10.変身女神
「またの名を櫛撫比売、櫛稲田比売でもいいわ」
これ以上女神に振り回されないために、普通の女子に恋しようと思った相手が、よりによってまたもや女神だった。それだけでも衝撃度は高いのだが、櫛名田比売はさらに速須にトドメを刺す言葉を発した。
「それに速須君。あなたは私の運命の人なの」
これは……速須が女神に口説かれるのは二度目。しかも一度目は殺されかけている。立て続けの異常事態に速須の顔はすっかり引きつっていた。
それに女神の言う「運命の人」は要注意だ。咲耶だっておれと出会った早々に「理想の人」と言っていた。こいつらは同じ日本語を話しながら、その内容を吟味する必要がある。
「速須は女神が口説きたくなるようなオーラでも持ってるのか?」
「違うわ。言葉の通りの意味よ。彼はわたくしと結ばれるためにこの世に生まれた人なの。彼の魂はわたくしの夫、速須佐之男命の物に間違いないわ。夫はわたくしが八俣の大蛇の生贄として献上されそうなところを助けてくれて、わたくしと結ばれた。そして幸せに暮らしたの。……もうずっと、遠い昔の話だけれどね」
櫛名田比売は懐かしそうに語る。スサノオって、あの有名なオロチ退治の神様か。フルネームなんて知らなかった。時間間隔の違う女神が遠い昔というのだから、俺たちには想像もつかない昔の話なんだろう。
「でも須賀の地が平和で豊かになると、わたくしたちはその地やゆかりの地に祭られるだけの存在となった。けれどわたくしはそれが物足りなかったの。夫はわたくしを助け、素晴らしい神社を建て、稲田の神であるわたくしのために毎年多くの稲を実らせて幸せにしてくれたのに、わたくしは夫に十分な愛を返していない気がしたから」
話を聞く限りじゃ、確かに一方的に助けてもらった感じだな。
「すると夫が言ったの。『私が最も喜ばしかったことは、お前と出会えたこと。私を喜ばせたいというのなら、二人で人の世に生まれ直そう。しかし神としての務めもないがしろに出来ない。互いを見つける縁に出会った時の霊力だけ生まれ変わる身に残し、他の魂は神の仕事をする。出会いの喜びを、また共に感じ合おう』って。夫は私と出会う前と同じように若くして母親を亡くし、父親と仲たがいしながらも、時には帝となってわたくしを見つけ入内させたり、長者となってわたくしを嫁にしたり、商いを起こして大店の主となってわたくしを娶ったりしたの。どの時代もそれはもう、大蛇を倒した時と同じように有能だったのよ」
「はあ。そりゃ、ごちそうさま」
うっとりと語る櫛名田比売には、そう答えるしかない。
「でもね。それじゃやっぱりわたくしは夫に見つけてもらうだけの人生になるでしょ? 何度転生しても、大蛇や夫に献上された飾り物のような存在のまま。わたくし、もっと積極的に夫を愛したくなったの」
そろそろ話が怪しくなってきたぞ。
「それでね、夫がわたくしを助けた時に大蛇の腹から現れた草薙の剣。あれに夫の猛き心や荒ぶる心を納めて天照様に忠誠の証に献上しているんだけど、それをちょっと拝借して、夫が転生するときにその剣で夫の霊力を切り取ってわたくしが預かることにしたの」
「えーと。そのこと、夫に了解を取ってあるのか?」俺が恐る恐る聞くと、
「まさか! 絶対反対されるもの。自分がわたくしを見つけるって。でも、今度ばかりはわたくしが夫を見つけたかったの。……ああ、それなのに。草薙の剣で霊力を切り取ったせいか、今度の魂は荒ぶる心を残してしまって、いつものように母親が他界して父親と不和になったら、あっけなく魂が荒れて知恵も勇気も見失って品性のかけらもない人物になってしまって……」
言いたい放題の櫛名田比売に、ようやく速須がツッコミを入れた。
「ちょっと待てー! じゃ、俺のおふくろが早死にしたのはお前のせいか!」
「わたくしのせいではありません。生まれる前からの運命です」
「お前らが余計なことしなけりゃ、おふくろは死ななかっただろうがっ! 人の人生もてあそびやがって。変な運命とやらと一緒に勝手に転生するんじゃねーよっ!」
「そんな事、人もたくさん行っているではありませんか。家畜を飼ったり、ペットを飼育したり、害虫を処理したり」
「人とほかの生き物を一緒にすんなっ!」
「なぜ? 同じ命を与えられ、同じ魂を持つ物でしょう? 人が人として最良な事を行うように、神は神として最良な事を行っているだけ。すべてが正しいとは言えなくても、神の理の中で行われていることよ。それもすべての魂に平等に。人は生物の命に明らかな順番があるじゃないの」
いかん。価値観が違いすぎる。しかも理屈としては微妙にあっちの方が道徳的なだけに分が悪い。こりゃ、お手上げだ。
「それにしても、草薙の剣の力は厄介ね。粗暴な気質だけでなく、マザコンまで呼び覚ましてしまって」櫛名田比売の言葉に速須は
「マザコン、言うなーっ! これが人間として普通の感情なんだ!」と叫ぶ。
「でも大丈夫。切り取った霊力を返せば、父親との不和も母を失った悲しみも忘れられますから」
「冗談じゃねえええ! 勝手に人の感情操作するなっ」
「感情操作ではありません。元の魂の在り方に戻すだけです。共に出会いの喜びを分かち合うために」
「そんなもん、いるか! 俺はお前なんか……お前なんか、大っ嫌いだ!」
速須がそう叫んだとたんに、櫛名田比売の動きがぴたりと止まった。白い顔が真っ青になり、表情がこわばる。瞳には大粒の涙が浮かんできて、その目は心の傷を受けたことを表していた。
「わたくし……わたしが、嫌い、ですか」
「あ……、いや、だけど、その……」速須はしどろもどろになった。その時、
「よう、速須。こんなところで美人と痴話喧嘩とは、呑気だな」
と声をかけたのは忘れもしない……というか、咲耶が付けた火傷の跡をはっきりとその顔に刻んだ、あの不良だった。いつものおまけ達もぞろぞろと従えている。
「速須はあんたが嫌いだとさ。俺はタイプだ。ちょっと面貸してもらおう」
そう言いながら火傷の男が櫛名田比売に手を伸ばした。しかし、
「いってえ! なんだ、この硬い木のとげみたいなのは」
顔をしかめてすぐに手をひっこめる。
「案ずるな。研ぎ澄ませているが、ただの櫛の歯よ。傷は浅いわ」
そういう櫛名田比売の手には目の細かそうな櫛が握られていた。やっぱ女神はコワイ。手を出す相手を間違ってるなと俺は呑気に構えていたが、咲耶と橘は、
「まずいわ。櫛名田比売をこちらへ」と焦っている。
しかし、そういう間にも櫛名田比売を大勢の不良たちが取り囲み、比売の姿が隠れてしまった。……かと思われたが、彼らの足元の隙間に比売の姿が垣間見えた。 どうやらしゃがみこんでしまったらしい。身体ががくがくと震えている。
「しまった。助けなきゃ」橘が動揺しているのが分かる。
「待てよ。あいつ、自由になったら速須の感情を消すつもりだろう? そんなことされちゃ困るし、あれも演技なんじゃないのか?」
「そんな事言ってる場合じゃない! 櫛名田比売は姉比売たちを八俣の大蛇の頭に取り囲まれた挙句餌食にされているから、大勢に取り囲まれるのが本当にトラウマなんだ」
見ると比売は全身これ以上ないほど震えながら、脂汗をにじませている。こりゃ、本気でヤバいかも。
さらに俺たちのうろたえ振りを見て火傷男が調子に乗って言った。
「生意気言ってないで、俺たちの言うこと聞いてりゃいいんだよ。速須、この子に手を出されたくなけりゃ、この顔の御礼を黙って受け取りな」
「やめとけよ。その子と俺は関係ない」速須は言い返したが、
「どうかな? お前たち全員ちょっとでも動いたら、その子の顔は痣だらけになるぞ」
と脅し返してきた。しまった。厄介な女神だが、怯える女の子をこいつらに殴らせるわけにもいかない。戸惑っているとさっそく火傷男が速須に殴り掛かっていった。一発、二発。さらに腹をけられて速須がひざから崩れる。すると、
「……おのれ。……恥じ、知らず、たちが……」
震えて顔中涙だらけになった櫛名田比売がつぶやいた。長い髪が白く変わってゆき、肌の色も銀色に変わる。そして鱗が浮かんできた。目のくらむような閃光が比売の身を包む。
輝く比売の身がうねりを上げたかと思うと、空高く舞い上がった。そして上空に姿を見せたのは……銀色に鱗を輝かせる、龍の姿。眼光が赤く鋭く光っている。
「おんどりゃあ、人のくせに神の魂宿すわが夫に……」
堅そうな鱗に覆われた尾を高く振り上げ、
「なぁ~に、さらしとんのじゃーっ!」
ちょっと龍さん……というか、比売。どこでそんな言葉覚えた? と、突っ込む間もなく尻尾が振り下ろされる。当然不良たちは全員なぎ倒された。どうやら気を失ったらしい。
ほっとしていると今度は龍が真っ逆さまに落ちてきた。痛みを忘れて速須が龍の下へと走る。俺たちも慌ててそれに続いた。落ちるうちにその身は縮んでいく。人ほどの大きさになった龍を全員でキャッチしたが、かなりの衝撃を感じる。よく見るとその鱗はすべて鉄でできていた。衝撃があったはずだ。これでさっきの特大サイズの尻尾でなぎ倒されたんじゃ、そりゃあ、気も失うだろう。
「大変! 限界に達してキレた後だから、霊力をすっかり使い果たしちゃってるわ!」
そっと龍を横たえ、様子をうかがっていた咲耶が顔色を変えた。
「霊力ないと、まずいのか?」
「神としてなら存在を保てるけど、人としてはもう無理。命が尽きてしまうの」
「それって、稲櫛撫子が死んじまうってことじゃないか! 橘、前に岩長比売がやった霊力を与える方法、お前に出来ないのか?」
「それが出来るなら貧乏神なんかやってないよっ! あれはめちゃくちゃ高度なんだ」
「ちくしょう。他に助ける方法はないのか?」目の前で女の子が死にかけているのに。
「……ある。方法が」突然、速須がつぶやいた。
「ぼんやりだが思い出した。俺はいつも人生を終える前に、自分の命をつなぎとめる何かの力が自分の中にあることを意識していた。でも、その力は誰か大切な人とつながり続けるためにどうしても使っちゃいけないものだと思っていた。だから死を受け入れていた。たぶんそれが櫛名田比売の言う互いを見つける縁の霊力だ。俺の霊力を切り取って持っているなら、きっとこいつはそれを使っていないと思う。……俺がこいつのために使わなかったように」
速須。記憶はなくても魂の何かが、お前と比売のことを覚えているのか?
「戻ってこい。俺の霊力を使うんだ。俺に縁なんかいらない。お前の愛情は良く分かっている。神のお前のことは分からないが、俺を命がけで守ってくれたお前の想いは伝わった。櫛撫子! 俺は人としてのお前が嫌いじゃない。だから、人の俺のために、生きてくれ!」
速須が櫛名田比売に呼びかけると、鉄の鱗が皮膚に変わり、髪の色も黒く染まっていった。そして人の姿になり、さらに顔色は健康的な色を取り戻し、髪もショートカットに変わっていった。もとの稲櫛撫子に戻ったのだ。そしてそっと起き上がった。
「櫛撫子……久しぶりにその名で呼ばれたわ」そういって速須を見つめる。
「ごめん。本当はほとんど覚えていないんだ」
「いいの。私……あなたに嫌われたんじゃないなら」
「嫌いになりようがない。まだ、撫子のことは何にも知らないんだ。運命だって、お前にはどうしようもないことなんだろ?」
「……ええ、ごめんなさい」
「どうしようもないことで謝らなくていい。それより、俺は撫子のことをどこまで好きになれるかわからないし、月並みだけど友達からってことで、いいかな?」
「うん、ありがとう」
嬉しそうに稲櫛が頬を染めると、速須の方も顔を赤らめていた。
「……あれ? これって、速須と女神のカップル誕生ってこと?」
俺が間の抜けた質問をすると、「そうだね」と咲耶と橘が同意した。
「で、俺はますます『ぼっち』が進んだってことか?」
「心配ないよ。理にはあたしたちがいるじゃない」咲耶がお気楽に答えた。
おいおい。失恋決定の上に友人が女神の彼女持ちとか。……俺の不幸オーラは、簡単に弱まりそうもないなー。