マッスルこけら落とし
男は、ゆっくりと村から出た。100メートルほど先に、髪を紅く染めた、がらの悪そうな男達が横に並んでおり、その中央に、身体が、通常の人間の3倍はある、紅い巨漢が見えた。
「あれが、紅豚ですか。さて、どれほどの筋力の持ち主でしょう」
男は、その紅い巨漢に向かって歩いていった。
「ボス! あいつ、こっちに来ますぜ」
紅豚の横で言ったのは、昨日、エリカをさらいに来たモヒカンだった。右手首は真っ青に腫れ上がっている。
紅豚は、上半身が裸で、下半身は革のパンツを履いているだけだった。その名の通り、身体中の皮膚が真紅に染まっており、鼻は、豚のように前に突き出している。
その突き出た鼻から、ふん、と息を漏らすと、紅豚は、自分の出っ腹を右手でひと叩きして言った。
「おめえみてえなやつが居るから、クリムゾンが舐められちまうんだよぉ」
そう言って、紅豚は、傍らに居たモヒカンの右手首を、掴んで持ち上げると、後ろに大きく振りかぶった。モヒカンが、痛みに悲鳴をあげたが、紅豚は意に介さなかった。
「あの男に、ちょっとした挨拶をくれてやろう」
紅豚は、向かってくる男のほうへ、モヒカンを放り投げた。モヒカンの身体は、ぐるぐると回転しながら飛び、男のすぐ目の前に落下した。
村の中で、その光景を見ていた人々が、口々に言い合った。
「見ろ。人間を、あんなふうに軽々と投げ飛ばしちまうんだぞ」
「あんな化物相手に逆らうこと自体、間違ってるんだ」
「あの男、死ぬぞ」
自分の足元に転がるモヒカンを見て、男は言った。
「おや、昨日の2人組の片割れではないですか」
モヒカンは、まだ息があり、震える左手を、男のほうへと伸ばして言った。
「た、助け……」
男は右手を伸ばし、差し出されたモヒカンの左手を握って言った。
「助かるかどうかは、あなたの運次第ですね」
男は、モヒカンの身体を軽々と持ち上げ、釣り竿でも振るように、後方に振り上げてから、紅い巨漢のほうへ投げ飛ばした。
モヒカンは、再度、ぐるぐると回転しながら飛んでいき、巨漢にぶつかる直前に、その巨大な左手で払いのけられた。
村の中の人々の間に、今までとは違う感情が芽生えた。
「あ、あの男もすごいぞ」
「ひょっとしたら、紅豚といい勝負するんじゃないか?」
「バカ野郎。紅豚に勝てるもんか。それに、手下があんなにいるんだぞ」
村人は、希望を持つことを恐れていた。その希望を失ったときのショックが大きすぎるからだ。
「ほう。あの男、なかなかやるようじゃねえかぁ」
男は、紅い巨漢まで、あと20メートルほどのところまで迫り、大声を張り上げた。
「あなたが、紅豚様ですか?」
「いかにも。おれ様が紅豚だ」
「昨日、あなたの部下が、そこの村で粗相をしましてね。一体、部下にどのような教育をしているのか、お聞かせ願えますか」
「へっ。そいつぁ、すまなかったな。ちょっと女をさらおうと思っただけなんだがね、あんたに、なんか迷惑かけたかい?」
「ええ。非常に不愉快な思いをしました」
「それで、どうする?」
「ここは、男らしく、力比べといきませんか。私も、筋肉には少々自信がありまして」
紅豚の目が、見開かれた。
「面白え。お前が勝ったら、何を望む?」
男は、少し間をおいてから答えた。
「クリムゾンを解散し、二度と悪事を働かないと約束してください」
「ああ、いいぜ。ただし、俺が勝ったら、その場でお前を殺して、村の連中も皆殺しだ。それでいいか?」
「構いません」
クリムゾンの集団の中から、嘲笑が漏れた。
「ボスと力比べだあ?」
「おいおい。本気かよあいつ」
紅豚は、1人、集団から踏み出し、男と対峙した。
「おいおい。力比べったって、このサイズ差じゃなあ。まともに手を組むこともできねえじゃねえか」
紅豚は男の近くまで来て、言った。
身長190センチほどの男に対して、紅豚は3メートル近くあった。
「では、わたくしは、あなたの手の平に、手を当てさせていただくとしましょう」
そう言って、男は、両腕を、真横に水平に上げて、紅豚に向けて両手を開いた。
「さあ、はじめましょう」
「貴様! どういうつもりだ。そんな態勢では、力は入れられねえだろう」
「あなたごとき、これで充分です」
頭にきた紅豚は、T字型に腕を開いた男の両手に、自分の両手を合わせて、力いっぱい押した。
しかし、男はびくともしない。
「な、なに……」
クリムゾンの内部に動揺が広がる。
「おいおい。嘘だろ」
「ボス、ふざけてるだけだよな」
「どうなってんだよ」
男は、目を細めて言った。
「おや、どうされましたか。わたくしは、力が入らない態勢なのではなかったですか」
「く、くそが……」
ここで、男が、めいっぱい開いていた両手の指を閉じて、握り拳を作った。
すると、紅豚が叫び声を上げて、両手を引っ込め、数歩、後ずさった。
「がああああ! き、貴様!」
紅豚が、自分の両の手の平を見ると、両手とも、皮膚が裂け、肉が抉れていた。
男は無表情のまま言った。
「申し訳ございません。あなたの手の平が、こんなにやわだとは存じませんでしたので。厚いのは、面の皮だけということですか」
「く、くそが」
紅豚、右足を振り上げ、男目がけて前蹴りを放つ。
しかし、男は、左手でその蹴りを軽々と受け止める。
「力比べは、わたくしの勝ち、ということでよろしいでしょうか。でしたら、今すぐに、クリムゾンなどという薄汚い集団を解散して、ここから消えていただきたいのですが」
「この男を殺せー!」
紅豚の叫びで、クリムゾンの連中が、一斉に男に向けて走り出す――はずだった。しかし、クリムゾンの動きは鈍い。
目の前で、ボスの紅豚が、完全に力負けするところを見たのだから、士気はだだ下がりであった。
「どうした! てめえら! 今、動かねえやつは、俺が殺すぞ!」
恐怖に駆られた数人が走り出すと、それに引きずられるように、ほぼ全員が、男目がけて駆け出した。何人かは、後方へと逃げていった。
「まったく、嘆かわしいことです」
男は、瞬く間に、紅豚へと歩み寄り、そのバットのような太さの中指を、右手で握ると、またしても、釣り竿を振るように、右腕を前後に動かした。
紅豚の巨躯が、前に後ろに、水風船のように跳ね回る。
そのあり得ない光景は、クリムゾンの連中を、一瞬、怯ませたが、走り出した者達は止まれなかった。
クリムゾンは、男の周りを囲むようにして迫ってきていた。
男が、右手に掴んだままの紅豚を、ぐるり、と高速で水平に振り回すと、近くまで迫ってきていたクリムゾンの連中が、紅豚の身体で殴られて吹っ飛んだ。
「これは使い勝手がよろしい。肉のメイスといったところですか」
男が、紅豚を数回振り回すと、クリムゾンの連中の大半は吹っ飛ばされ、残りの連中は、完全に戦意を喪失していた。
「あ、うう、ああ……」
かろうじて意識の残っていた紅豚が、意味のない言葉を漏らした。紅豚の中指は、骨が砕け、ソーセージのようにぐにゃぐにゃになっていた。
「おや、これは申し訳ございません。あなたの中指が、こんなに貧弱であることも、存じ上げませんでした」
「うう、ああ……」
男は、紅豚の中指を離すと、向き直って言った。
「これで、クリムゾンは解散し、この村に二度と手を出さないと、約束してくれますか?」
「ああ……ああ……」
紅豚は、なんとか首を縦に振り、肯定の意を示した。
「大変、安心いたしました。では、あなたが、約束を守れるよう、少々、お手伝いをして差し上げましょう」
そう言って、男は、優しい笑みを浮かべながら、横たわっている紅豚の頭のほうへと近づく。
「あなたは、生きていれば約束を破ってしまうでしょう。ですので、約束を守っていただくためには、こうするほかありません」
言いながら、男は、両手で紅豚の頭を掴み、くるり、と一回転させた。紅豚の口から、紅い泡が溢れた。
「さて」
男が周囲に目を向けると、腰を抜かしてへたりこんでいるクリムゾンの残党どもが、情けない声を上げた。
「ひっ……」
「た、たすけてくれ」
「ばけ、ばけ、ばけも、の」
「あなたがたには、一旦、生かしておいて差し上げます。これを機に、心を入れ替え、その筋肉を、弱き者のためにお使いなさい」
残党どもは、震えながら、ガクガクと頭を縦に振った。
「もし、この言いつけが守られていないと、わたくしが判断したときには、即座に、殺します。よろしいですね」
「わ、わ、わかった……。わかった」
残党に背を向け、村に向けて歩き出した男に、ある者が言った。
「何者なんだ……あんた?」
ひたと足を止め、男は、右手の指で、自慢の口ひげを撫でながら言った。
「わたくしは、通りすがりの、筋肉紳士でございます」