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第35話

 再び、目を覚ました時は、もう午後になっていた。


 一体どのくらいの時間、眠っていたのか・・・時計を見るのが恐ろしい。


 そして、目が覚めたときも、結斗の腕の中だった。


「・・・起きたか?」


目の前の、息がかかるほどの距離に、結斗の顔があった。


「・・・ん・・・・今・・・何時?」


「最後に寝てから、1時間位。昼過ぎだ」


「そっか・・・ありがとう・・・」


 腕を貸してくれたことにお礼を言うと、結斗は照れ臭そうに笑った。


「これくらいかまわねぇよ」


 そう言うと、彼も身体を起こし、グーッと伸びをしながら欠伸をした。


「俺もここんとこ、スケジュール詰まってたから、久しぶりによく寝た」


「そういえば、結斗、今日仕事は?」


「完全オフ。明日は午後から」


「そうか・・・」


 そうでなきゃ、ここでこんなにのんびりするなんて、あり得ないだろう。


「何か…食べる?作ろうか?」


 昨日眠った時間を考えると、軽く半日以上、何も食べていない事になる。私はともかく、結斗には何か食べさせないと・・・


「いらない、お前無茶すんな」


「え?」


 結斗の言葉に、私は足を止め、彼を見た。


「今だけは、ただの花奏でいろよ。

 事務所関係者とか、隼人の妹だとか、忘れろ」


 そう言われた途端、夕べ彼に吐露した想いを思い出して、彼から顔をそむけた。


「・・・・・昨日の話?

 あれだったら気にしないでいいのに。


こういう言葉、あんまり好きじゃないけど・・・

宿命だって、昨日も言ったでしょ?


私の生きていた年数のうちで、兄や芸能界や事務所に関わってた年数の方が長いのよ。


 それに疲れちゃって、ちょっと弱音吐いちゃっただけだから、本気にしないで。

それより結斗、なんか食べておいた方がいいよ。昨日の夜から何も食べてないんでしょう?

私、料理くらいできるよ?」


 昨日の夜の事をはぐらかす様にそう言ったけれど、そんな言葉でもう、結斗は騙されてくれなかった。


彼は起き上がろうとした私の腕を掴み、再び自分の腕の中に戻した。


「ちょっと結斗!」


「いいからここにいろ。

俺もお前も、起きたら宿命って奴に準じて生きるんだったら、しばらくこうしていようぜ」


結斗はまるで私を甘やかすように、再び腕の中に優しく閉じ込めた。


そのまま、私は、再び心地よい腕の中に沈んでいった。






まともに目が覚めた時、もう夕暮れ時で、結斗は私を腕に抱きしめたまま眠っていた。


 結斗だって、同年代の男性とは比べ物にならない程多忙で疲れているのに、暴走した私をあやして、ずっとそばにいてくれた。


 それに引き換え、私は、そんな結斗に甘えて、


「丸一日近く、眠ってたんだ・・・」


その自分の行状に呆れた。


呆れながらも、お腹の空きと喉の渇きに耐えられなくなって、私はベッドからのそのそと這い出した。


なるべく、眠っている結斗を起こさないようにベッドから出ると、とりあえずシャワーを浴びるべく寝室から出ようとした。


その時・・・


化粧台の鏡に映る自分の顔が視界に入ってきた。


昨夜は、化粧も落とさず、着替えもせずに眠ったせいかひどい格好だ。


過呼吸発作を起こしたせいか、結斗は服を緩めてくれたらしく、ブラウスのボタンやスカートのホックも外されて緩めたままで寝かされていたみたいで、なまじ全裸にされるよりも卑猥な姿だ。


こんな姿で、あの結斗と一緒に寝てた・・・そう思うと恥ずかしさで絶叫しそうになる。


そんな姿の中で、目についたのが、外さないままだった、ムーンストーンのピアスだった。


(あ・・・)


 司さんがくれたムーンストーンのピアスが、耳元で光っていた。夕べ、外さずに寝てしまったのだ。


それを見た瞬間、昨日、劇場の裏で、司さんが私を見ても気づかなかった現実を思い出した。


司さんが気づかないのも無理はない。


 気づかなくて当たり前だ。結斗でさえ、兄がいて初めて教師モードの私に気づいたのだし、増沢君は、私が身に着けていた腕時計で気づいた、と言っていた。そういった特徴を見いだせない人が、私の正体に気づくわけがない・・・


「気づくわけないのにね・・・」


 本当の事をいえば・・・司さんには気づいてほしかった。


でも、結斗や増沢君のように、私だ、と気づく決定的なものが、司さんにとってなかったのだ・・・


「このピアス、つけてたのになぁ・・・」


 昔、司さんがくれたムーンストーンのピアスは、昨日の兄の舞台の時もつけていた。それでも司さんは私だと気づかなかった。装飾品の大きさの差は勿論あるし、昨日のあの時、司さんと私の距離感で、ピアスに気づくのは無理のはずだ。ピアス一つで、私だと断定するのは無理だろう。


それでも・・・


「・・気付いて・・・欲しかったよ」


他の誰よりも、司さんには、“私”を見つけて欲しかった。たとえそれが、私のエゴだとしても・・・


私は、泣きそうになるのをこらえ、ピアスを外し、化粧台の上の宝石箱に入れた。


別に、結斗の告白や行為で、司さんへの想いがぐらついた訳ではない。


 私だと気付いてくれた増沢君や結斗と比べたとか、司さんが劣っているとか、そんな恐れ多いことを考えた訳ではない。


でも・・・決して振り向いてくれることのない、高い高いところにいる存在を想い続けることに、少し疲れてしまったのかもしれない。


「花奏?」


不意に呼ばれて、ベッドの方に振り返ると、結斗が目を覚まして、ベッドに座ってこちらをじっと見ていた。


「・・・司さんのこと、まだ気になるのか?」


その言葉は、私を咎めるものではなく、私の意思確認のように聞こえた。


ずっとずっと、結斗は、私が司さんに片思いし続けているこも、どうして私が想いを伝えずにいたかも、知っている。それだけ、結斗とは長い付き合いだ。


私が答えずにいると、結斗はベッドから立ち上がり、私に近づいてくると、私を背中から抱きしめた。


「っひっ!」


突然のことに声さえ出ないで入り私に、結斗は耳元で囁いた。


「忘れさせてやろうか?」


低く甘い囁き声は、それだけで破壊力があり、弱さを曝け尽くした私には、抗うことなどできない。


「司さんが、心の片隅にも入れなくさせてやろうか?」


いったいこんなセリフ、いつの間に覚えたんだろう・・・知り合った子供の頃は、単なるスポーツ少年だったのに・・・


一方、心をガードする物を何もなくした私は、その腕を振りほどくことも出来ない程だ。


「反則・・・だよ?」


一言だけ言った。すると、彼はふっと笑って、諦めるように私を自由にしてくれた。


「しょうがねぇな」


背中から抱きしめられた、彼の腕の体温が、また体に残ってしまった。


昨日より前だったら、彼のこんな行動、絶対拒否していた。でも、今はもう、拒否しなくちゃ、という危険信号さえ、私の中から出て来なかった。拒否するにも、相応に体力や気力が必要で、今の私には、もうそれさえ、残っていない。

 

 演じることも、同じだ。


 "隼人の妹"を演じるときも、"新堂先生"を演じるときも。いつだって意識を自分の内面に向けて、自分に強い自己暗示をかけて、演じる自分自身を強くイメージして、言い聞かせながら演じている。


 それには、かなりの気力と精神力が必要だった。普段は何でもない事だけれども、ストーカーの一件でそれらさえも削がれていたのかも知れない。今の私にはそんな気力も精神力も、残っていなかった。


「人の弱みに付け込んで手籠めにするのは、イエローカードなんだよ?」


 ふざけるようにそう言ったけれど、彼は悪びれもせずに、にやりと笑った。


「計画的に弱らせて、反撃できなくなってからトドメ刺すのも、立派な戦略だぜ?

たとえイエローカードでも、一発退場にならなきゃまだフィールドに立っていられる」


「考え方がアスリートだね」


「せめて知能犯にしてくれ」


結斗と言葉のキャッチボールをしながら、ずいぶん心が軽くなっているのに気づいていた。


そう考えると、結斗に眠らせてもらう前までは、私は考えている以上に精神的にやばい状態だったのかもしれない。自覚こそないけれ


ど、一連のストーカー事件は、全てにおいて、私を擦り減らさせていた、という事だ・・・



##################




 一日中閉めきっていたリビングの窓を開けた。すると、都内の夕暮れ時の風が入って来た。丸一日、窓を開けることもエアコンをかけることもなかった夏の初めのリビングは、たったそれだけで、すぐにいつも生活する温度と湿度を回復した。

 

 結斗に先にバスルームを譲って、私はその間に軽い夕ご飯を作った。


 本当なら、今日の昼間、食料の買い出しにでも行こうと思っていたので、冷蔵庫の中はあんまり食べ物が入っていなかったけれど、パスタと簡単なサラダ位は作ることが出来た。


 あっという間に食事の支度が終わり、冷蔵庫の中からミネラルウォーターのペットボトルを引っ張り出して、一気に空にした。


 キッチンに立ってから、ミネラルウォーターのボトルを開けたのは、これで三度目だ。さっきから、水ばかり飲んでいる自分に呆れた。けれど、昨夜からの私の行状を考えると、泣いたり怒ったり感情を暴走させたりと、水分補給が必要な気がする。


三本目のミネラルウォーターを飲みながら、行きがかり上とはいえ、結斗と一緒に過ごしてしまったこの1日を思い出した。


「まずいよ・・なぁ・・・」


こんな事実、事務所やファンに知られたら大変な事になる。例えここが、もともと兄の部屋で、その縁で結斗や事務所のタレントがちょくちょく来る・・・という事実があったとしても、周囲をいつまでごまかせるか判らない。


バレたら、結斗の周囲は大騒ぎだろう。


 そんなことを考えて落ち込んでいると、結斗がバスルームから出る気配がした。


 バスルームの脱衣場には、兄の着替えを置いておいた。兄もよくここに泊まりに来るので、兄の着替えは一揃え置いてある。サイズも問題はないだろう。


 バスルームから結斗が出てきた気配がしてずいぶん時間が過ぎてから、結斗はリビングにやってきた。


兄がここに来た時に着るTシャツと柔らかいデニムズボン、洗ったままの髪の毛をバスタオルでガシガシと拭きながら、手には携帯と書類を持っていた。


「遅かったね」


「ああ・・ちょっとマネージャーに連絡してた」


 そう言ったけれど、結斗の顔は曇っていた。


「何かあったの?」


 まさか結斗が、ここにいる事が、外にバレたの?


 一瞬、そんな不安が過った。


「これ・・・」


 結斗に差し出された封筒を見て、全身に鳥肌が立った。


 無機質な、真っ白な封筒。宛名には住所がなく、"新堂花奏様"とだけ書かれてある。


 あのストーカーからの手紙だ。


「今、外のポストに行ったら、入ってた・・・これ、例のストーカーからだろ?」


 そう聞かれて、私は頷いた。


 でも・・・受け取る勇気はもうない。


 差し出された封筒を受け取ろうと手を伸ばしたけれど、指先が震えて、自分の意志でうまく動かない・・・


昨日の夜から今日にかけての、一連の結斗との出来事は、気丈な筈だった私をひどくを臆病にしていたようだ。


 そんな風に受け取るのを戸惑っていると、


「開けるぞ」


 結斗はそう言って、封筒を丁寧に鋏で開けた。


 開けた封筒からは、数枚の写真と、手紙。手紙はパソコンで打たれたもので、筆跡など判らない。


 そして今度の写真は・・・

 

 昨日、私が兄の舞台を見に行った劇場で、私が増沢君と話している写真と


 草野さんと一緒に、駅からマンションまでの道を歩いている写真、だった。


 手紙には・・・


"愛しい花奏

君には随分悪い虫がついているみたいだね


あんな男、君にはふさわしくないよ

君にふさわしいのは俺だけだ


それを証明してあげるよ


来週、試験が明けたら会いに行くから

楽しみにしていて"



 そう、書かれてあった。


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