第二話
会議室の扉を閉め、その男――神楽坂 則人は軽く溜め息をついた。
「全く……どうしてこう平穏が保てないのか不思議でならないな……。」
虚空に向かって、だれに問うでもなく呟く。そして、大袈裟に肩を竦めた後、神楽坂はエレベータには乗らず、階段を駆け下りていった。
*
――神楽坂 則人は、数年前からとある能力を身に着けていた。ある夏の豪雨の夜、残業を終えて大通りを駆けていた時のことだった。交差点に差し掛かった時、横断歩道の中央付近に佇んでいる少女を見かけた。赤いレインコートを着て、手には可愛らしい刺繍の施されたバッグ。顔はフードを被っていてよく見えなかった。彼は彼女を見た途端、尋常でないほどの悪寒を感じた。何故なのかは全く分からない。男は一度、見て見ぬふりをしようとした。だが、信号は既に瞬いている。車の通りは少ないとはいえ、もしそのまま無視すれば、最悪死亡事故になるだろう。彼は結局、その少女の元まで走って行った。そして、手を伸ばせば届きそうな位置に来た、その瞬間。少女は唐突にフードを外し、顔をこちらに向けてきた。その眼は赤く血走っており、口は耳元まで裂けている。明らかに異常だった。踏み止まろうとしたが、勢いを殺しきれずに少女に突っ込んでしまった。しかし、衝撃はなかった。彼の体は少女をすり抜けていたのだ。いや、少女の方が透けていたというべきか。その非現実的な光景に唖然としていると、不意に少女が口を開いた。
『オマエハワタシガミエルノカ……オモシロイ。ココデアッタノモナニカノエンダ。ヒトツ、オマエニチカラヲヤロウ。』
男性的であり、また女性的。幼いようで、また成熟しているようでもある。何とも不思議で、美しい声であった。その声の纏う、絶対的強者の如き荘厳な雰囲気に飲まれ、無意識の内にその提案を受けてしまった。その瞬間、身体の内側から得体のしれない何かがこみ上げてくるかの様な、妙な感覚が全身を支配する。そして、少女がその裂けた口を大きく歪め、
『……スバラシイ。オマエニハキタイデキソウダ。』
とこぼすのを聞いたところで、彼の視界は闇に包まれた。
次の日目覚めたのは、いつもと変わらない自宅の寝室であった。昨晩起きた事象の痕跡などは見当たらない。神楽坂はつまらない夢だと考え、普段通りの生活を送っていた。しかし、数日経った頃から異変を感じるようになっていた。他人に触れたとき、経験していないはずの記憶が脳内に流れ込んで来たり、相手の感情が生々しく伝わってきたりする事があったのだ。最初はモザイクがかかったように不明瞭なもので、頻度もそれほど高くなかった。それ故特に気にすることもなかったが、日を重ねるごとに頻度が上がり、鮮明になっていった。彼は次第に怖くなり、精神科に掛かった。だが、結果は異状なし。それが一層彼の恐怖心を煽った。態度こそ堂々としていたが、その裏で精神は恐ろしい勢いで摩耗していた。発症してから半年もする頃には、神経症の兆しが出始めていた。仕事も碌に手につかず、事あるごとに過剰に反応するようになり、普段他人のことを心配することのない五十嵐にまで気に掛けられるほどであった。そうして地獄のような日々を過ごしていた神楽坂であったが、発症からおよそ十か月後の夜、事態が一転する出会いを果たす。