許されない
どうして欲しいか。
どうなって欲しいか。
叶うならば、いくらでも口に出すというもの。
堪えていたものを爆発させた。
晴れ渡る空の下で、わたしは叫び散らかした。
もうこれ以上は無理だ。勘弁してくれ。頼むから気づいてくれ。
こんな理不尽を一個人に強いてきたことを、人々は全く気付かなかった。
もしこれが己の身に起きたなら、みんな、とうてい正気ではいられまい。よくもまあ、これまで。
怒りの言葉を機関銃のように口から発射した後、人々の表情を眺めて、勝利にひたった。
ついに言った。これまで黙っていたのだ。やっと言えた。さぞかしスカッとするだろう。
ところが。
「ごめんなさいねえ、ほんとにねえ、ええ、ええ、わたしがぜぇんぶ悪うございますよ」
中年の女が、わたしを囲む輪の中から、あごを突き出すようにして言ったのだった。
その声音は決して謝罪しているようではなく、もっと気分の悪いものを醸し出していた。
(そりゃ、あんたに色々酷いことをしてきたかもしれないけれどね、それを今、みんなの前で大声で言うなんて、やっぱりあんたはおかしい)
中年女は「ごめんなさいねえ、ええ、ほんとにねえ」と蔑んだ目で言いながら、言外に非難の思いを呟いていたのだった。
わたしは、相手の反応があまりにも意外なので愕然とし、残酷さに打ちのめされて、返事もできないまま突っ立っていた。
中年女は五回くらい同じことを繰り返すと、ぺこっと頭をさげて、「さ、買い物買い物」と呟きながら、そそくさと人の輪を離れていったのである。
それを皮切に、次々に謝罪の言葉が聞かれ始めた。
皆一様に、決して自分が悪いと思っているわけではなく、謝らされることが不本意でたまらないと言いたげであり、最後に必ず頭をさげてゆくのだが、去りしなに「へっ」とか「あーあ」とか、「しょうがねえな」とか、吐き捨てるような呟きを落としてゆくのだった。
「すいませんでした。ほんとに、全然気付かなかくてごめんね。そんなふうに感じていたなんてわからなかった。ごめんねごめんね、ほんとにごめんね」
(大人げないな、なにを爆発してるんだろコイツ。そんなもん、仲の良い友達か誰かに愚痴って終わらせとけよ。一緒にいたくないな……)
「悪かったよ。ごめん。でもまた同じことするかもしれないし、どうしたらいいんだろうね、すいませんでした」
(この人に関わったら面倒だ。もう二度と謝らされるのは御免だし、ふとしたことでどう思われているのかって気になって仕方がない。たまらんなあ。もう関わらないでおこう。挨拶もしないほうがいいな)
若い子が、男が、老女が、少年が、大勢集まった人の輪の中から次々に謝罪の言葉を口にし、ぺこと頭をさげて、そそくさと逃げるように立ち去ってゆくのだった。
その謝罪の言葉はすべて、どこか早口であり、聞き取れないこともある位だった。
「え、え、なんて言いましたか」と聞き返すと、逆に「えっ」と目を見開かれて、迷惑そうに聞き返される始末である。要はだれも、わたしの状況をねぎらうとか、思いやるということがないのだった。
「ばーちゃん、ねー、どうしてあの人に謝らなきゃなんないの」
「しいっ。謝れば気が済むんだろうから」
謝るだけ謝って、さあ仕事は終わったとばかりに離れてゆく老婆と子供の会話が小さく聞こえてくる。
やがてわたしは、両の手を拳にして、足にぐっと力を込めて、ぐらぐらと揺れ出す世界に耐えなくてはならなくなった。
一人減り。
二人減り。
アスファルトの地面に落ちる影は、どんどん離れてゆく。
わたしを囲む輪は見る見るうちに薄く、小さくなってゆくのだった。
ブブウ、と、次々と停まっていた車が去ってゆく。
開いている車窓からは「あー腹減った、なんか食べに行こうよ」など、会話が聞こえてくる。
すこんと抜けるような青空には白い雲が小さく浮かび、ゆるい風が吹き抜けていった。
ふいにわたしは、果てしない不安を感じた。
立っている足元に亀裂が生まれ、その暗闇の底へ吸い込まれてゆくような気がした。
もくもくもくもく黒い入道雲が、わたしの中で湧き上がった。しいんと下半身が重たく冷たくなるようだった。
「待ってください」
去りゆく人々に向かい、わたしは手を伸ばして叫んだのだった。
その声には哀願の響きが籠っていたのである――自分では、決してそうしたいとは願っていなかったのだけど。
「ごめんなさい。悪かったです。わたしが悪かったです。悪いのはわたしなんです」
だから置いてゆかないで。明日からも、これまでと同じように接してください。お願い。お願いだから。
……。
ぞろぞろと歩いて去ってゆく人々の中で、一人だけ振り向いたひとがいた。
どこか強張った顔でわたしを見返した。
しばらくの沈黙の後、
「そーなんだ」
とだけ言った。
その目に僅かに宿る憐憫の色に、わたしはすがりつく思いであった。
「本当にごめんなさい。もうあんなこと言いませんから。だから今まで通り、仲良くしてください」
そう言った。
しかし、
「そんななら、もっと考えて喋ってよ」
吐き捨てるようにその人は言い、あーあ、やだやだ気分悪いと呟いて、みんなと同じように去っていったのである。
ごめんなさいごめんなさいと呟きながら、わたしは一人で取り残されていた。
耐えていなければならなかったのだと。
怒りや嘆きを口にする度に、余計に生きにくくなるのだと、今更のように悟りながら。
そうだ、わたしには最初から、理不尽や酷いと感じる思いを抱くことがあっても、それに怒りや反発で返すことなど、許されていなかったのだと――ようやくのように、気づいたのである。
だけど、すこんと青い空に浮かぶ雲は徐々に速度を速めて行き、風はゆるゆると勢いを増してゆく。
太陽は明るく誰の上にも光を注いだが、もはや時間はは取り戻せないのだった。
(叫ばなかったら、わたしは壊れていたのに違いない)
(誰も、わたしが辛い思いをしていることに気づかなかったのに違いない)
(じゃあ、やっぱり叫んだことは正しかったのだ)
正しかった。
わたしは辛い、あなたがたのせいで、こんな目にあっているのだと糾弾することは、正しかった。そうだ間違いじゃない。
頑張ったよ。よく言った。だから胸を張れ。もう、謝るべきではない。確かに謝るのは、連中の方なのだから。
ところが、「ごめんなさい」の訳の分からない謝罪はとめどめもなく流れ続け、わたしは自分の口からそれが零れるのを止めることが出来なかったのである。
ごめんなさい。怒ってごめんなさい。悪いのはあんたらだと言ってごめんなさい。自分の思いを吐き出して本当にごめんなさい。
「あーはいはい、わかったわかった」
とでもいうような謝罪をして、頭を下げて、一人去り二人去りしてゆく人々の表情を思い出すと、身が捩れるほどの苦しさだった。
地にひれふし、嗚咽しながら、わたしは気付いた。
とうてい得られないものを求めて、わたしは嘆き、怒り、苦しんできたのではないのかと。
正しいとか、間違いとか、そんなものなど、どうでもよいのだと。
「ごめんなさい」
まだ、取り戻せる。少なくとも、昨日までの立ち位置は、取り戻せる。赦してもらえる。
「ごめんなさい」
そうだ、少し時間がかかるかもしれないけれど、しばらくの間、黙って耐えていれば、きっとまた、戻る。
そしてわたしは二度と求めない。叶わないものなど、二度と。
求めてはならないのだ。生きてゆくならば。
太陽が背中を焼いている。暑い。
行かなければ。これから一人一人に追いついて、謝りにゆかねばならない。
明日からも、これまでと同じようにお願いしますと、土下座をしてでも。
怒りをさく裂させた場合、何が起きるか妄想したら、とんでもなく嫌な感じのものができました。