凜と清太郎
ふ、と目が覚めるとこちらをじっと見つめる顔と目が合った。
思わず瞼を閉じて、強すぎる視線を遮る。
朝からあまりに眩しいものを見て少なからず動揺したのだ。
だけど、夢でも幻でもないことは分かっている。こういうことは初めてじゃないからだ。
くす、と笑う耳障りの良い優しい声が聞こえてが、たぬき寝入りを続行する。
「凜」
寝起きとは思えないはっきりとした声が耳朶を掠めたので、一緒に眠りこけていたわけではないのだろう。恐らく私が目覚めるよりもずっと前からこちらを見ていたのだと思われる。
眉間にしわが寄りそうになるのをぐっとこらえて気づいていないフリをすると、おもむろにぎゅっと抱きしめられた。
鼻と口を、決して薄くない胸板に塞がれて息苦しく、ぺしぺしと相手の腕を叩きながらもぞもぞと身動きすると、「寝たフリも可愛いけど、やっぱり起きてる顔が見たいんだよね」と少年は優しく笑う。
ずぽっと双子の兄の腕から顔をだして大きく息を吸った。
「せいたろう」
抗議の意味も含めて兄の名を呼ぶと、頬を染めそうなほどに喜色を浮かべ、可愛い、とまた繰り返す。
妹に対して、ちと、愛が深すぎる気がしないまでもないが考えれば考えるほど泥沼にはまっていく気がするのであまり考えないことにした。
眠るときは一人だったのに、目覚めたら添い寝されているこの状況もあえてスルーする。
「凜、熱がある。今日は休んでね」
「いや」
「凜」
「いや」
ぴったりと寄り添うみたいに体をくっ付けている、寂しがりやの清太郎を押しのけようと両手で肩を押すのだがびくともしない。
十代も半ばとなれば、男女の力の差は歴然で、双子といえどそれは変わりなく完全に力負けしている。
更に言えば、成人するのは難しいだろうと言われ続けた私の虚弱な腕では、例え相手がもやしっこであったとしても敵うことはないだろう。それでなくとも相手は清太郎だ。とにもかくにも全ての面においてハイスペックな私の兄が、同年代の女子に力負けするわけがない。
「りーん」
ぐいぐい押していると清太郎がため息交じりに名前を呼んでくる。
「昨日、花ちゃんと学校帰りにパフェ食べに行こうって約束したんだもん」
少し息切れしながら抗議すると、清太郎が綺麗な顔を僅かに歪めて背中をぽんぽんと優しく撫でる。
「百歩譲って学校に行くのは許しても、寄り道は駄目だよ。熱があるんだから」
もう片方の手で額にかかった髪の毛を優しく避けられる。
「行ってもいいの?」
「全く。僕がいいって言うまで頑張るつもりだったんでしょう?
そんな余計な体力は使わせたくないからね。保健室登校で妥協してあげるよ」
「本当?」
「僕が凜に、嘘をつくわけがないでしょう?」
「うん、ありがと」
先にベッドを降りた清太郎を追いかけるように体を起こすと、僅かに眩暈を起こす。
慌てて何でもないフリを取り繕ったが、目敏い清太郎にごまかしがきくわけない。
小さく息を吐かれて、思わずびくりと肩を竦ませる。
怒った清太郎は誰にも手がつけられないくらい恐ろしいのだ。
怖くて視線を合わせられずにいると、いつの間にかこちらに戻ってきていた清太郎に抱きかかえられてベッドから降ろされた。
「時間にはまだ余裕があるからゆっくり準備しておいで」
ついでのように、ちゅ、と瞼にキスを落として、清太郎は私の部屋を出た。
あまりにナチュラルすぎる仕草に反応一つ返せない。
これは、普通のことなのだろうか。とか一瞬、疑問が過ぎったのだが、気にしては駄目だ。
なぜなら、清太郎は幼少期からこうだったからだ。
一言で言うなら「スキンシップ過多」
それも私限定に。
だから、早々に忘れることにして登校準備に専念する。
清太郎がすることはいちいち気にしないほうが良いのだ。
年を追うごとにますます過保護になるような気がしているが、周りもそれを許容している。
いや、清太郎が、許容させていると言ったほうが正しいかもしれない。
それよりも、と、ふとカレンダーに目を走らせる。
高校入学から早1ヶ月というのに、数えるほどしか登校していない。
これからの1年を考えると早くも出席日数に不安を覚える。
私が少しでも体調を崩すと、清太郎を初め、両親も数少ない友人たちも登校することを良しとしないのでどうしても欠席が増えるのだ。
例え、私が登校したいと主張してみても、皆が皆、揃いも揃って反対するものだから、自分の意見を貫くのが難しくなる。
一度、皆の反対を押し切って登校して学校で意識を失ったことがあるのだ。
あのときのことを思い出すと血の気が引く。
いや、決して、重篤だったわけではないのだ。
ただ、病院で目覚めた私が目にした臨界点を突破した清太郎の形相が、この世のものとは思えないほど恐ろしかったのだ。
それを思い出しただけで軽く死ねる。
だから結局、皆の言うことを聞いて欠席するはめになるのだ。
「凜、朝はおかゆにしたから。食べられるだろう?」
「う、ん」
本当は食べ物は受け付けないのだが、一口でも食べないと薬が飲めない。
胃に強い刺激を与える薬なので、必ず「食後に」と定められている。
「ほとんど味付けしてないから食べられると思うよ」
言いながら、清太郎がテーブルにおかゆの盛られた茶碗を置く。
仕事でほとんど家にいない両親に代わって、家事はもっぱら清太郎の仕事だ。
私もできないわけではないが、何分体力が無い。どのくらい体力が無いかというと、掃除機をかけたくらいでふらつくくらい、だ。笑える。いや、笑えない。
「凜、手が止まってる」
私も少しは清太郎の役にたてるように頑張らないと、なんて思っていると、昆虫の観察でもするかのようにじいぃっと私を見ていた清太郎から指摘が入る。
見返すと、ふ、と目元を綻ばせた清太郎がその端正な顔を傾けた。
ウルフカットのサラリとした前髪が額を流れる。
見慣れた顔だというのに、美しい顔というのは、見飽きないものらしい。
「りーん、食べなさい」
「はぁい」
広いダイニングに、ガラス板の重厚感あるテーブルがその存在を主張している。
4人家族なのに、6人がけ。座るところはいくらでもあるというのに、清太郎と私は横並びだ。
テーブルに、二人の影が映る。
幼い頃は瓜二つで、ともすれば清太郎に間違われることも少なくなかったというのに、いつの間にか似ても似つかない容貌になってしまった。
鋭い美貌で他者を威圧する清太郎。別にそれを意識してやっているわけではない。
ただ、彼の圧倒的な美貌を前にして、他者が勝手に畏怖するだけだ。
彼を恐れないのは、私と両親と数人の幼馴染。それだけ。
だけど、清太郎はそれを寂しいなんて思うほどの繊細さは持ち合わせていない。
彼いわく、
「僕には、凜だけが居ればいいんだよ」だそうだ。
何それ、ちょっと怖い。
「凜、もう食べられない?」
「うん」
結局、器半分ほども食べられなかった。
せっかく作ってくれたのにごめんね、と言えば、半分も食べてくれたじゃないかと笑う。
優しすぎてますます罪悪感が募れば、そこに付け込むようにしてさっと数種類の薬を手渡された。
いつの間に用意していたのか。
すっかり慣れてしまった薬だけれど、副作用でお腹が痛くなったり酷い眠気に襲われたり、時々、吐き気がすることもある。
そういうのが嫌なのでできれば飲みたくないのだが、それをやってしまうと、後々だいぶ大きな反動がくる。そう、つまり既に経験済なのだ。
ふう、と大きく息を吐けば、清太郎は苦笑してオブラートを用意してくれた。
早く元気になれますように、なんて、そんな言葉はもう口にしない。
そうならないことを知っているから。
薬を飲んで一息ついたところで、母からの電話が入る。
音楽家で海外に拠点を置いている為、めったに家には戻ってこないけれど朝と夜の電話はかかしたことがない。
自分のいる国が例え深夜だとしても、必ず、決まった時間に電話が入る。
そんな母の腕時計は、いつも日本時間に設定してあるのだ。
『凜、体調はどう?』「いつもと同じだよ」
『清太郎の言うことを聞くのよ』「分かった」
『何かあったら必ず連絡すること』「分かった」
という毎日繰り返される問答を、やはり今日も繰り返してから電話を切ると、ちょうど家を出る時間になった。
清太郎はあまり母の電話には出ない。
私が体調を崩して電話にも出られないくらいのときだけだ。
母いわく「清太郎は凜だけなのよね」だそうだ。
どういう意味?
「おいで」
家を出て鍵をしている清太郎をぼんやり待っていると、歩き出した彼にごく自然と手を差し伸べられる。
ふらりとよろめいて僅かに体を預ける格好になると、清太郎は満足気に笑った。
ただ手を重ねただけでなく、指と指を絡めるようないわゆる恋人つなぎだ。
さすがに、兄妹でこれはないんじゃないかと抗議してみたことがあるのだが、ごくごく純粋な眼差しで「何で?」と聞かれれば答えに詰まる。
更に、きゃっきゃっとはしゃぎながら手を繋いで歩く、ご近所にお住まいの兄妹を指差されれば反論する気も失せてしまった。
「今日は温かいね」
清太郎がにっこりと笑う。こくり、と肯けば、
「お昼は僕が保健室に行くから待っててね」と、つまり、勝手に外へ行くなよとけん制される。
熱があるのだから他出はしない、と言いたいところだが、これも前科があるので黙っておく。
そもそも、養護教諭の目を誤魔化せるとは思えないのだが。
そんな風に、時々にぎにぎと手遊びされながら徒歩二十分の学校へ登校する。
この学校に決めたのだって、何においても虚弱な私を満員電車には乗せられないという過剰な配慮からだった。
県下一の進学校であるにも関わらず、家から学校までの距離だけでここに決めた。
ハイスペックな清太郎はいいとして、幼少期からすでに起きている時間よりも眠っている時間のほうが長いと揶揄されていた私は勉強が遅れ気味だった為、そんな学校に入るのは非常に大変なことだった。
けれど、清太郎が付きっ切りで勉強を見てくれたおかげで何とか合格することができた。
清太郎には本当に頭が下がる思いである。
「よー、佐伯。重役出勤ってやつか?」
もうそろそろ校門が見えようかというときに背後から声がかかる。
振り向けば、のっしのっしと金髪の男がこちらに向かって歩いてくるところだった。
「木島、お前こそ人のこと言えないだろ」
清太郎のクラスメイトだ。何度か顔を合わせたことがある。
着崩した制服と、耳に下がるいくつかのピアス。顔立ちは整っているが、その分、威圧感を与える風貌だ。特に、真面目を絵に描いたような生徒が集まっている我が校では非常に目立つ。
「凜ちゃんも、はよ。相変わらず可憐だねぇ」
いつの間にか私を挟むように並んだ木島が何の躊躇いもなく頭を撫でてくる。
「妹に触るな、名前を呼ぶな」
清太郎は、つい、と私の腕を軽く引っ張って木島の手を避けさせる。
おはようございます、と返そうとした私は言葉を飲み込んだ。
見上げれば、愉快そうな顔をした木島が、
「お前、本当残念な奴だな。完璧超人天才と言われる佐伯清太郎がシスコンとは」
ククク、と堪え切れなかった笑いを漏らす。
シスコンな時点で完璧ではないのでは、という疑問が頭を過ぎったが黙っておく。
「うるさい奴だな、とっとと行け」
清太郎は意にも返さない様子でしっしと軽くあしらう。
それにしても、今更、シスコンと指摘されて少し新鮮ではある。
何分、清太郎は幼少期、いやきっと生まれたときからこの調子なので、もはや同級生には周知の事実だったのだ。皆が知っていることをわざわざ指摘してくる人間はいない。
それでも時々、私と清太郎の関係を揶揄して近親相姦だとか何とか絡んでくる人間はいたが、そういう輩はことごとく清太郎と、幼馴染たちが制裁して回った。
実際に何をしたのかは教えてもらえなかったが、中学校に進学する頃には、私と清太郎の関係に口を出す人間はいなくなっていた。
だから、こんな風に面と向かって「シスコン」と口にされるのは久しぶりではある。
「んー、凜ちゃん。そんなに見つめないでよ。穴が空きそう」
木島に苦笑されて、食い入るように彼の顔を見つめていたことに気づく。
言われた瞬間、背後から目元を隠された。
「駄目だよ、凜。こんなの見ちゃ」
清太郎が手で目隠ししている。
突然のことに転げそうになったところでやんわりと体を支えられる。
「いやー、そこまで徹底してると、もういっそ清清しいわ」
真っ暗になった視界で木島が笑っている声が聞こえる。
「清太郎」
案に「離して」という為に名前を呼べばあっさりと手を外される。
急に目隠しされて文句の一つでも言ってやろうと見上げれば、ニコニコ笑っている双子の兄。
名前を呼ばれたのが嬉しいらしい。
乱れた前髪をさささ、と直されて、ついでに恋人つなぎの手も改めて握りなおされる。
「凜は僕だけ見てれば良いからね」
ちゅ、と額に唇を落とされて、
「はいはい」となぜか木島が返事をした。