第一話
男は人混みを掻き分け、近くのビルの中へと入る。エレベータで十三階へと上がり、『会議室』と看板がかかっている扉を開く。
「お、帰ってきたか。今日はちょっと遅かったな。」
「すまないな。喫茶店に携帯電話を忘れてきてね。それを取りに行っていたんだ。」
「お前さんが忘れ物とは、随分珍しいじゃないか。疲れているなら休んでもいいんだぞ?」
「いえ、御心配には及びません。お気遣いありがとうございます。」
室内に入るなり、二人の人物から声を掛けられる。少し遅れたことを茶化してきたのは、男の同僚で幼馴染の五十嵐 誠二。そして、心配そうにしているのが、二人の上司である、課長の安田 茂である。男は彼らの言葉に軽く返答し、すぐに用意された席に着いた。
「…では、会議を始めようか。」
何か深刻な問題について話し合くかの如く、重々しく安田氏が告げる。だが、議題はあくまでも新商品の販売計画だ。彼ら三人は資料に目を通した後、十数分間言葉を交わす。会議と言っても名ばかりで、既に決まっている事項の最終確認に過ぎない。会議は滞りなく終わりを迎えた。
「……問題はないな。では、これで会議を終了する。お疲れさん。」
「お疲れさんって、大したことしてないっすよ?大げさすぎませんかね。」
安田が会議の終了を宣言すると、会議中居眠りを続けていた五十嵐が、急に水を得た魚の様に喋り出す。
「そんな事はどうでもいいんだよ、五十嵐。余計な発言はするな。」
「はいはい。分かりましたよっと。……あっ、そういえば昨日良い店見つけたんすよ。寄ってきません?」
「……私の奢りか?」
「当り前じゃないですか! もしかして渋ってるんすか? ケチだなぁ課長は……。」
「はぁ…全く。これで終わりだぞ?」
「了解っす。……覚えてたらですけど。」
そのまま彼は安田と居酒屋に行く約束を取り付ける。もちろん安田に奢らせることは忘れない。お人よしな安田は、頼み込まれると断れないので、よく五十嵐に手玉に取られている。見慣れたいつもの光景だった。
「そうだ、お前も来るか?せっかくの課長の奢りなんだからな、遠慮しなくてもいいぞ?」
「おい、私の金を何だと思っているんだ君は……。」
五十嵐は男の事も誘う。しかし、男のそれに対する返答は、
「いや、まだやることが残っているからな。今日はやめておくよ。また今度誘ってくれ。」
謝絶であった。五十嵐の方も分かっていたのか、一瞬不満そうな顔をするも、直ぐに納得した。
「では、私はこれで……。」
「おう、分かった。んじゃ、また明日な。」
男は五十嵐の反応を確認すると、もうすることはないとばかりに席を立つ。二人もそれを引き留めることはしない。これもまた、いつも通りの光景だからだ。男は若干の速足で扉へ向かう。そしてノブを捻り、外へ歩を進めた、その時。
「……気を付けろよ、神楽坂。」
ふと安田からかけられた言葉に、ほんの少し歩調を乱す。男は直ぐにそれを取り繕い、
「……分かっていますよ。無理はしませんから。」
と返し、その場を去っていった。