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「グリゼオの民が山を下りて生活しているのか?」
私の言い方が悪かった。
皆、そう思っただろうが、
「いえ、この兄というのは先生、育ての親の家の息子です。国を渡り、旅をしていたのですがリポネームの第三十二王女に一目惚れをしまして、何とか口説いて結婚したのだそうです。もう、何年も会っていませんが、しばらくは身を置かせてくれるはずです。」
忘れ去られていなければ、
もしくは毛嫌いされていなければ、
だが、
「そうか、目的があったんだな。では、止める事も無さそうだ。」
エルク様が言う。
実際は兄に会う予定はない。
何かあった時に名前を出せば国で保護してくれるかもしれない。
そうは思っているが、あの人とはあまり反りが合わない。
本当に最終手段だ。
「まあいいでしょう。この国にいる間は私の娘たちと同等の権利を与えます。好きにしなさい。今日の夜は宴です。」
部屋を出て、行ってしまった。
夫の顔を一瞬しか見ていない様な気がしたが、他国の事情に首を突っ込むほど野暮なことはしたくない。
日付が変わってもにぎやかな声は納まる事がない。
国の名産である金の蜂蜜酒が大盤振る舞いで出され、兵士たちは大喜びの様子であった。
ワピチ様を連れてヘラ王女は部屋へ戻るというと、夫のエルク様も共に行ってしまった。
キョン王子は酒が飲める年ではなく、ほかの若い王子や王女と共に自室へ当の昔に戻ってしまった。
女王も姿が見えないあたり、こんな時間だ。
もう就寝しているだろう。
「隣邪魔をするぞ。お前はグリゼオの民だと聞いた。奴隷でも珍しい民にこんなところで会えるとは思わなかった。サンス・オールと言ったな。サンスとはどういう意味だ?」
知らない人物が話かけてきた。
深くローブをかぶり、仮面を着けている。
その下からこもった声が聞こえた。
「その名前は育ての親が私の本当の名前からあだ名のような名を付けてくれたものです。本当はサンクトゥス・グリゼオと言います。グリゼオの民は皆、同じ姓を名乗ります。」
「サンクトゥス……虹か。綺麗な名だな。」
周りから人が引いて行く。
酒に食べ物にと残っている場所へ移動してしまった。
顔の知らない兵士が雑魚寝をしているぐらいしか、ここに残っていない。
「奴隷になった経緯を聞いても?」
蜂蜜酒の入ったカップを渡され、口を付ける。
実は宴の最中、お酒は口にしていなかった。
苦手ではあるが飲めない訳では無い。
周りの空気に押され口に含んだが、今までのお酒より飲みやすい事に、カップの中を覗きこむ。
ふんわりとした、心地よさが立ち込める。
「……さらわれたのが始まりです。川で遊んでいたときに。ナトラリベスが奴隷難だった十年前の話です。国境ぎりぎりにいた、私が悪かったのです。」
「その後は?」
一口、二口とお酒が進む。
その様子に男は笑ったような息が漏れた。
「奴隷の番号を足に押されましたがその後数名の奴隷と共に逃げ出しました。隣国のカルミナへ入った所で育ての親と出会い、私の事を他国で産まれた孫として国籍を取ってくれました。」
「そんなこと、ふつうは出来ないのだが、その親は国に信頼されていたのだろうな。」
「はい。カルミナ王家の専属薬師をしていました。今はほかの人が担当していますが約五十年、亡くなるまでその役職を全うしていました。」
あれ、私、この国の人に自分が奴隷だったことを話しただろうか。
ふわふわする意識の元、男は私からカップを奪う。
中身はほぼ空だった。
ローブの男の顔を覗きこむ。
仮面の下の顔はよく見えないが、一点を見ているようだった。
「場所を移動しよう。」
男の視線の先にはホエ王子がいた。
男に手を引かれ、宴の場から庭へ移動する。
そこには小川とため池があり、小さな魚が泳いでいた。
覗きこむと月明かりにウロコを光らせる。
今さら気が付くとは、私はバカだ。
「……アヌビス様ですよね。」
顔を見ることなく聞くと
「国には戻さない。そう言われた。えらくこの国に気に入られたようだな。」
「薬師としてやる事をやっただけです。」
「お前は俺がもう何もしないと言ってもカルミナに戻る気はないのか?」
「戻りません。どうせ、私が王子に毒を盛った事も、それ以前に国法に背いてパーティーに出なかったことも国民の多くはもう知っているのでしょう。そんなところに戻るなんて嫌です。王子もこんな私を許すなんて、と、家臣たちに言われたりしますよきっと、私は奴隷である事を放棄しています。国民でもない者に何現を抜かしているのか。と、思われても仕方ありませんよ。」
「そんなこと俺が決める。」
ローブの留め具を外すとその下から美しい赤茶けた髪が出てきた。
仮面を外せば、燃えるような瞳が私を見ていた。
私の、何を見ているのだろうか。
私はこの人にいつまでかかわればいいのだろうか。
吸い込まれそうな瞳に映る私はどこの誰なのか。
ゆっくりと私へ近づいてきた。
いつかの日を思い出し、体が強張る。
石作りのベンチに肩を押され座らされる。
正面に立ったままだったアヌビス様がこれまたゆっくりとした動きで足元に膝を立てた。
「一国の王子が何をしているのですか?」
こんなところを見られるのは困る。
未だふわふわする頭でそう思い、私も地面に膝を付こうとすると、左足首をつかまれ、持ち上げられた。
バランスを崩し、ベンチに腰が戻された。
つかまれた足首から包帯がほどかれ、奴隷番号が覗かれる。
その上をゆっくりと撫でられた。
「奴隷番号I‐5648について調べた。ナトラリベスで登録されてはいるが収容された記録はなく、もちろん買い取られた記録も存在しない。だが、その身は没落貴族から買い取った一番下の娘と言う事になっていた。」
どういう話なのか酔った頭がついて行いけていない。
「その人物はもう死亡している。この番号の奴隷はもう存在しない。」
「意味が解りません。」
なぜ、そんなことになったのだろうか。
この人は何を言いに来たのだろうか。
「さらに言うなら次の番号が登録から抜けていた。そこにグリゼオの娘となっていた。その娘は現在逃走の末行方不明。見つけ次第商人に引き渡すことになっている。そこでだ。」
王子はポケットから何かを取り出した。
それは私にとって嫌なもの。
「何するんですか!」
声を荒げる。
つかまれたままの足をばたつかせ、振りほどこうとするも私なんかの力では男の手を振りほどくなんてできず、つかまれたままである。
「暴れるな。失敗したらどうする!」
王子の膝の上にかかとを固定される。
そして、足首に押さえつけられる熱い物。
古い記憶がよみがえる。
足首だけを麻袋から出され押し付けられた熱い物。
袋の隙間から見えた恐怖。
固く握った掌を何か柔らかいものに何度も打ち付ける。
痛みとどこかからかやってくる悔しさに涙が出る。
「これは違う。落ち着け。」
熱い物が離れるとその上に薬をぬり、包帯を巻かれた。
慣れた手つきに、私は小さく震えながら黙った。
「これでいい。今日は帰るが、次の国へ入った時は覚えておけよ。」
アヌビス様は立ち上がり、庭の隅に隠していたのだろうあの時の馬のピスティアに乗り、行ってしまった。
何なのだろうか。
何がしたいのだろうか。
よくわからなかった。
酔いは一気に冷めてしまった。