第六話
つい数時間前に、神楽坂は一人の男の記憶を覗き込んでいた。この街に潜む、巨大な闇組織、その幹部たる人物の一人だ。名を『灰垣 蓮』という。神楽坂は数か月前から、その男、灰垣と数回程接触していた。接触していたと言っても、別に神楽坂が彼と交友関係を持っているわけではない。あくまでも『接触』だけだ。
神楽坂が灰垣に目を付けたのは、数か月前の金曜の昼、丁度先程の喫茶店で休憩を取っていた時の事だった。神楽坂は普段、喫茶店では小説を読むことが多いのだが、その日は珍しく、何をするでもなくぼうっとしていた。そんな時、店内に入ってきて目の前を横切った男がその灰垣だったのだが、神楽坂はその顔に見覚えがあった。記憶の正体は数秒考えこんで発覚した。数年前の雨の夜、とある男と関わった際に頭に浮かんだ人物の一人だ。――線が細く鋭い顔つきをした、壮年の男性。間違いなくその男だった。
神楽坂は思いもよらぬところで能力者と出会った事に驚き、暫くその男の方を見ていた。男は店員に案内されて、神楽坂とは少し離れた窓際の席に案内されて、何やら注文をした後テーブルに頬杖をついて外を眺めていた。
――ふと、男が神楽坂の方を向く。目が合った。男は神楽坂の視線に気付いていたようで、少しの間神楽坂の顔を訝し気に見ていたが、ややあって顔を背け、再び外を眺め出した。神楽坂は、それでも男の方を見続けていた。男に対する意識は、薄れるどころかどんどんと強まっていった。
「――お客様? いかがいたしましたか?」
不意に、横合いから声を掛けられた。其方を見ると、店員がカップを乗せたトレーを持って、心配そうに神楽坂を見ていた。神楽坂は慌てて取り繕い、店員からカップを受け取って口をつけた。店員は暫く神楽坂の様子を窺っていたが、やがて自分に言い聞かせるように軽く頷き、その場を去っていった。
鼻孔を抜ける爽やかなハーブティーの香りを味わいながら、神楽坂はやはりあの男の事が頭から離れていなかった。何か、嫌な予感がしていたのだ。これと言って根拠はない。これまで彼や他の能力者に直接的にも間接的にも危害を加えられた事はないし、何より彼が何か企んでいようと、神楽坂には関係のない事だ。だが、神楽坂はどうしても、男の事を気に掛けずにはいられなかった。
――記憶を覗こう。そう決心するまでそう時間はかからなかった。神楽坂はハーブティーを口に流し込みながら、その機会を虎視眈々と狙う。そうして、カップの中から薄茶色の液体が無くなった頃、ようやくその時が来た。
男は注文したケーキとティーを全て腹の中に収め、テーブルに置かれたバインダーを持って会計へと向かう。それを悟られないようにこっそりと目で追って、男が会計を始めた所で、神楽坂は席を立ってその後ろへと並んだ。そうして、神楽坂は自分のバッグの中を弄るふりをして、
「……っと」
さりげなく中に入っていた鍵を落とした。甲高い音を立てて滑っていく鍵は、神楽坂の前に立つ男の足元で止まった。神楽坂はそれを拾うために屈み込み、鍵を掴み、そして男の足首へと手の甲を当てた。