序章
とある夏の昼下がり。町の中央近くにある喫茶店。その屋外の席に、その男は座っていた。十分ほど前に出された紅茶には一切手を付けず、何か真剣に考えこんでいるかのように頭を抱えている。一部の店員や客に奇異の目で見られているが、その男は動かない。そしてそれから数十分。流石に痺れを切らしたのか、店員が声を掛けようとする。その時になって、ずっと身じろぎ一つすることのなかった男が、唐突に立ち上がった。驚いて後ずさる店員に軽く謝り、そのまま代金を払って店を出ていく。一連の奇妙な行動に店員は不信感を抱いたが、何も起きることなくその日は終わった。そして、次の日にはその男のことなどすっかり頭から抜け落ちていたのだった――
――同時刻、とあるスラム街の路地裏にて。
所々壁が崩れかけたビルの地下室で、数人の男達が会議を開いていた。彼らは、ここ最近巷で話題になっている闇組織『闇の遣い』、その幹部たちであった。
「……次は、誰を消せばいいんだ? 全く、本当は休みが欲しいものだが……。」
「仕方ないだろう。依頼は確実に果たさなければならぬ。文句を言っても何も変わりはせん。」
「分かってるさ。ただ少し、言ってみただけだよ。……貴様はどうなのだ?」
「何、問題はない。私の手にかかればいかなる情報も思いのままだ。その程度、理解しているだろう。」
彼らは、今日も仕事の報告を行い、その成果を確かめている。裏業界では、失敗は許されざることだ。万が一があってはならないため、こうしていつも報告を欠かさない。
「それにしても、だ。近頃常に目を付けられている気がするのだが、一体何なのだ?」
「ほう……腕が落ちたか?」
「お主こそ、ここ数年はまともな仕事が来てないではないか。奴隷の売れ行きも落ちてきている。人の事をとやかく言う前に自身の心配をすべきだろう。」
彼らは、常に裏方に徹し、この地域一帯を支配するようになった。受け持つ仕事は暗殺、情報操作、奴隷商等多岐にわたる。既に、この地を治める主張や商人にとって、なくてはならない存在となっていた。もちろん、他人の目に映らぬよう細心の注意を払って。だからこそ、彼らはここまで成り上がってきたのである。
しかし、彼らの成功は一旦打ち切られることとなる。
「うッ!?」
「どうした? 毒でも盛られたか?」
「う……ああぁぁああぁあぁぁぁぁぁ…」
「……これはまずいのでは? 何とかしてくださいよ、貴方薬も扱っていたでしょう」
「そんなことを言っても、我には何もできんぞ!」
男のうちの一人が突如、頭を抱えて呻きだす。他の男たちは何が起きているのか分からず騒ぐが、何も変わらない。
「うあぁああぁぁぁ…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ」
「しっかりするのだ! 貴様、まだ仕事が残っておろう!」
「あああああぁぁぁぁぁあぁあああぁぁああぁあぁぁぁぁぁああぁああぁぁぁああぁぁ!!!!!!」
「ガフッ!?」
「なっ、何をしておるのだ!」
正気を取り戻させようと一人が声を掛けるが、逆上して胸に短剣を突き立てられる。その様子を見て、他の男たちは半ばパニック状態となってしまった。部屋に響く怒声と悲鳴。もはや会議の継続は不可能であった。
この日、闇組織『闇の遣い』は一度、舞台から姿を消す。原因は、暗殺担当の幹部の精神疾患。そこに、第三者が関与していると考える者はそういないだろう。しかし、その幹部は確かに、第三者に精神を壊されていた。これまでの暗殺現場の情景をフラッシュバックさせられ、途方もないほどの罪悪感を植え付けられて。これは、『マインドハッカー』として密かに名を知られることになる、とある男の仕業であった。