第五話
神楽坂の許可を得て、男が負傷個所に手を当てる。その瞬間神楽坂は、体内で膨大な熱が渦巻くような感覚を覚えた。と同時に、男が触れている部位の痛みがゆっくりと引いていく。暫くして男が手を離すと、先程まで真紅に染まっていた刺突の痕はきれいさっぱりなくなっていた。
「な……っ」
再び自身に降りかかる非常識な出来事に、神楽坂は息をのんだ。脳髄に鈍い痛みが響く。頭のどこかでは理解しているが、体が受け入れるのを拒んでいた。そんな神楽坂の様子にはお構いなしで、男は他の傷痕も塞いでいった。そして気付けば、傷のあったところは全て血色の良い肌が覆っていた。
「これが我の能力だ。名称も能力の詳細も伝えぬが、まあ好きに勘ぐってくれたまえ。では、我はこれで去るとしよう。達者でな。」
「……あ、ああ……助かったよ。」
「礼はいらぬ。」
今一つ状況に追いつけない神楽坂を置いて、男は夜の闇に消えていった。その背を、神楽坂は半ば放心状態で見つめていた。
それから数年、神楽坂は能力の制御訓練を続け、今に至る。現在では能力の暴発が起こることもないし、記憶改編も〇,五秒あれば少し複雑なものでも可能だ。神楽坂はこの数年で『マインドハッカー』を完全に自分のものとしていた。
*
一階まで階段を駆け下りた神楽坂は、その勢いのままビルの外へと飛び出した。強烈な陽光が目を刺激する。神楽坂は立ち止まって手で庇を作り、辺りを見回した。
「流石にまだバレてはいないか……。」
呟く。神楽坂は安どのため息を吐いて、自宅へと向かっていった。
つい
仕事場から徒歩で五分したところにある駅で環状線に乗り、二駅ほど行ったところで降りる。そしてその西口から出て徒歩約十分。そこに神楽坂の自宅はあった。築十五年の大通りに面したマンション。その二階。3LDKのそこそこ広い部屋だ。
「ただいまー」
鋼でできた黒の無骨なドアを開きながら、神楽坂は部屋の奥に声を掛けた。反応はない。一人暮らしなので当然ではあるが。神楽坂はそのまま中へ入り、羽織っていた紺色のスーツをハンガーにかけてリビングへ歩いて行った。
神楽坂が借りている部屋はものが殆どなく、良く言えば簡素、悪く言えば殺風景であった。その壁際にある一人用ソファにどっかりと腰かけて、何かを思案するように目を瞑った。暫くそうしていたが、不意に空腹感を自覚し、ダイニングへ向かう。冷蔵庫を開いて中を見たが、残っているもので夕食に閊えそうなものはレタスが一玉とキュウリが一本、そしてトマトとパプリカが三個ずつ。後はブナシメジと絹豆腐だけだ。神楽坂は不満に顔を歪め、乱暴に野菜類を取り出した。そして器に適当に盛り付ける。キュウリは薄切り、トマトは半月切り、パプリカは細切りだ。次いで神楽坂はコンロの上に置かれた多少汚らしい見た目の鍋を覗きこむ。そこには煮崩れした具材が漂うカレーが、丁度一食分程残っていた。米をよそった器にそれをかけて、簡単な夕食とした。さっと食べ終えて器を片付け、神楽坂は再びソファに腰かけて思考の濁流へと意識を移した。