15.海神の呪力
「速須殿を困らせるなどわたくしには許しがたいことでしたけれど、ここは海から遠いうえに残念ながらわたくし、全課程を修了するまで神罰が使えませんの」
お豊ちゃんは残念そうだが俺は心底ほっとした。同級生が急死する事態なんてお目にかかりたくないし、未来の嫁と付き合いだした速須とお豊ちゃんの対面も避けたい。お豊ちゃんは並外れた恋愛依存体質のサメの化身で、稲櫛だって大人しそうに見えてもあの猛烈嫉妬女神、須勢理比売の母親。しかも龍の化身と来ている。
「仕方がないので侍女に半身だけ姿を現させて、『のおと』なる物をそこに置いていくように命じさせたのです」
すると侍女と呼ばれている少女がプリプリしながら、
「その人達、私を見て『幽霊だ!』って言って逃げ出したのよ。女神の侍女であり、神の使いである私を見て怯えて逃げるなんて、失礼にもほどがあるわ」
とむくれていたが、その状況じゃ仕方ないだろう。まあ、そいつらの命に問題なかったんだ。その程度で済んでよかった。それにこの場に稲櫛と須勢理比売がいないこともありがたい。別に巨大ザメと龍の『怪獣大戦争』のような絵面にならなくても、女神三柱で嫉妬がらみの人知を超えた醜い争いなんて見たくない。
「お豊ちゃん。そのノートは俺と速須が共通の友人から借りて、なくしたと思っていたものなんだ。人からの借りものを返せなくて困っていたんだ。持ち主に返したいから、そのノート、俺に渡してくれ」
さっそく俺はお豊ちゃんにそう頼んだが、
「そうでしたの? でも、わたくしいつも巻物ばかり扱っていて、この『のおと』なる物が珍しくって仕方ないんですの。もう少し手元に置いて観察させていただけません?」
お豊ちゃんは好奇心丸出しでそういって、ノートを返す事を渋った。でもこっちは早く返してもらいたい。仕方がないので俺はこのノートの持ち主の性格をかいつまんで説明した。
「それにノートが珍しいなら、もっと女子向けの文房具を買えばいい。うちの親の店にそんなもの沢山あるし。それと交換しよう」
あ~、親の商売が百円ショップで助かった。
「こういうものの女子向けがありますのね? もちろんその方がうれしいですわ。……それにしても、その御友人のお言葉は一方的ですわね。少しその方にも反省を促された方がよろしいかと」
何を急に思いついたか、お豊ちゃんが余計なことを言い出した。
「いや、俺は無事にノートさえ持ち主に返せれば、特に遺恨はないんだ。そもそも人から借りたものを、速須に預けた俺が悪いんだし」
ところがここで橘までもが、さらに余計なことを言い出した。
「でもさ、その友人は性格が頑固すぎても反省しないから、それを改善させるために須勢理比売が使わされたんだよね? だったら、これはその性格を改善させるチャンスにならない?」
するとお豊ちゃんが調子に乗って、
「まあ! そう言うことならお任せくださいな。ちょっと『のおと』に念を込めましょう」そういって何やら手を合わせ、つぶやき始めた。
「かしこみかしこみ、世の清らで恵み豊かな海水の満所を統べる海神に願いを申し奉り……」
「お豊ちゃんは、何のまじないを始めたんだ?」俺が橘に聞くと、
「おまじないじゃないよ。お豊ちゃんは自分のおじいさんの海神に『天啓』を送ってるんだ。今の人だって電話で『もしもし』って呼びかけるよね? あれってもともと『申します、申します』を略したものなんだ。それと同じような物」
「へーえ。なんか、呪文でも唱えてるように見える」
「神社の神主は今でも神々に古い言葉で祝詞を唱えるよ。今は珍しくても昔は普通にこういう言葉を使ってたんだ。僕たちの祖父母位の神々には、こういう言葉の方が天啓が届きやすいんだ」
そんなことを言っているうちに、ノートがお豊ちゃんの手の中で輝き出した。まるでさっきの呪文が効いて魔法でもかかってるみたいだと思っていたら……光に包まれたノートが忽然と消えてしまった。
「ええ? ちょっと、ノートを勝手に消さないでくれ!」
俺がお豊ちゃんに訴えると、まるで何事もなかったかのように、ノートはお豊ちゃんの掌中に現れていた。
「ご心配なく。おじいさまの海神にお願いして、この『のおと』なる綴り紙に呪力を授けていただいただけですわ」そう言いながら俺にノートを渡してくれる。
「呪力? いったいどんな?」不安そうに俺は尋ねたがお豊ちゃんは、
「その御友人の性格改善に役立つ力ですわ。大丈夫。おじいさまはむやみに人を傷つけたり困らせたりするような術を使ったりしませんから」
いやいやいや。以前橘から、その神が酔っぱらった勢いで大津波起こした話、聞いてるから!
「本当なら、わたくしが直接天罰を与えても良かったのですけれど……今は色々規則に縛られていますので。残念ですわ」
残念がらなくていいよ。お豊ちゃんじゃ、それこそあのバカップル夫婦神以上に何をするか分かったもんじゃないし。お豊ちゃんよりは人に理解がありそうな海神様なら、いきなり隼人を殺したり不治の病に憑りつかせたりはしないだろう。
これ以上話がややこしくなったり、俺がお豊ちゃんにつけ狙われる立場になったりするのも困るし、ここはお豊ちゃんに妥協するか。
俺は早速ノートを隼人に返しに行った。隼人は急に紛失したはずのノートを持ってきた俺を訝しんだが、俺の表情を見て素直に受け取った。
「……まあ、その顔じゃ、よほど苦労して探し出したみたいだからな。今度の件は水に流そう」
行動的にはそれほど苦労はしてない(多少の出費はあったが)。ただし精神的には結構苦労したので、そこを察してもらえたのは報われた。しかし、
「だが、自分でノートを書かないで人任せにしたのは納得してないからな。こっちはお前の成績を心配してやったのに。もう、ノートは取らなくていい。来週からのテストは自分で勉強して赤点を避けるんだな」
と、やっぱり憎たらしいことをわざわざ言う。
「お前だってノートを取ってもらわなきゃ、それなりには困るんだろ?」
「授業に出るさ。実際、体調には全く問題がないんだ。お前らをアテにするなんて非効率的な事をするぐらいなら……」
そう言いながらノートを開いた隼人が、なぜか目をぱちくりさせた。ついで目を激しくこする。
「どうした?」
「いや……。なんだか急に眼がぼやけて。文字が読めない」
隼人はそういって何度も繰り返し瞬きをしたり、眼をこすって見たが、ついには
「やっぱり、まだ体調がどこかおかしいんだろうか? せっかく理が苦労して見つけたノートなのに」そう首をひねり、再度ノートに目をやった。すると、
「あれ? 読める。どうなってんだ?」
「素直に感謝せずにひねくれたこと言うから、何かの罰でも当たったんじゃないか?」俺が白々しくそう言ってやると、案の定隼人はムキになって、
「バカ言え。お前は自分の失くし物を探してきただけだろうが。いちいち感謝なんか……あれ? また読めない?」
おお、こりゃ、マジだ。本当に海神様が隼人の性格改善のために呪力を与えてくれたらしい。このくらいなら隼人の身に危険なことはないし、頑固な態度を見せるたびに勉強ができないなら、テスト前のこの時期だ。隼人もちょっとは態度を改めそうだ。
隼人はさんざん首をひねっていたが、とりあえず休んで明日にも医者に診てもらうと言った。真相を明かしても信じるはずもないので、俺はお大事にとだけ言って部屋を出ようとした。すると隼人が、
「いろいろ手間かけて悪かった。……ありがとう、な」
と、俺の背に声をかけた。やっぱり隼人は根っからひねくれてるわけじゃない。それに海神の呪力も結構効いているらしい。
隼人の家から帰る途中で、俺はちょっといい気分で橘に話しかけた。
「橘。ありがとう。これで隼人の嫌味を聞かずに済むし、この分ならテスト前にノートも見せてもらえそうだ。隼人は性格改善。俺はテスト勉強に追われない。お前と咲耶は安心して特訓できるだろう?」
「うん! 理も勉強、頑張ってね!」
「ああ……って、俺、勉強に追われずに済むって言ったんだけど」
「ううん。それじゃフェアじゃないよ。隼人って人は理を本当に心配してくれてるんだもん。今度は理が応える番だよ」
「……どういうことだ?」
家についたら理由が分かった。自分の部屋に入ると、咲耶のほかに岩長比売が俺を待っていた。
「先日はお世話になりました。今日は海神にお願いされまして、あなたの御友人の杞憂を払しょくするお手伝いに参りました」
「へ? なに、それ? 聞いてないけど」驚く俺に橘が、
「だから、さっきも言ったようにこのままじゃ隼人と理はフェアじゃないんだ。隼人が理たちに頑なな態度をとる一因には、理が勉強をあまりしていないこともあるんだから。魂を和らげるためには理も友人として努力が必要ってこと。海神様はそこを考えて、岩長比売様を使わしてくれたんだよ」
と言って、あの天の岩戸の戸になる石を岩長比売に捧げる。あれよという間に岩長比売は天の岩屋に変身してしまった。
「岩長比売の体内なら、勉強にはうってつけよ! 『赤点』とやらにならない自信がついたと納得できるまで、外には一歩も出られないから!」
抵抗する俺を橘が引っ張り、後ろから咲耶までもが俺の背中を押す。
「ちょ、こんなの、無理やりじゃないか! 学校は、学校はどうするんだよ? 授業に出られなきゃ本末転倒だ!」
「ご心配召されずに。わたくし、呪力が近年進化しておりまして、拡大縮小するだけではなく、この身を透明にもできますの。外から見ればあなたはご自由に動いてらっしゃるように見えますわ。もちろん登校も可能です。勉強に必要な音声も聞き取れます。……他はすべて遮断されますけど」
岩長比売の説明と共に、俺はとうとう無理やり岩屋に押し込まれた。無情にも戸が閉まる。
「じゃ、あたしたちも特訓再開するから、理も頑張ってね!」
そういって、咲耶がウインクをする気配を感じる。……もうすでにその姿は遮断されて見えていないが。
赤点採らない自信って……。俺、ここを出られる気がしないんだが。
助けて~! 神様~あっ!