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第43話

その日の夜。


いつもより早めに家に戻った私は、茉莉香さんにメールした。


すると、ほどなく茉莉香さんから電話がかかって来た。


"花奏? どうしたの?あなたから連絡なんて珍しいじゃない!"


茉莉香さんとは、先週末の兄の舞台初日に顔を合わせている。


「うん・・・今、話しても大丈夫?」


"もちろん!さっき、ドラマ収録が終わったの。今。次の仕事場に移動中なの。全部終わるの、22時かなぁ?"


「その後、会えないかな?」


"いいけど・・・大丈夫なの?私の仕事だって遅くなるかもしれないし、花奏、明日も仕事でしょ?"


「うん、そうなんだけど、どうしても話しておきたいことがあるの」


 私がそう言うと、茉莉香さんは一瞬、黙り込んだ。


"それ、電話じゃ話せない事・・・なのよね?"


「うん。話しづらい・・・かな?

 それと、渡したい物もあるんだ。時間、遅くなってもいいから、終わったら会えないかな?」


"いいよ!

それじゃ、仕事終わったら連絡するね!"


「ありがとう!」


"どういたしまして。大事な義妹の頼みだもの!

 それじゃ、終わったら連絡するね!"


 茉莉香さんはそう言って電話を切った。


「ふぅ・・・」


 私は大きく息を吐いた。


 こんなことを頼める人は、限られてる。


一番相談したいのは兄だけど、今舞台中で私に構ってなどいられない。


 仲の良さ、信頼出来るかどうかを考えたら、例えば野間先生や増沢君や結斗だって大丈夫だ。でも、相談するとしたら、野間先生には私の素性も話さなくてはいけなくなる。増沢君や結斗は、ともすれば当事者になりかねない存在だ。


 消去法、と言うわけではないけれど、この件に関して、今私が頼めるのは、茉莉香さん以外に考えられなかった。


 



 日付が変わるころ。


 やることを全てやり終えて、ソファーでうたた寝していると、茉莉香さんからメールが入った。慌てて起きて内容を見ると、仕事が長引いて遅くなってしまった事。これからうちに寄ってくれることが書かれてあった。


 今、ストーカー被害に遭っている私、その私の家に茉莉香さんが来る危険性が脳裏をよぎって身震いがしたけれど、このマンションに茉莉香さんが来たところで、私の知り合いかどうかを識別するのは難しい筈だ。


 そのメールを貰って数分後。部屋のインターホンが鳴った。


 ドアを開ける操作をすると、ドアの前には茉莉香さんが立っていた。


「遅くなってごめんね!」


「いいの、上がって!」


 言葉短く挨拶を交わすと、私は茉莉香さんを部屋に通した。


「急に呼び出して、ごめんなさい。

でも、どうしても、茉莉香さん以外にあてがなくて・・・」


 私は、手短にそう言い、茉莉香さんに冷たい麦茶を出した。


「それはいいんだけど・・・どうしたの?何かあったの?」


 そう促されて、私は心の中で、茉莉香さんに話すことを整理した。


 今の自分の状況。一人ではどうにもならない事、私はどうしたいのか・・・


「ね、茉莉花さん。お兄ちゃん、今どうしてる?」


「隼人さん?」


茉莉花さんは目を丸くした。茉莉花さんは兄の恋人で、同棲している。事務所も二人の交際を認めているし、世間にも公表された恋人同士だ。


「・・ん〜・・・今は舞台で忙しいよ。来月には地方公演もあるから、帰ってもゆっくり会えない位なの」


「やっぱりそうだよ・・・ね・・・」


私は溜息をついた。思った通りだ。兄をこの件には巻き込めない。


でも・・・


「ね、花奏、どうしたの?」


「ん・・・」


私は、茉莉花さんを待っている間に用意しておいた、大き目な事務封筒を差し出した。


茉莉花さんが来るまでの間、ストーカーから来た手紙と写真をコピーして、ファイリングしておいたのだ。


封筒には、封もちゃんとしておいた。


「もしも・・・私に何か起こったら、これをお兄ちゃんに渡してほしいの」


まっすぐに茉莉花さんを見ながら、私は言った。


「どういう事? 何か起こるって何?」


茉莉花さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「私ね、ストーカーされてるの」


少し前だったら、“されているのかも”と言っていた。でも、もう“かも知れない”では済まない所まで来ていた。


結斗や増沢君にも話した事を、茉莉花さんにも話した。


事務所や警察に行きにくい事情も、ストーカーの正体が、同じ職場の先輩教師の可能性があることも。


「何もないに越したことはないんだけどね・・・何かあった時、私の現状、お兄ちゃんに伝えるべきかと思って・・・でも、お兄ちゃん、忙しそうだから」


 そう言うと、茉莉香さんは大きなため息をついた。


「花奏、あなたは、隼人さんに気を使い過ぎよ。妹なんだから、もっと甘えていいんじゃないの?」


「でも・・・お兄ちゃんは芸能人で、今舞台中でしょう?

忙しいお兄ちゃんに面倒事、押し付けたくないんだ」


茉莉花さんは呆れた表情で私を見つめた。


「何言ってるのよ!隼人さんなんか、花奏の事、良いようにこき使ってるのよ!

こういう時位甘えていいのよ!」


 本気で私と兄に対して腹を立っているのが判る。でも、兄と私の間には、譲れない一線があるのも確かだ。

 普通の兄妹みたいに、甘え合うことが出来ない。兄がこの業界に入って、私だけの兄、私だけの存在ではなくなった時、私は、その甘える権利を自らの手で放棄したのだ。


 でも、今回だけ・・・そう自分に言い聞かせた。身内として。何かあったらすぐに兄にも事情が分かるように手配しておきたかった。


 「甘えてるよ。だからこれをお兄ちゃんに渡そうと思ったの。

一人でなんとかするのにも、そろそろ限界になってきちゃったんだ」


お願い。そう言いながら、茉莉花さんにファイルの入った封筒を差し出した。茉莉花さんは、私と封筒の両方を交互に見ながら、頷いた。


でも、その表情に、笑顔はなかった。


「判った。でも・・・くれぐれも気をつけて」


「ありがとう」


私は、せめて茉莉花さんが不安にならないように・・・笑った。


「それとね、もう一つ頼みがあるの」


そう言うと、私はポケットから結斗のペンダントを取り出した。


「もう、今度は何?

面倒なのは嫌よ!」


不満顔でそういう茉莉花さんをなだめるように、私は軽く、笑った。


「さっきのファイルよりは簡単だよ。

あのね、このペンダント・・・結斗に渡してほしいの。

この前うちに来た時忘れてって・・・私、ストーカーの事もあって動き回るの怖くて・・・」


茉莉花さんは、そのペンダントを見て、驚いた顔をして目を丸くした。


「これ・・・結斗のお守りじゃない!」


「お守り?」


そう聞くと、茉莉花さんはええ、頷いた。


「仕事の時も、プライベートも、ずっとつけてるわよ。

撮影の仕事で一緒になる時もあるんだけどね。

よほどじゃない限り、外さないわよ」


・・・茉莉花さんも結斗も、ファッション雑誌のモデルをやっている。同じ事務所でモデル同士、という事もあって、撮影スタジオが近くになる事もあるらしい。


「そういえば知ってる?

この前、結斗の特集が女性週刊誌であったでしょ?」


「う・・うん」


もちろん知っている。私も買った、あの袋とじになってる刊だ。でも、ストーカー騒ぎで全く見ていない。


あの、結斗の特集は・・・袋とじにになっているセミヌード。


「あの時も、アクセサリーはそのネックレスだけつけて撮影してたわよ・・・花奏、見てないの?」


「う、うん、忙しくて・・・」


「落ち着いたら見てみな!

あの俺様男が、色気垂れ流しで、気怠げに悩んでる感じでね、なんか現場ですごい評判よかったんだって!」


「気怠げに・・・悩む? 結斗が?」


私は、今まで見たことがある限りの結斗を思い起こしてみた。でも、私が知っている結斗はどれも俺様で勝気な彼だった。以前、別の雑誌で結斗の特集があった時だって、上半身脱いで筋肉美をここぞとばかりに披露していたのだ。


それが、世間一般に知られている結斗のイメージであり、私自身もまた、子供の頃から知っている結斗そのものだ。


その結斗が気怠げに悩んでいるグラビアを?


「それ、スタッフさんの指示とかじゃないの?」


私がそう聞くと、茉莉花は首を大きく振った。


「そんなんじゃないの! スタッフさんは、いつもの俺様な結斗を撮りたかったみたいなの。でも、蓋を開けてみたら、結斗の様子が変で、カメラテストの時から、アンニュイで心ここにあらずって感じだったんだって。


でも、その表情も新鮮で、スタッフも今回はこれで通そう! って事になったんだって!」


一瞬、心に引っかかるものがあった。


それは、結斗と、初めて同じ夜を明かした、あの過ちの夜・・・確かあれは、五月の連休が明けてすぐの週末だった。


「茉莉花さん、その撮影って・・・いつ頃か判る?」


そう聞くと、茉莉花さんは一瞬考え込んだ。そして、思い出したように明るい表情を見せた。


「確か・・・五月だったっけな?連休明けてすぐだったよ!

ほら、隼人さんがサプライズで、花奏の誕生日祝いやった、少し後!」


やっぱり・・・


その撮影は、あの過ちの夜の後・・・きっと直後だ。あの日の朝、結斗が時折垣間見せた表情は、私の知っている結斗の表情ではなかった。


まさか結斗は、あの後、あのまま仕事に行ったの?


仕事とプライベートの区別もつかない状態で?


或いは、プライベートを仕事に引きずる程、あの夜のことは、彼にとってもショッキングな出来事だったの?


私にとって、あの夜はまるで悪夢のような一晩だったのに。


結斗にとってあの夜は、何だったの?


最初は、言いがかりをつけての、単なる性欲処理だと思っていた。でも、そうじゃないの?


“・・・お前の事、ちゃんと好きだから・・・”


囁いてくれた、結斗の言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。


・・・考えれば考える程、私の心は自意識過剰になってゆく。


「ねえ・・・結斗に伝えてほしいことがあるの」


気が付くと、私は茉莉花さんに、ある事を伝言していた。


茉莉花さんは、不思議そうな顔をしていたけど、“判った”と頷いてくれた。


「今回だけは、花奏の挙動不審に付き合ってあげるわ!

でも・・・これだけは約束して。


絶対に無茶はしないで。自分の身体、一番に考えてね。

それから・・・全部解決したら、ちゃんと隼人さんにも私にも、話して」


「うん、約束する」


そう言いながら、私は茉莉花さんにそっと、寄り添うように寄りかかった。


今は、茉莉花さんには、感謝の想いしか思いつかなかった。


「落ち着いたら、また一緒に出かけようね」


茉莉花さんは、そう言いながら、よしよし、と私の背中を優しくさすってくれた。心地よい手に身を任せながら、私も茉莉花さんも、ウトウトと眠り始めていた。



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