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「アヌビス様」
側近だろうか。
ヤギの顔をしたテリーが声を掛けたその瞬間、私の意識は目の前の人物に戻った。
そして、手が勝手に動いてしまった。
私にとってはゆっくりと、ゆっくりと目の前の人物の頬に触れる。
ひりひりとした衝撃が遅れてやってくるのを、戻ってきた現実でゆっくりと体感する。
この場の空気が一瞬、凍り砕けたのを感じる。
これはやってしまったのではないだろうか。
私は王子の下からゆっくり、移動し、立ち上がる。
周りを見れば側近だろう獣人も、兵士も隊士もみな、固まった様子。
そこに楽しそうにクククッと笑う声だけが耳に着く。
「ククッ……クククッ…」
笑っているその姿が怖い。
私は一歩、また一歩とあとずさりをする。
そして
「サンス・オール!」
彼が私の名を叫ぶ。
それと同時に足が動く。
これはやってしまった。
やってはいけないことをやってしまった。
今までで一番早く足を動かす。
こんなこと、あの日以来だ。
城の門までたどり着くと兵士たちは私が走っているこの状況に疑問符を頭の上に浮かべていた。
市街地を全速力で進むさなか、何度か転びそうになるのを必死でこらえ、坂道を上る。
溶岩で出来た国土の上に敷かれた煉瓦も熱い。
足の裏が熱くて、汗が止まらない。
足に巻かれた包帯が汗で滑り落ちていくのを感じる。
「サンス!」
急に名前を呼ばれ、振り返って足を止めてしまう。
そこには昼間にお店へ来ていたお客さんがいた。
「どうしたんだそんなに急いで」
「ごめんなさいそれどころじゃないの!」
叫ぶように言うも
「いいから入りな。」
と、腕を引かれ家の中に入る。
少しすると家の前を馬が走り抜けていく。
それを玄関に付いた小さな窓から覗くとアヌビス様が過ぎていくのが見え、一安心した。
「いったい何事何だい?」
「それが、」
手紙を読まずにいた事で王子に捕まり、その顔をはたいてしまった事を伝えると大笑いされた。
「もう、この国じゃ生きていけない。対国のリポネームに行こうかな。あの人もいるし」
「旅に出るのか。寂しくなるね。」
「みんなに何も言えそうにないから謝っておいて」
「うまく行ったら、手紙を破棄しておくよ。」
「ありがとう。元気でね。」
人の気配のなくなった通りに戻る。
遠く離れた場所から私のお店を確認するとそこには数名の兵士の姿があった。
戻れそうにない。
薬草を取りに行ったナトラリベスへはあまり入国したくない。
それにもう、先回りをされているだろうから逆隣りのケティーナ経由でリポネームへ向かおう。
そうと決まればそうそうに移動を開始する。
ケティーナの国境までは徒歩では一週間ほどかかる。
溶岩の道は歩けない場所も多く、最短距離では三日もかからないだろうに、不便である。
王都から離れ、整備されていない道へ出た。
今日はこのあたりで身を隠し、日が開けるのを待ってから移動した方がいいかもしれない。
慣れてはいる足場とはいえ足腰に来る道のり、暗くてはさらに負担がかかる。
灯りを持っていれば目に付きやすい。
休憩をしようと、人気のない小屋に入る。
もう何年も使われていないのだろうそこは、隠れるのに丁度いい。
外の様子を警戒しつつ荷物の中身を確認した。
あれだけ雑に扱われたものの、薬も器具も破損などはなかった。
日頃丁寧にしまっておいてよかったと思う。
道具の中から武器になる物を探すも遠距離で回避できるものは思いつかず、近距離で毒を注入する注射しか出てこない。
だが、これも薬として万が一のためには持っておく必要な物。
適当に転がっている瓶にアルコールを流し、脱脂綿を詰め込んだ。
投げる飛距離には自信がある。
これなら遠距離の牽制ができるだろう。
いつでも火がつけられるように火器も用意する。
火炎瓶なんて使う日が来るとは思わなかった。
それを抱えたまま、仮眠をとる事にした。
薄明りが窓から差し込んでくる。
座ったままの体制で寝ていたため少し腰が痛い。
立ち上がり、背伸びをすると遠くから馬の足音が聞こえてきた。
「もう来た……」
こんなピンポイントで近づいてくるとなると誰かに密告されたのだろうか。
窓から外を覗く。
上空に鳥が数羽、旋回しているのが見える。
遠くに目立つシルエットが向かってくるのがわかった。
黒い身体に赤いたてがみをした馬のピスティアはこの国の王に代々忠誠を誓う一族。
王の足として信頼を寄せられた忠実な家臣だ。
そんなものまで出して私を追って来たことが怖い。
まっすぐと小屋へ向かってくる馬の脚。
確実にここにいることがばれている。
アヌビス様が馬を下りた。
今だ。
私は瓶の脱脂綿に火をつける。
小屋を飛び出し、馬の足元へ向かって瓶を投げつけた。
「お前!」
散ったアルコールに引火し、アヌビス様の足を止める。
どうやら他の家臣は連れてきていない様子。
これなら逃げ切れるかもしれない。
後ずさりするように動く足に鞭を打ち、方向を変え、走りだそう。
そう、思ったのだが、アヌビス様は火の上を普通に歩いて向かってくる。
この人は頭がおかしいのではないだろうか。
私の足は再び止まり、彼の奇怪な行動に唖然としてしまう。
「こんなボヤで足止めできると思っているのか。」
怖い。
この人が何をしようとしているのか、何がしたいのかよく解らない。
「逃げないのか。観念したようだな。」
頭は逃げようとするも、身体が動かない。
気が付けば、しりもちをついてしまっていた。
足がバタバタ動くも後ろには全く進んでいない。
ふと、足に巻いていた包帯がするりと落ちた。
そこには刻まれた奴隷番号がある。
「……お前、奴隷か。どこに属している。なぜ、主人がいない。」
見られた足を隠すように体を丸くする。
こんな番号がなければ……
動かなくなった私を見て、アヌビス様は手を伸ばして来た。
その手は私の髪をつかみ、持ちあげられた。
頭皮の痛みに声が漏れる。
だがそれよりも、バンダナが落ち、髪の根を見られたことに気が付き、
「いや!」
王子の手をつかみ返し、爪を立てる。
彼は顔をしかめ、手を離した。
私は地面に落ち、薬箱から音がする。
地面に戻された衝撃がお尻から腰に来る。
「その髪……奴隷…グリゼオの民か」
見られた。
見られた。
逃げないと、
また、
また奴隷に戻される。
ポケットにしまっていた注射器を彼の足に思いっきり刺した。
「うっ……!」
いきなりの行動、あまり感じない痛みにアヌビス様は何が起きたのか混乱の色を見せる。
徐々に顔色を悪くしていくその姿に私は何をしてしまったのか。
急に冷静になる頭で呼吸が荒くなる。
目の前でしゃがみこんだアヌビス様は私よりも冷静な顔をしているように見え、私をさらに焦らせる。
「あ…あ……私……」
やってしまった。
注射には毒が入っていた。
そんなに強くはなく、数日熱にうなされる程度の弱い毒。
でも、相手は王子だ。
これは、
重罪だ。
「…ごめんなさい。私……」
薬箱をあさる。
解毒剤が確かあったはず。
「ごめんなさい…ごめんなさい……。」
「いい、落ち着け」
アヌビス様は涼しい顔を見せてくる。
でも、顔色は青白い。
毒を注入されたなんて思っていないのではないだろうか。
「いったい何をしたんだ?」
「ごめんなさい。あの、その、ヒノコロソウの毒が…今、解毒を」
「ヒノコロなら少し休めばいい。それより、お前の主人は誰だ。なぜ奴隷が民として存在している。」
それは答えられない。
私は解毒剤をアヌビス様に手渡す。
「コレが解毒剤です。ごめんなさい。」
立ち上がり、私は走り出す。
時々後ろを振り返りながら王子の様子や追手を確かめながら足を進める。
アヌビス様の視線が私の足を重くする。
ヒノコトソウ:モチーフは猫じゃらしの赤バージョン。
出てくる植物はモチーフがあるだけで同じ効果のある植物ではありません。