8.ブスコン女神
咲耶も橘も伊邪那美も、このおばさん……じゃあマズイか。神様なんだし。この女神を特に低く扱っている感じはしない。むしろ深々と頭を下げたりしない分、親しみと尊敬を示しているように見える。橘なんか俺を押しのけていきやがった。
「それに、神界と地上では美に対する価値の高さが違います。神の世界では美しさを何よりも貴ぶのです。美しい物、輝くもの、良い音色、優美な行動、心清らかであること……」
うつむいてぶつぶつ言う岩長比売を俺はさえぎった。
「なんだ。神様の世界だって、見た目にこだわらない綺麗さがあるんじゃないか。行儀の良さやハートの綺麗さにも価値があるんだろ?」
「それが、表面の美しさに現れなくてはなりません。女神は誰にでも求められる存在でなくては。求められないばかりか、疎まれるなど言語道断なのです」
「俺なんか、貧乏女神に二人も憑りつかれて、うっとおしいけどな」
「まあ! あなたはこの二人を疎んでいるというのですか。そんなことわたくしが許しません。天誅!」
岩長比売がそう叫んで俺を軽く指さすと、とたんに俺はひどく心が沈み、暗い気分に襲われた。……というか、体の方まで重だるい。背中に岩でも背負わされたみたいだ。
「ダメ! 岩長さま! そんなことしたら理の不幸オーラが……」
咲耶がそういう先からいきなり部屋が揺れ出して、地震だと気づいた時には本箱から落ちてきた本の角が俺の頭を直撃し、ふらついた体をとっさに支えようとつかまったのが、まずいことに車輪付の椅子。当然俺はよろけてそのまま前のめりに倒れ、さらに背中に椅子が倒れてくるという始末。さっき柔らかい感触に恍惚とした頭と背中が、今は固いものにぶつかって痛みを訴えていた。
「いってえ。何なんだよ、一体」
「あ、その程度で済んでよかった。ダメよ岩長さま。理はオーラが凄いから、軽い天誅も何倍にもなっちゃうんだから」
「その程度って……結構痛かったぞ。見ろ、頭にこぶが出来てる」
俺は不満を訴えたが
「でも不幸の連鎖でさらに打ち所が悪かったかもしれないし。理は神罰にすごく過敏なんだから。もっと手加減してくれないと」と咲耶が説明する。
「手加減のないお前が言ってもな。俺は神罰に過剰反応するのか?」
「うん。過敏なうえに連鎖しやすいんだよねー。罰当たりな事には気を付けようね?」
もっと早く言ってくれ! こっちは貧乏女神に二人も憑りつかれているんだぞ!
「これは……失礼しました。あなたもそれほど咲耶たちを疎んでいるのではないのですね」
岩長比売が謝ってもこっちは命がけで「失礼」どころじゃ済まない……のだが、恐ろしいことに女神のめちゃくちゃさには耐性が付いてしまって、文句言う気にもならない。すると咲耶が小声で、
「理ぅ。岩長比売様にああいうこと言っちゃダメ。昔あたしのおばあちゃんに一目ぼれした神が結婚するときに、おばあちゃんと一緒に姉の岩長さまも結婚させたけど、見た目がおばあちゃんに劣るからって岩長さまだけ返されたの。それ以来岩長さまは容姿コンプレックスなのよ」とささやいた。
「一緒にって……。神が惚れたのはお前の祖母の方だろ? なんでわざわざ岩長比売まで一緒に結婚させるんだ?」
「神々の結婚って恋愛だけじゃ難しいの。おばあちゃんと結婚すればその国は美神と言われた容姿のように華々しく子孫繁栄が出来るし、性質と同じく燃え盛るように栄えることが出来るの。でも華々しいほど衰退って早いし、寿命だって削られちゃう。そこでおばあちゃんたちのお父様は、神同士が結ばれる以上より安定して末永く繁栄できるように、嵐や吹雪のような国難にも耐え、意志が固く揺るがず、とことん尽くす岩のような性質の岩長さまも一緒にして、国家の長い安寧を考えたの」
「うおーっ。ガッチガチの政略結婚じゃないか」
「神の世界じゃ、それが当然なんだよね。だからあんまり相手を選べないし、お豊ちゃんみたいな恋愛体質な子は物足りなくって人間への興味が強くなるみたい」
うーん。話を聞くと気の毒にも思えるが、夫婦仲がうまくいかなかったのも分かる気がする。実際、常識が違う女神と二人も一緒に暮らすのは精神的に楽じゃないし、どうしても本気で好きになった子の方に神経使うだろう。
でも、この岩長比売も咲耶を心配して地上に出てきたり、咲耶と橘のことで本気で怒ったりと性格は悪くない。こういう女神を常に『二番目』扱いにするのは誰にとっても苦痛だろうし、いっそ親元に返したほうがいいと考えるのも分かる。
「それより、岩長さまはあたしに用があって降臨したんですよね? おばあちゃんから何を頼まれたんですか?」咲耶が話をようやく本題に戻す。
「ああ、そうでした。わたくし、咲耶の火力調節の練習に付き合うように頼まれたのです」
「えっとぉ。お気持ちは嬉しいんだけど、地上にはなかなかいい練習場所がないんです。理にくっついてると山にも行けないし」
「ええ、ですからいいものを持ってまいりました」
そういって岩長比売は掌の上に何かを乗せて差し出した。俺が見るとただの平べったい石ころにしか見えなかったが、
「えーっ! あたしのためにそこまでしてくださるんですか?」
と、咲耶が驚いた顔を見せた。
「妹の頼みですし、わたくしもあなたに成長してもらいたいわ。あなたもわたくしも同じ山の神の子孫。あなたの中にも岩のように屈強な粘り強さがあるはずです。きっと火力を抑えるすべを手にできるでしょう。それに何より心鎮めることが出来ますし」
「でも……」
珍しく咲耶が躊躇している。何をするにも行動的で、容赦しない咲耶らしからぬ態度だ。
その表情には不安と、強い緊張が見て取れた。それでも岩長比売が微笑むと、まるで何か覚悟を決めたような表情で頷いた。俺はその場の緊張感から何も言えずにいる。
すると、岩長比売が突然化身した。黒々とした岩の姿になったのだ。岩だとばかり思っていたら、その横側に穴があり中が空洞になっている。重そうな岩なのになぜか宙に浮いている。俺の狭い部屋に浮かんでいるのだから、せいぜい半畳くらいのサイズなのだが、結構な存在感がある。
それを見て今度は咲耶の体が小さくなった。岩の半分くらいの大きさだろうか? そして岩の中に入っていく。横の穴が石でふさがれたが、それはよく見るとさっき岩長比売の手の平にあった石が大きくなったものだった。
「な……何が始まるんだ?」俺が橘に尋ねると、
「咲耶の火力調節のための特訓だよ。咲耶は今、岩長比売様の体の中に入ったんだ。岩長比売様の化身した姿は『天の岩屋』、閉じられた石は『天の岩屋戸』と呼ばれてる」と答えた。
「天の岩屋戸って、あの、天照大神が閉じこもったっていう、あれか?」
「そう。岩長比売様はお心の固い女神で、あの岩屋戸は一度閉じたら中にいる人の目的が達成されるまで何人にも開けることはできないんだ。昔、天照様が閉じこもった時もそうだった」
「ええと。岩屋戸の前で神様たちが宴会かなんかして、なんとかって女神が踊って天照大神を誘い出したんだっけ?」
「うん。話の上では弟の乱暴にショックを受けた天照様が閉じこもり、天宇受売様が面白おかしく舞い踊って戸を開けたとされているけど、実際は弟の愚行を抑えられず威厳を失った天照様を、岩長比売様がご自分の体内で慰めていたんだ。ところが威厳を取り戻されても、自信はそう簡単には戻らない。そこで岩長比売様は天照様に自信と誇りを思い出していただくために、神々に岩屋戸の前でバカ騒ぎするように頼んだ。あまりの無節操な騒ぎに天照様が思わず戸を開けて一喝しようとすると、そこには威厳を取り戻したご自分の姿が鏡に映っていた。その後神々が天照様を引っ張り出したけど、実は天照様はその時点でご自分に納得していたんだ。やっぱり自分が神々を導かなきゃならないんだとね」
「じゃあ、咲耶も自分に納得がいかないと、岩長比売の中から出られないのか。あの中で咲耶は何やってるんだ?」
「火力を自在にセーブする練習だよ。どんなに全開でエネルギーが沸き上がっても、コントロールできるように訓練してる」
「どんなにフルでって……あいつの火力は火山噴火並だろう? 岩長比売は大丈夫なのか?」と聞いたら、橘はとんでもないことを言った。
「……あんまり大丈夫じゃないよ。岩だって熱は伝わるし、時には溶ける。多少の暴発なら耐えるだろうけど、山の爆発を岩で抑え込むには限度がある。咲耶も限度を超えないように精一杯やるだろうけど、岩長比売様も命がけだ。いくら神でも岩である以上、砕けるほどの爆発をしたら、存在し続けられないと思う」
「なんだよ、それっ! 無謀すぎるだろ。なんでお前も伊邪那美も止めなかったんだよ!」
俺は思わず橘につかみかかって叫んだ。
「岩長比売様が決意されたら、誰にも止められない。あの方の意思は岩よりも硬くて……そのお心はどこまでも優しいんだ」
本当に……本当に咲耶のことを思っているんだ。夫になった人を独り占めにした女神の孫なのに。自分の命を張って信じるほどに。
「あの性格だから辞退しているけど、本当は天照様に準ずるくらい高い地位にいていい女神なんだ。岩長比売様を醜いと思ってる神なんて誰もいない。神界一、綺麗な女神だよ。岩長さまのコンプレックスは自分の父親や妹、元の夫を傷つけたくなくてすべてを自分の容姿のせいにしているだけなんだ」
政略結婚だの、家族の体裁だの、神様の世界もあんまり綺麗じゃないな。でも、そんな世界だからこそ、岩長比売の優しさは本当に綺麗だ。普通のおばさんなんて思って悪かった。
不意に何かがこすれるような音がして、焦げた匂いが広がった。見ると岩屋戸が開いて、ふらふらと咲耶が姿を現した。髪はすすけて、服は焼けこげだらけ。全身に火傷を負ってボロボロの咲耶はそれでもにっこりと笑ってVサインをして見せる。
岩長比売も化身を解いて、苦しそうに息をついた。吐く息からは煙が立ち込め、顔も真っ赤になっていた。相当きつかったらしい。
二人ともかなりつらそうだったが、俺は迷わず咲耶のそばに寄った。岩長比売が咲耶にしてくれたことを思えば薄情だが、俺は弱い人間だ。頭でわかっていてもいつもそばにいた女の子の事の方が心配だった。
「あたしは大丈夫。岩長さまの方を心配して」咲耶はそう言ったが岩長比売は、
「わたくしも大丈夫ですよ。よく頑張りましたね」
そういって岩長比売が手をかざす。すると咲耶の火傷が見る間に治されていった。岩長比売が苦しげに咳をするとまた煙とすすが吹き出し、狭い部屋中に舞い上がった。
「今、窓を開けます」俺がそういって窓に向かおうとすると岩長比売は、
「それでは追いつかないでしょう。でも、私ももう霊力が足りません。橘、わたくしに霊玉を」
そういって橘の霊力入りのボールを受け取ると、それを軽くふわっと投げる。するとボールは解体し、霊力だけがきれいに部屋の隅々へと広がると、そこに漂っていた煙も匂いも一瞬にして消え去った。橘はそれを感激のまなざしで見ているが、俺は感心してないでお前もこういう使い方を覚えろよと思う。
「これで咲耶もむやみに火を放つことはないでしょう。後はあなたの扱い方と心がけ次第。憑りついた理という人もとても咲耶を心配してくれましたし、きっと地位の向上が出来る事でしょう。わたくしも、あなたのおばあさまも楽しみにしていますからね」
咲耶にそう話しかける長岩比売の表情は、顔が赤いままでもすごく綺麗だった。彫の深さもあって、聖母像のような表情に見える。自分の身体も霊力を使えば回復できたのに、それを真っ先に咲耶に使い、橘の霊力も俺の部屋の空気を清めることにしか使わなかった。それでもすすだらけの岩長比売の姿は、とても綺麗に見えた。
思わずじっと見つめる俺の視線に岩長比売は気付いて、
「まあ! こんな見苦しいところを見られてしまって。咲耶たちの事、お願いしますね」
そう言って恥じらいながら岩長比売は姿を消してしまった。おばさんなんてとんでもない。なんだか若い女の子より可愛らしく見えた。
いや、それよりもお願いされても困る。屈強な岩の身体を持つあなたと違って、俺は生身の人間なんですから……。