第73話
季節は、夏の終わりへと移っていた。
都内のビル街なのに、どこからともなく聞こえる蝉の声は、奇妙な郷愁を感じる。
子供の頃、よく兄や兄の友達と一緒に虫取り網片手に蝉取りをしたり、近くの田んぼの水路にザリガニ取りをしにいった。
当時まだ開発が進んでいなかった地方都市の田舎町。そこを走り回って子供時代を過ごした。
今は開発の手が伸びて、その田舎町も田んぼも、マンションが建っていて、あの風景はもう、私の記憶の中にしかない。
それは、もう、あの頃には戻れない、過ぎてしまった時間は、もう取り戻すことができないことを暗に私に示唆していた。
テレビ局の近くの、お洒落なカフェ。
ここは、裏通りにあるせいか目ただない穴場で、テレビ局の人やその関係者がメインに利用している所だ、一般の人はまず来ないだろう。私もバイト時代、よくお世話になった。
時間は、21時。
カフェのお客さんも随分減ってきている時間だ。
そのカフェの、あまり目立たない席で、私は一人で待っていた。
司さんがキャスターをしている報道番組の生放送は19時まで。
その後、雑務や反省会もあって、テレビ局を出るのはこれくらいの時間になってしまう。
兄に、司さんのスケジュールを聞いたら、今日は、報道の仕事が終われば、今日の仕事は全部終わりだと言っていた。
・・・だから、呼び出した。
この時間に来て欲しい、とメールすると、司さんは戸惑い一つなく“いいよ”と返事をくれた。
“遅くなるかもしれないけど、それでもいいなら、必ず行くから待っててくれる?”
と、まるで歳の離れた子供に言い聞かせるように言ってくれた。
私は、司さんを待ちながら、何度目かのコーヒーのお代わりをした。彼が遅いのもあるけれど、私も早く来すぎてしまったので、妙に時間を持て余す。それに、少し落ち着かない。
どうか、決心が鈍る前に来て欲しい・・・
祈るように待っていると、カラン・・・とドアが開く音がした。思わずドアの方を見ると、そこには待ちかねたあの人が立っていた。
黒い襟のついたシャツに、デニムのパンツ、黒ぶちの眼鏡に帽子を被った、ちょっと見、司さんには見えなかった。
ついさっきまで、背広姿で真面目な顔をしてニュースを読んでいた人とは思えない、年相応な芸能人の私服姿だった。眼鏡で顔を隠すのは、結構みんなやっているけれど、考えている以上にカモフラージュの効果があるみたいだ。
司さんは、店の中を見回し、すぐに私を見つけてくれると、笑顔でこちらに近づいてきた。
近づくに従って、まるで心臓の音が周囲に響いてしまいそうだった。
「ごめんな、待っただろ?」
彼は、相変わらずの、子供に接するような優しい笑顔で私にそう言うと、向かいの席に腰掛けた。私も必死に笑顔を作った。緊張で、顔が引きつりそうだった。
「い、いいえ」
慌ててぶんぶん、と首を横に振った。そんな私に彼はクスッと笑うと、近くを通ったウェイトレスさんにコーヒーを注文した。
「お疲れ様です」
つい、バイト時代の癖が出てしまい、司さんはまた笑った。
「そんな堅苦しくしなくていいよ。
それより、大変だったな」
大変だった・・・それが何のことなのか、敢えて聞き直すまでもない。
「報道で、花奏ちゃんのニュースの原稿、最初に目を通した時、人違いだと思ったし、本当にびっくりしたんだよ。でも、事務所からは花奏ちゃんに関して戒厳令もあったし、でも後輩からいろいろ聞かれるしさ・・・」
「ご心配、おかけしました」
そう言って深く頭を下げながら、彼もまた、私の失踪のことを心配してくれていた事が、不謹慎に嬉しかった。
「でも、本当に無事で良かったよ。
極端だけど、生きて会えないかも知れないって思った。
俺、そう言うニュースも今まで報道した事あるけど、まさか自分の知り合いが事件に巻き込まれるなんて考えた事もなかったから、いろいろ考えさせられた。犯罪被害者の家族とか、友達の気持ちとか、考えた事もなかったなぁ・・・
でも、実際知り合いが事件に巻き込まれると、こんな身につまされる気分になるんだなぁ」
「・・・・・」
あの、監禁されていた日々を思い出すと、鳥肌が立つ。
入院中、警察が話を聞きたい、とやって来たし、弁護士さんとの謁見もあった。精神科のカウンセリングもあった。そのたび、何度、同じことを話させられただろう?
何度、治っていない心の生傷を抉られただろう。もう,監禁中の事など思い出したくもない。
周囲には、立ち直るのが早い、と言われたけど、実質そう言うわけではない・・・と思う。考えていないだけだ。
それなのに、生傷を抉りに来る人は後を絶たなかった。
でも、不思議と、司さんの言葉は、心を抉ることはなかった。
ただ、本当に私の身を案じていてくれた・・・長く続いていた人間関係のせいか、それが手に取るようにわかった。それだけで、心が少し、体温を取り戻した。
「司さん・・・」
私は、大きく息を吸って、吐くと、司さんの顔を見た。司さんは、"何?"と言って私を見返した。
これから私が話す事、きっと司さんは想像もしていないだろう。
言ったら、彼はどんな顔をするだろう?
心臓がバクバクと音を立てて、まるで自分のものではないみたいだ。
落ち着かなく、指先が震える。唇さえ、言葉を話すのと拒絶するように震え始めた。
「あ、あのっ」
それでも、一生懸命何かを話そうとした私に、司さんはにっこり笑った。
「落ち着いて。ちゃんと待っててあげるから」
そう言って、肩に優しく触れてくれた。その手がとても優しい。ずっと、この手が欲しかった。この手を、私が触れたかった。この手に、抱きしめられてみたかった。
・・・叶わない望みだけれど・・・
バイト時代、仕事柄、何かを言いよどむことがなかった私が、こんな風に司さんの前で言葉に詰まるなんてめったになかっただろう。あったとしたら、せいぜい司さんや兄が下ネタをふっかけてきたときくらいだ。
ああ、今思えば。
あのバイトしていた時代が、今まで生きていた時間の中で、一番司さんの近くにいたのかもしれない。
研究生だった兄のレッスンを見るために事務所のレッスン室に母と通っていた時代は、本当に遠い、兄の友達、あこがれの存在だったし。
今は、もうテレビ越しに会う事の方が圧倒的に多い、別世界の人。
唯一、あの事務所でバイトしていた時は、芸能人と事務所のバイトスタッフ、という人間関係があったけど、一番近くで、一番話も出来た・・・
突然、あの時代を酷く懐かしく甘く感じた。でもその甘さは、砂糖菓子のような甘さではなく、むしろもっと自然な・・・果物みたいな酸味も苦味も混ざった甘さだった。
叶わない恋だと判っていて、それでも側にいた時代・・・
好きで、好きでどうしようもなかった。今も、あこがれ続ける存在。
でも、それも今日でおしまい・・
終わりに、する。
私は、大きく息を吸った。
「・・・司さんが・・・好きです」
ちゃんと、司さんを見て言えただろうか?
笑っていただろうか?
ちゃんと・・・
様々なことが脳裏をかすめた。
それこそ、目の前にいる司さんの表情の変化さえ、判らないほど、胸の鼓動が痛かった。
「花奏・・・ちゃん・・・?」
今までの笑みが消え、真面目な顔で私を見つめる司さんの表情を、見るのが怖い。
「ずっと、初めて会った時から、好きでした。
今も・・・好きです」
どれ位、想い続けてたんだろう? 年数を数えるよりも、胸の鼓動と想い出の数を数える方が難しい位だ。
今でも、はっきり覚えている。
初めてあった日の事も、
兄と笑顔で研究生としてレッスンを受けていた時も
デビューイベントの時も。
スタッフのバイト時代、1スタッフとして接していた頃も。
諦めるんだ、想いを伝えちゃいけないんだ、と言い聞かせた日々も。
今のテレビ越しにしか会えない事実も。
その時その時の想い、心の揺らぎ、空気の匂いまで、はっきりと思い出せる。
「あ、あのっ」
「花奏ちゃん!」
私の声と、司さんの声が重なって、一瞬私達の間に沈黙が走った。でも、彼よりも先に、私が口火を切った。
「あの、今更、付き合ってほしいとか、そういうこと、考えていません!
返事もいりません!
でも、ちゃんと、想い、伝えておきたかったんです。
そうじゃないと、私、前に進めないから!」
一気にそう言うと、私は手近にあった水のグラスを掴んで、一気に煽った。
今にも火照ってしまいそうな身体が、冷たい水で一気に冷えた。
(言っちゃった・・・)
妙な達成感と後悔が入り混じった変な気分だった。
ちらり、と司さんを見ると、司さんは驚いた顔をして、私を見つめていた。
「花奏ちゃん・・・」
突然の電撃告白を受けた司さんは、返す言葉に困っているようだった。でも、それも少しの間だけだった。
「ありがとう。花奏ちゃん」
にっこり、司さんは笑っていた。
「司・・・さん・・・?」
「いつも、俺の立場とか、芸能人だから、とか、そういった事を一番に考えて、何も言わないでいてくれたんだろ?
俺や事務所の事とか、一番に考えてくれてありがとう」
ありがとう・・・その一言だけで、想いが報われるようだった。もしも、彼が芸能人ではなかったら・・・例えば、兄の友達とかではなく、ただの学校の先輩、後輩みたいに出会っていたら・・・もっともっと早く、伝えていただろう。
彼の立場を考えたら伝えにくかった、というのも事実だし、私自身、失恋したダメージを抱えたうえで"隼人の妹"として向かい合う自信もなかったのも事実だ。
けれど。
「ごめんね」
司さんは、次の瞬間そう言った。
「俺にとって、花奏ちゃんは、隼人の妹で・・・本当の妹みたいな存在なんだ。
かわいいし、大切だけど、恋愛感情は持てない。
・・・だから・・ごめんな。
花奏ちゃんの気持ちには、応えられない」
そう言うと、司さんは頭を下げた。その仕草に私は慌てて首を横に振った。
「いいんですっ!
判ってたんです!」
そう、判ってた。
司さんが私を見る目は、いつだって、兄が私を見る目と同じで、自分より小さい、子供を守るような目、だった。
決して、異性や、恋愛対象を見る目ではなかった。今までも、・・・これからも・・・
「判って・・・たんです。
でも、伝えないと、私一生後悔しそうだったから
急に、ごめんなさいっ!」
私は深く、頭を下げた。
ああ、これで、終わりだ。
心のどこかで、呟いていた。
「あんな事件があったからかなぁ?
なんか、後悔する事とか、心残りになるような事、したくなくなったんです!
監禁されてるとき、もう二度と会えないかもって思ったら、ちゃんと告白しておけば良かったって・・・」
取ってつけたように、そう付け加えた。
でも、あの監禁されていた日々、何も考えられなくなって、このまま消えてしまうのかも、と思った時。
司さんの報道を見ながら、想いを伝えなかったことを、少し、後悔した。
あんな後悔を抱えたままではいたくない。もう一度、みんなと会いたい。そう思った。
そして。
(結斗)
不思議なもので。
私が一番好きなのは司さんなのに、あの時一番会いたかったのは、結斗だった。
そんな矛盾の答えを探せないまま、胸の奥は、2人への想いで燻っている。
それに決着をつけないと、私はもう、一歩も先へ進めない・・・
司さんとの関係が、これで終わってしまう事が、胸が痛むほど残念に思いながらも、想像していた以上に、心は軽くなっていた。
「それじゃ、私、これで・・・お時間取らせてしまってごめんなさい」
そう言うと、私は立ち上がって、彼に深く頭を下げた。
時間を取らせてしまった事もそうだけど・・・何より、私なりの区切りだった。
好きでいさせてくれて、ありがとうございます。
そして、終わる片恋に対して・・
「遅いし、送ろうか?」
そう言ってくれる司さんの優しさが、素直に嬉しかった。でも、私は瞬間的に首を横に振っていた。
「独りに・・・してください」
自然に湧き出てくる涙を、気づかれないように必死で堪えながら、私は彼にもう一度、頭を下げた。
「次に会うときがあったら・・・今まで通り接してください。
私も、そうしますからっ」
普通にそう言えたか、自信がなかった。でもそれを確認する術もなかった。
私は席を立ち、伝票を掴み、カフェを後にした。
カフェを出て、ちょうど走ってきたタクシーに乗り込み、マンション名を言うのと同時に、堪えていた涙が一気に溢れてきた。
「っふっ・・・」
バッグからハンカチを取り出し、それをぬぐったけど、いつまでたっても収まらず、タクシーの運転手さんが不審な顔をしていた。
溢れ出した涙は留まる事もなく流れ続けた。
でも、流れれば流れるほど、不思議と心が軽くなる気がした。
やっと、終わった。
恋が終わった寂しさと、やっと恋が終わった、という安堵感に身をゆだねながら、私はただひたすら、泣き続けた。




