。
どちらにせよ、トウカの目が覚めるまでは俺が側に貼り付いていないと。
「上等だ。狼狩りなら慣れてる」
伊達に一年以上も魔狼を狩ってきてはいない。変異種だろうと根本は同じだ。
「来いよ、犬っころ」
拳に炎を灯し、臨戦態勢を取る。
それを受けた魔狼の群れは一斉に襲い掛かってきた。
§
「あぁ、くそ」
視界を覆う無数の雪が魔狼の姿を掻き消した。
魔狼との交戦の最中に天気が崩れ、吹雪に見舞われたのだ。
「冗談じゃないぞ、まったく」
周囲に警戒の人を張り巡らせつつ、その場で屈んでトウカに触れる。
体温上昇のデメリットを押しつけるためだ。
「ウォオオォォオオォオオオッ!」
その瞬間を好機とみたのだろう。
吹雪の中から魔狼が飛び出し、こちらの喉元を食い千切らんと牙を剥く。
「――それを待ってた」
交戦中に何度も見せていた隙だ。そこを狙ってくることはわかっていた。
吹雪で姿が見えないのなら、見える場所まで誘い込めばいい。
「心火を燃やして」
拳に灯した炎が一閃を描いて伸び、剥き出しの牙を打ち砕く。肉の代わりに炎を食らった魔狼は跳ね返されるように吹雪の中へと消えていった。
殴った感触からして、あの魔狼はもう生きていないだろう。雪に埋もれて魔石が回収できないのが遠征隊員として残念なところだが、しようがないと諦めよう。
「どこか休める場所を探さないと」
未だに目を覚まさないトウカを背負い、吹雪をしのげる場所を探して彷徨い歩いた。
§
「んっ……んんん」
トウカが目を覚ます。
「ここは……」
「よう」
声を掛けるとトウカは目を丸くしてこちらを見る。それから周囲を見渡し、最後に焚き火に目を移して沈黙した。どうやら状況が飲み込めていないみたいだった。
「ここは洞窟の中だよ。運よく見つけられたんだ」
正直、どれだけの時間トウカを背負って歩いたか憶えていない。
注意していたのは自身とトウカの体温を下げないこと、ただそれだけだった。
お陰で凍傷にもならずに、この洞窟を探し当てられている。
「ここを見つけた時は一等地の高級ホテルに見えたね」
まぁ、この状況なら例えプレハブ小屋でも同じように見えたと思うが。
「……私……たしか崖から落ちて」
「あぁ、あの時はどうなることかと思った」
あんなに何も考えられなくなったのは初めての経験だった。
「そう……カガリが助けてくれたのね」
「まぁ、な。あんまりスマートなやり方じゃなかったけど」
まだ痛みがすこし残っている。
「どこか痛むところは?」
「いいえ、ないわ」
「なら、よかった」
とりあえず、トウカの身は守れていたみたいだ。
「私……足手纏いね」
ぽつりと小さく呟くと、トウカは膝を抱え込んだ。
「そんなことは」
「その傷を見ればわかるわ。意識のない私を魔物から守ってくれていたんでしょう?」
そう指摘されてから自分でも傷を負っていることに気がつく。
落下時の痛みに紛れて魔狼から受けた傷がわからなくなっていた。
「そもそもあの高さから落ちた私が無傷なことが可笑しいのよ……相当な無茶をさせたはず」
「……んー」
下手な慰めはかえってトウカを傷つけるに違いない。
俺はなにも言えずに視線を逸らすことしか出来なかった。
「あれだけ出来ると言っておいて……本当に……自分が嫌になる」
その言葉を最後に言葉が途切れた。
洞窟内に響くのは吹雪の風音と焚き火の薪が弾ける音くらいのもの。
俺はその雰囲気に耐えられなかった。
「なぁ、トウカはどうして遠征隊に入ろうと思ったんだ?」
無理矢理にでも話を変えようとして、出てきたのがそれだった。
「……お金よ」
「金?」
「そう。お金を稼ぐため」
そう言ったトウカは焚き火を見つめながら言葉を続けた。
「経済的に余裕がない家庭で私と弟たちは育ったの。それでもなんとか生活は出来ていたけど、母が体を壊してからは治療費がかさんで二進も三進もいかなくなったわ」
「だから、遠征隊に?」
「えぇ。ほかの人たちみたいに高尚な理由なんてないわ。私は普通校を中退してしまったけれど、弟たちには同じ目に遭って欲しくない。だから、この道に進むと決めたの。それが理由」
遠征隊はレイクイーンの存続に拘わる重大な役目を担っている。それゆえに隊員の給与はほかの職業とは比較にならない。仮に遠征中に殉職したとしても遺族に賞恤金が支給される仕組みになっている。
実際、トウカのように家庭を支えるために遠征隊に入る者も少なくないと聞く。
「家族のため、か」
集めておいた枝の束から一本拾い上げて半ばから折る。
「なら、俺も責任重大だな」
「カガリが?」
「あぁ。だって俺とトウカ、どっちが欠けても遠征には参加できないだろ?」
折った枝をまとめて焚き火に放り込んだ。
「これからずっと二人で遠征に向かうんだ。もし俺のせいで遠征に参加できなくて、トウカの家族が路頭に迷ったらと思うとぞっとする」
「わ、私は別にそういうつもりで言ったんじゃ」
「ははっ、わかってるよ」
笑いながら新しくまた枝を一本、拾い上げて折る。
「つまり、だ。なにが言いたいかってって言うとだな」
それらを焚き火にくべると、よりいっそ炎が激しさを増した。
「俺たちはもう一蓮托生なんだってことだ。迷惑を掛けるだとか、足手纏いだとか、そんなことは気にしなくていいんだ。言っただろ? 今更、多少の負担が掛かるくらい、どうってことないって」
「でも」
「もっと俺を頼ってくれ。それともそんなに頼りなく見えるか?」
拳を握り、腕を折り曲げ、力こぶを造る。
まぁ格好だけだが、その姿を見てトウカは小さく笑ってくれた。
「そう、ね」
ここに来てようやく目と目が合う。
「あなたを頼るわ、カガリ」
そう言ってくれたトウカの表情に影はない。
吹っ切れたみたいでよかった。
「――そう言えば風の音が止んだな」
いつの間にか洞窟には焚き火の音と俺たちの声しか響いていなかった。
俺たちは火の始末をきちんと付けてから洞窟を出て外の様子をたしかめる。
空は晴天だった。
「ははっ。これで移動できるな」
「それはいいことだけど、遠征隊は今どこにいるのかしら?」
「そうだなぁ……あぁ、そう言えば無線機があったんだ。電波が届くといいんだが……」
そう言いつつ無線機を取り出そうと雑嚢鞄に手を突っ込んだところ、不意になにかが爆発するような音が轟いた。
「な、なんだ?」
しかもそれは断続的に発生し、森の中を駆け抜けて俺たちを掠めていく。
「これ、もしかして……」
「遠征隊が、戦ってる?」
俺たちは顔を見合わせ――
「行こう」
「えぇ」
音がするほうへと駆け出した。