第58話
誘拐されてから何日経ったのか、日数感覚さえ、途絶えた。
食欲もなく、草野先生が用意してくれたコンビニ弁当や外食のお惣菜さえも、全く食べられなくなり、喉の渇きさえ、忘れ去った。
誘拐された時に来ていたスーツも、凌辱が重なるたびにしわくちゃになり、草野先生の用意したジャージのような部屋着を着せられていた。でも、それを自分で着る力など残ってなくて、草野先生の着せ替え人形のように着替えさせられた。その着替えさせられる時間さえも、彼の手がいやらしく動き、やがて激しい行為に及び、嫌悪感を募らせた。
捕まったショックも、凌辱された屈辱も、ここから抜け出したい、という意思も、あの男の連日に及ぶ凌辱や脅迫を受けるたびに、どんどん削り取られていった。
それから随分経った、ある日。
ふと意識が現実に戻り、ぼんやりと窓の外を見ると、夕方になっていた。
(司さんの・・・報道・・・)
まるで条件反射のように、私はのろのろと身体を起こし、ソファの側にあるテレビのリモコンを押した。
司さんの報道は、連れてこられた日以来一度も見ていなかった。
テレビをつけると、やがて、司さんがキャスターをやっている夕方のニュース番組が始まった。
久しぶりに見る司さんの姿は、相変らずカッコよくて、その背広姿に、また心が揺らいだ。久しぶりに感じる、甘い、心の動きだった。
その姿に、目が離せなかった。
それは、初めて司さんにあった時や、初めて司さんがキャスターを務めた報道番組を見た時に似ていたかもしれない。
その司さんの口から出てくる今日の出来事を、何となく聞いていると・・・
"次のニュースです・・・
東京都で、28歳女性が行方不明となった事件で、警察は、被害者の同校職員、草野慎一に、任意で事情聴取を・・・"
草野先生の名前を司さんが読んでいた。私は思わず、テレビに駆け寄った。首に付けられた鎖がジャラジャラと音を立てて、彼の声を邪魔した。
"新堂花奏さんは依然、行方不明で、警察では、草野慎一との関係性を調べています・・"
司さんが、私の名前を呼んでいた。キャスターとしての彼に名前を呼ばれたのは初めてだった。
いつも私を呼んでくれる呼び方とは違う、感情を抑えた呼び方だった。
(花奏ちゃん)
耳の奥に焼き付いている、司さんの声、花奏ちゃん、と呼んでくれる声が、胸の奥で小さな波紋を立てた。
ニュースには、私の教師としての顔写真も出てきた。スーツに伊達メガネをしている姿だ。いったい誰が提供したんだろう?
司さんが知らない、私の教師姿。これを見た時、司さんはどう思ったんだろう?
無意識に、私は自分の片耳を指先で触れていた。そこには、いつもある筈のムーンストーンのピアスがなかった。
「ない?」
驚いて、慌ててもう片方の耳も手で触れてみたら、そちらの耳にはピアスは残っていた。
「片方・・・落としちゃったのかな・・・」
片方だけじゃ、役に立たないピアス。
それは、私と司さんの恋みたいだ。
いつだって、私の一方通行で、想いを伝える事さえできない。ただ、見ているだけの遠い存在。
そんなことを漠然と考えながら、私は気が付くと、テレビの画面に手を伸ばして、テレビに映る司さんの頬に、そっと触れていた。
何かを求めるように。
司さんに触れているはずなのに、画面の、硬い冷たい感触しかない。体温の温かみの感じない彼の頬は、無機質そのものだった。
それは、まるで私と司さんの恋を象徴しているみたいで、涙が出てきた。
(司・・・さん・・・)
もう、会えないのかなぁ…そう思うと絶望的だった。
振られるのも承知で、思いを伝えていれば、こんな後悔、しなかったのかな?
「司さん、お兄ちゃん、茉莉香さん、増沢君・・・野間先生、落合先生、横山先生・・・」
一人、一人、私の人生に関わっている人たちの顔と名前を、ゆっくりと心に描き、名前を読んだ。
そして・・・
「ゆい・・・と・・・」
きっと、私の交友関係の中で、一番多く名前を呼んだ人。そして、一番多く名前を呼ばれた人。
一番、長い付き合いの人。近くにいるのが当たり前すぎて、その想いにさえ、気づかなかった、人・・・
(花奏っ)
不意に、結斗に呼ばれた気がした。でも、辺りは静まり返ったままで、人の気配さえ、ない。
体温を失った私の身体、あの男に汚され続けた身体に、焼き付いているのは草野先生に凌辱を受けた時に感じた、冷たい体温だけだった。
身体の奥底に、まるで熾火のように、懐かしい体温が灯った気がした。
片方残ったムーンストーン。
結斗の首にも、同じ石の入ったペンダントがあった。
あれをプレゼントした時の、結斗の言葉が、突然湧き上がってきた。
"お前は月みたいだな。
静かで優しい白い光。その光で、他の奴らが癒されたり、慕ったりするんだ"
昔、結斗にもらった言葉、ずっとずっと、言われた事さえ忘れていた、些細な言葉のやり取りを、はっきりと思い出した。
(結斗に、会いたい!)
理性や心なんかとっくに砕け散った。草野先生に壊されていた私の身体は、テレビに映っている司さんに背を向けて、窓の方へと這いずっていた。
何日かの監禁生活で、足なんて以前と比べたらずいぶん弱ってしまって、立ち上がることさえ難儀だったけれど。
ふらふらになりながら、窓を開けて、ベランダに出た。
もう、怖いものなんか、何もなかった。
ただ、結斗が呼んでいる、それが全てだった。
結斗のぬくもりが、恋しかった。
他の誰よりも、結斗に会いたかった!
そして、ここを飛び下りれば・・・会える気がした。
ここがマンションの三階か四階・・・普通に飛び降りて助かる場所ではない、とか、首に鎖がつながれている、とか、そんなこと、考えられなかった。
でも、一瞬、ほんの一瞬だけ、以前、こんな風に飛び降り自殺しようとした時のことが過った。
あの時も、今も、状況も環境も違うけど、唯一、同じ想いがあるとしたら・・・今の自分の置かれている状況に、未来に、何の希望も持てない事、位だ。
理由なんてない。考えるゆとりさえない。極限に近い精神状態の中で。
目の前にはテレビに映る、大好きな司さんがいるのに。
司さんが出ている報道番組をそのままに、その場を離れるなんて、ありえない筈なのに。
いつだって、テレビ越しではなく、会えたら・・・と思うのは司さんだけだったのに!
今、一番会いたいのは、結斗だけだった。
ただ・・・結斗に会いたくて、会いたくて・・・結斗に会えれば、全てがうまくいく気がした。
ここを飛び下りたら、結斗に会える気がして。
それが全てだった。
ベランダから、下を覗き込んだ。
かなりの高さがあったけれど、怖いとは思わなかった。
次の瞬間、私は戸惑う事も迷いもなく、ベランダの下に、身を投げていた・・・
地面に叩きつけられる感覚を想像していたけれど、それは無く。
代わりに、草野に付けられた首輪が、首に食い込んで、私の首を容赦なく締めていった。
ジャラン、という鎖の音が妙にリアルに、そして遠くに聞こえた・・・




