11.妻と娘は女神
俺たちが不良グループに襲われた後、稲櫛は俺の家の隣のアパートに越してきたとのたまった。速須はほっとしたような、がっかりしたような、実に器用な表情を見せる。
「は? なんで俺の家の隣なんかに?」
「もちろん私的には未来の夫、速須君の家の近くがいいのだけれど、あのあたりが一番神界から降臨しやすいの」
美少女の言う『未来の夫』という言葉に一瞬速須の鼻の下が伸びたのを確認したが、俺はそれどころじゃなかった。
「ちょっと待った。降臨しやすいって……。咲耶と橘が現れたのも、他の神々が次々俺の部屋に来るのも」
「神界からの降臨ポイントとして設定しやすいからよ。山佐君の家族は自宅が売却されそうになった時も隣のアパートに暮らしていたでしょ? あれも山佐君があのあたりから離れないように神界で調整していたの」
俺は一気に複雑な気分に陥った。うちが自宅を手放しかけた時、俺の学校関係のことももちろんあったが、愛着ある家から離れてしまうのが忍びなかった。なんとか家が売れてしまう前に取り戻したくて、とても切ない思いで俺たち家族は隣のボロアパートに移り住んだ。それなのに実は神の誘導に乗せられていたとは。
「本当に、お前らって人の生き方、振り回してくれるよな……」
俺の愚痴などお構いなしに稲櫛は『降臨ポイント』をより安定させるために俺の隣に引っ越してきたことを説明していた。速須はヘコむ俺を気遣って背中を軽くぽんぽんと叩くが、稲櫛はてんで気づかない。
「あそこは降臨しやすいうえに、古代からある大きな社からもあまり離れていないし。咲耶と橘の指導もしなくてはならないしね」
これに咲耶と橘が反応した。
「え? 櫛名田比売様が私たちの指導係なんですか?」
「ええ。このままあなたたちが自己エネルギーをコントロールできるようなら、貧乏神から辻道を守る道祖神にクラスアップさせるわ。山佐君の家の隣の辻。あそこは道祖神の猿田彦が管理しているから、私が指導して問題がなければ辻の管理をあなたたちに任せようかと」
「俺んちの周辺は神様の寄合所かよ。いくら世に八百万の神がいると言っても、偏りすぎだろ?」
そんな俺の愚痴など咲耶と橘の耳には届かず、
「わあっ! じゃあ、櫛名田比売様のご指導さえ終えれば、あたしたちは道祖神にクラスアップできるんですね!」
と大はしゃぎしている。
「よーし! 咲耶ちゃん。僕らも全力で張り切ろう!」
「うん!」
二人とも全身から……それでなくても多すぎる……霊力をあふれ出しそうな勢いで張り切っている。
「ふ、二人ともそんなに力を込める必要はないからね。あなたたちの課題は、力のセーブなのだから」
稲櫛だか、櫛名田比売だか……もう良く分からないが、顔をひきつらせて二人をなだめている。さすがの稲櫛もこいつらのエネルギーを抑えるのは簡単ではないのだろう。鉄の鱗を持った龍女をドン引きさせるのだから、二人ともたいしたもんだ。
「お前の嫁もなかなか大変そうだな」俺が速須にそういうと、
「嫁って呼ぶな! まだ付き合ってもいないのにっ」と文句を言われる。
「でも未来の嫁だろ? 夫婦で苦悩を分かち合えばいいじゃないか」
「まだ恋愛もしてないんだぞ! イイ所飛ばされて、苦悩だけ分かち合えってか!」
そんなことわかってる。だが、お前が先々美人と(中身は龍神だが)イイ思いすることも決まっているのだ。はっきり言って癪じゃないか。許せ友よ。これが男の嫉妬というものだ。
そこに稲櫛が口を挟んできた。
「まあ、分かち合ってはもらえないの?」女神らしからぬ可憐さで聞く。
「いや、でも、まだ元夫婦の実感ってものが……」
「神界で夫婦だった頃は、田に雨を降らせる龍の私にあなたは雷を落として、それを私が避けるのを笑いながら追いかけ、人に豊穣の恵みをもたらしていたのに……」
なんだ? その、超壮大なのに本質的にはカップルの「待て~」「ウフフ」なイチャつきっぷりは。
「あー。そういえば、度が過ぎて伊邪那美から黄泉の国の管理に回されたことがあったような……?」
思い出しとるんかーい! しかも結構な大事をうっかりミス的な思い出にしてるし。
「そうそう。でも、あなたは私を櫛に変化させて、いつも髪に挿して一緒にいたのよね。あなたは本当に優しくて、厳しく接した娘婿にもほかの神から虐待された時は黄泉の国にかくまってあげて……」
「娘婿って。俺、娘がいたのか?」さすがに速須も驚いている。
「ええ。そういえば、娘夫婦も出雲から遠路はるばるこっちの神社に来ているの。まだ生まれ変わっていないから神体だけど」
「娘に……婿……。未来の嫁に今日出会ったばかりなのに……。まだキスはおろか、手も繋いでないのに……」
速須もこの若さで子持ちと婿取りが決定か。……からかうのもほどほどにするか。こいつの振り回されっぷりも相当なもんだ。
「速須君にも将来の娘を紹介するわ。きっと娘も喜ぶでしょう」
その速須は「会いたくなーい!」「手順を飛ばし過ぎだー!」と嘆いていたが、稲櫛は容赦なく速須を引っ張っていく。咲耶と橘は稲櫛のお供。俺は好奇心に耐えられずに付いて行く。
俺の住む街は都心郊外のベッドタウンで、都内の端っこにある学校の生徒の半数以上がこっちの街周辺から通っている。学校の最寄り駅まで電車で三十分弱の通学圏内だ。大きな神社があることが地名にもなっていて、同じ名を持つ小さな神社が周辺にたくさんある。
だがその神社はあまりメジャーなイメージがないし、地元に住んでいるとその神社の敷地だった巨大な公園のほうが、ボート池や小動物園、スポーツ施設、花見と紅葉のスポットとして有名なので印象が強い。しかし実は関東でも特に古い歴史ある神社だと聞かされてはいた。
閑静な住宅街を少し歩くと、すぐに公園の森がある。都会の貴重な緑に囲まれた場所だ。新都心と呼ばれる場所からも比較的近いが、歴史ある神社の森なので保護されているのだろう。そこはもう神社本殿の裏手だった。
「もうすぐ未来の娘に会えるわね」
稲櫛はにこやかにそういうが、速須の方は「夢が無くなった……」と嘆いている。
「考えようだろ? 少なくとも一生独身の憂き目は見なくて済むんだし。しかも稲櫛なら将来美人間違いなし。娘も多分かわいいぞ」
俺はそういって慰めてやる。速須の方に似たらわからないが、そこは突っ込まないでおいてやろう。
「でも、婿にかっさらわれるんだよなぁ……」
諦めたのか、観念したのか、なぜか速須に父性が芽生えたようだ。
「あ、あそこにいたわ。須勢理毘売! 久しぶり……ね?」
そう言ったまま稲櫛はその場で固まった。目に飛び込んできた光景があまりに異常だったからだ。
「あら、母上。学校はもう済んだのですか? てっきり今日は真っ直ぐお帰りになるかと」
いかにも女神らしい超ロングのストレートヘアーの少女が、愛想よく振り返った。稲櫛の娘というより妹くらいに見えるが、そこは女神なので仕方がない。だがその手には太いロープが握られている。そのロープは太い木の枝に掛けられていて、そのロープの先にはあろうことか青年の足に括り付けられ、その青年は逆さ吊りにされていた。
青年は長い長髪を無造作な感じに結んでいて、耳にピアスをしていた。ダンサーとかやっていそうな雰囲気だが、今はあわれに顔をゆがめて苦しんでいる。
「須勢理! 自分の夫に何をしているんですか!」
さすがの稲櫛もこれを見て叫んだ。
「これ? お気になさらずに。ただのお仕置きですから」
お気になさるわっ! なんだ? 速須の未来の娘はSだったのか? これはこの夫婦のプレイなのか???
「いけません! 早く大国主神を下ろしなさい! 何ですか、自分の夫をそのように粗末に扱うとは!」
「だってぇ。大国主ったら、何度も何度も前妻の八上比売と天啓を交わしているんですもの。また、浮気の虫がうずいたに違いありませんわ」
そう言ってふくれっ面を見せる須勢理毘売に宙づりのまま大国主が反論した。
「ちがーうっ! 母親に会いたいというお前に付き合って黄泉の国を留守にしているから、八上比売に留守中の様子を訪ねていただけだっ!」
「そんなの、わざわざ前妻に頼まなくてもいいじゃない」
「今は神々が遷宮の前後で移動しやすい時だから、あまり留守番を頼める神がいないだけだ。八上比売は因幡が実家だから近くて頼みやすかったんだよ」
「え~? ほんとぉ? そんな事言って、こっそり越の国の沼河比売とも交信してたんじゃないの~?」
「してないって! 天照様に誓ってもいい! 何なら神界で交信記録を全部調べてもいいからっ」
「ん~、そんなに言うなら信用するわ」
そういって須勢理毘売はようやく大国主を地面に下した。
「まったく。あなたの嫉妬深さは少しも治っていないのね。いったい誰に似たのかしら」
ため息をつく稲櫛に須勢理毘売は、
「あら、そんなのわたくしのせいじゃありませんわ。イケメンでモテすぎる大国主がいけないのよ」
この女神は夫を持ち上げたいのか、こき下ろしたいのか、良く分からない。
「わたくしの審美眼にかなう男神なんて、この世に二人といませんけどね。そのわたくしがこんなに愛情を注いでいるのだから、大国主は他の女神など目に入らなくなっていただかないと」
キョーレツな自信家であることだけは確かなようだ。
「もう少しおしとやかにしてください。せっかく、未来のお父上に来ていただいたのに」
稲櫛のこの言葉に須勢理毘売は飛びあがった。
「ええ? 父上を連れていらしたのですか? ひっどーい! そんなこと一言も知らせてくれなかったのに!」
そう言いながら必死に乱れた髪を直したりしている。